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不機嫌なハミング <第4章>

    【あらすじ】

    小野寺雅斗は、アメリカの買収工場を立ち上げる初代工場長。冷酷な本部長の圧力や、文化も常識も異なる現地従業員との衝突に、独自の「戦略」で耐え忍んでいた。さらに、慣れない異国生活でストレスを抱える家族との間にも、いつしか見えない溝が生まれ、雅斗の不機嫌な鼻歌(ハミング)は止まらない。そんな中、心を閉ざした若き出向者が赴任してきたことで、工場の歪んだ歯車は予期せぬうねりを上げて回り始める。

    異文化と家族の距離に翻弄されながらも、混迷の果てに見出した国境を越えた共通項、そして隠された驚くべき真実とは――。

    42.195kmのマラソンと工場再生が完璧にシンクロする、ビジネスと家族の魂の再生ストーリー!

    つらい……。

    路面を踏み込むたびに両ひざの少し下側に鋭い痛みが走る。

    右足首の奥で、度々重い鈍痛が疼くのも気になる。

    身体が、オレの言うことを拒絶し始めていた。

     
    30km以降の設定ペースは、5分50秒。それなのに、どうしても6分を切ることができない。

    ペースを上げようとしても二、三歩進んだところで、ひざの痛みのせいで肉体が自動的にブレーキをかけてしまう。

    雨足も強くなってきたので、身体中に当たる雨がオレの前進の抵抗にもなっている。

     
    今年の一月にサブ4達成という目標を立て、地道に努力を積み上げてきたはずだった。

    まず最初に、二十年以上吸い続けてきたタバコをきっぱりと辞めた。

    大好きなアルコールも、サブ4の肉体構築にはマイナスだと判断して摂取を控えてきた。

    体重も5kg絞った。

    金哲彦の著書に書かれている通りに綿密な戦略を立て、練習メニューを消化してきたのだ。

    100%とは言えないまでも、少なく見積もっても八割はやり遂げてきたはずだ。

     
    それなのに―――なぜ、キロ6分を切ることすらできないのだ?

     
    全身のエネルギーレベルが、急速に底を突いていくのを感じる。

     
    また一組、北欧系と思われるカップルが、楽しげに会話を交わしながらオレを軽々と追い抜いて行った。

     
    なぜ30kmを超えてなお、そんなに軽快に走ることができるのだ?

    なぜ談笑しながら走り続けられる?

     
    またひとり、オレと同世代と思われるアジア系男性に追い抜かれる。

    ハッ、ハッ、と軽快なリズムの呼吸音があっという間に遠のいていく。

     
    なぜ彼はオレと同世代であるにもかかわらず、全くペースが落ちないのだ?

     
    突然、雨粒が右目に入り込み、フラストレーションが増幅される。

    天気さえ良ければ―――こんなに無駄な体力を消耗することもなかったはずだ。

    路面の水たまりを神経質に避けながら走る必要もなかった。

    滑りやすそうなアスファルトに怯えなくてもよかった。

    雨で濡れた顔を、何度も手のひらで拭わなくてもよかった。

    天気さえ、良ければ……。

     
    また、背後からひとりに追い抜かれた。

    ずぶ濡れになったみすぼらしい子猫のような老人が、ヒョコヒョコと不格好なフォームでオレの前を走っていく。

    こんな老人にまで、四十八歳のオレは負けるというのか……?

     
    それは、絶対に嫌だ。

    オレは無理矢理ギヤを上げ、強引にその老人の前に出た。

    きつい……。

    このペースを長くはキープできない。

    ガーミンに目を落とすと、ほんの少しだけ6分を切っていた。

     
    だが、背後から濡れた路面をヒョコヒョコとリズミカルに叩く足音が、再び近づいてくるのがわかった。

    左目の視界の端に、さっきの老人の白いキャップが滑り込んでくる。

     
    あっ、と声を出しそうになった。

    ゴラムだ。

    スタート地点でオレのわずか二列前に佇んでいた、七十代と思われるあの小柄な老人だった。

     
    こんな老人に、四十八歳のオレが負けるわけにはいかないのだ。

    もう一度、奥歯を噛みしめてペースを上げる。

    ゴラムの背中が視界から消えた。

     
    息苦しい……。

    両ひざの激痛に、歯を食いしばる。

     
    しかし、またしてもゴラムが何事もなかったかのように視界に入ってきて、オレをヒョコヒョコと追い越していく。

     
    慌ててガーミンに目をやると、表示は6分12秒を示していた。

    ペースが、上がっていない?

    これほどまでに苦しいのに、なぜペースは落ちていくんだ……?
     

    ゴラムのヒョコヒョコとした足音がだんだんと遠のいていく。
     

    待て、ゴラム。

    こんなはずじゃない。

    オレの戦略では、こんな展開はあり得ないのだ。

     
    ひょっとしたらゴラムは元陸上エリートで、とんでもないベストタイムを持っているランナーなのではないか?

    だとすれば、オレごときが敵う相手ではないのかもしれない。

     
    いや、だが、所詮は七十代の老人だ。

    肉体的な衰えは隠しようがないはずだ。

    彼にできて、オレにできないはずがない。

     
    天気さえ良ければ。

    この両ひざの痛みさえ、消えてくれれば―――。

     
    オレの切実な願望を置き去りにして、ゴラムの小さくて頼りない背中は、どんどん小さくなっていく。

     
     
    傷つけあうのが こわかった昔は
    遠い過去のこと
    人には人を傷つける
    力があったんだろう
     

    ◇

     
    『体調がすぐれないので、本日はお休みさせてください』

    通勤のために自宅を出ようとした小野寺雅斗のスマホが鳴る。木下凪からのテキストメッセージだった。

    元々物静かな若者だが、ここ最近は特に元気がない様子だったので、雅斗も気にはなっていた。

    凪が着任する数ヶ月前まで、このミズーリ工場には日本酒の成分分析をする現地アメリカ人の分析員が何人か籍を置いていた。しかし、そのいずれもが、工場の環境に馴染めず、かつFuso Sake USAの求める厳格な分析精度に実力が及ばず、短期で退職している。スキルの高い優秀な分析員を雇うだけの予算は、Fuso Sake USAの地方工場に過ぎないここには充てられない。どうしても低賃金でのオファーにならざるを得ず、結果として集まる人材のレベルは下がってしまう。そこへ高精度の数値を要求するのだから、長続きしないのも無理はない、と雅斗は半ば分析員の現地採用を諦めていた。だが、日本酒を製造していくにあたって、各工程での品質分析を省略するわけにはいかないので、雅斗自身がシカゴ本社の上席分析員の特訓を受けた後、日々の分析業務を担ってきたのだった。凪が着任してからは、ようやくそれらの業務を引き継ぐことができ、工場長としての本来のマネジメント業務に専念できるようになった―――という切実な背景があった。

    『了解です。慣れない海外での仕事で、疲労がたまっている頃と思うので、ゆっくり休養してください。今日中に何かやっておくことがあれば、私でできることはやっておくので、連絡ください。』

    雅斗はそう凪に返信し、重い足取りでシボレーに乗りこんだ。

     
    工場に着いた雅斗は、ユニフォームに着替えるとすぐに製造現場の巡視に向かった。凪から指摘のあった、日本酒の原料米を蒸缶へ垂直搬送するコンベアの異音を確認しようと近付いたところで、明らかに擦れたような金属音が昨日よりも大きくなっていることに気付いた。今やケーシングに直接耳を当てずとも、騒然とした場内に響き渡るほどの音量になり、不規則な間隔で唸り続けている。ケーシング側面の点検口を見ると、白い米粉が堆積している。数ヶ月にわたって、内部点検をした形跡はどこにも見られなかった。

    雅斗は、場内を歩き回り、製造部長のアレックスに見つけて声を掛けた。

    「おはよう、アレックス。調子はどうだい?」

    「マサ、おはよう。絶好調だよ!君は?」

    「悪くないね。……垂直コンベアの異音が昨日よりも明らかに大きくなっている」

    「それはマズいね。昨日、リュックが点検をして、問題がないと彼は言っていたはずだけれども……」

    「リュックはどうやってそこを点検したのか、君は具体的に知ってるかい?」

    「いや、知らない。ただ、彼から問題なしという報告を受けただけだよ」

    ―――なぜ、部下からの報告をただ鵜呑みにするだけで、自分の目で事実確認をしないのか。この製造部長の危機管理意識の低さに苛立ちを覚えつつも、雅斗は、渡米前に日本で受けた研修を思い出していた。

    『異文化コミュニケーション&駐在員マインドセットプログラム』。

    一口に「外国」といっても、国や地域によって文化は大きく異なること、日本の常識は海外の非常識であるといった内容が軸のものだった。その中の「ネガティブ・フィードバック」に関する項目が、雅斗にとっては印象的だったので、鮮明に記憶に残っている。当時の雅斗は、アメリカのビジネス現場ではお互いに思ったことを歯に衣着せぬストレートな言葉でぶつけ合い、ノーサイドで議論を終了するものだと思い込んでいた。しかし、その研修の講師は、こう言った。

    「ネガティブなフィードバックは、日本の場合、かなり間接的に行いますが、アメリカも本質的には変わりません。我々はよく『サンドイッチ』で伝えると良いと申し上げています。つまり、最初にポジティブな内容を伝えます。平たく言うと、褒めるということです。続いて、本当に伝えたい改善点や指導内容―――いわゆるネガティブな中身を挟み込む。そして必ず最後はポジティブな内容で会話を終えてください。ポジティブ、ネガティブ、ポジティブ、の『サンドイッチ』です。いきなりダメ出しから始めると、アメリカ人の多くは強烈な不満を感じ、ひどいケースでは、『この人は、私のことが嫌いなんだ』とかなりひねくれた解釈をしかねません」

    何とも面倒で幼稚な人種なんだな、と雅斗は閉口したものだったが、郷に入っては郷に従えだ。それに沿ったマネジメント戦略を展開するしかなかった。

    「オッケー。しっかりとリュックから報告を受けてくれたんだね。ありがとう」

    まずは、サンドイッチのパンを差し出す。

    「ただ、異音が大きくなっているのは、確かに変だね……」

    「そうだね。完全に故障してラインが止まる前に、コンベアのケーシング横についている点検口を外して、内部の構造を直接確認するようリュックに指示してくれ。君の鋭い視点が必要だ」

    ネガティブをポジティブで挟み込む。

    「了解。オレも、ちょうどそれがベストだと思っていたんだ」

    本当に思っていたんだったら、私が口を挟む前に自発的に指示してほしいものだと、雅斗の胸に釈然としない思いが広がったが、それでも大人の笑顔を張り付かせた。

    「頼むよ。また、その結果を教えてくれ」

     
    オフィスに戻る薄暗い廊下の途中、ポケットに手を突っ込んだリュックが、フラフラと製造現場に入って来るのが見えた。

    「やあ、リュック、元気かい?」

    「出勤してるだろう?」

    挨拶の代わりに、不遜な言葉が返ってくる。

    「……そうだね。昨日、垂直コンベアから出る変な音を調べてくれたらしいね。どうだったんだい?」

    「ああ。トーマスが持って来た予備のモーターと入れ替えたら、一発で動いたぜ」

    「……ん?何の話だ?コンベアの話をしているんだよ」

    「わかってるよ。だからモーターを変えたら、動いたから問題ないって言ってるんだ。モーターが息を吹き返した瞬間、すべてを直すオレは、自分のことを神だと思ったぜ。ワハハハ!」

    笑いながら、黒人特有のアクセントで早口でまくし立てるリュックの英語に、雅斗はめまいを覚えながら、ハッと重要な事実に気づいた。

    「それって……、生酒の移送ポンプのことを言っているのかい?」

    「そうだよ。お前が言っていた青い中国製のヤツさ」

    「違うよ、リュック。私が今聞いているのは、原料米を蒸煮タンクに垂直に送るコンベアのことだ。あの擦れ合うような異音のことだよ」

    「ああ、そっちか。次から次へと中国製が壊れるから、オレは忙しくて敵わないんだ」

    「君がハードワークなのはよく知ってるよ」

    雅斗は、ここでもサンドイッチ戦略を意識する。

    「毎日のように機械の面倒をみてくれて感謝している。……話を戻そう。垂直コンベアの状態はどうだい?」

    「昨日、点検した。問題ないぜ」

    「ケーシング内部のチェーンが、壁面に干渉しているんじゃないのかい?」

    「チェーンはどこにも当たっちゃいない」

    「なぜ、そこまで言い切れるんだい?」

    「中を見たからだ。当たり前だろう。いくら神のオレでも、中を見なきゃわかりっこないからな」

    ニヤニヤしながら話すリュックの無礼な態度に苛立ちながらも、雅斗は平静を装って返す。

    「どこから中を見たんだい?」

    「窓からに決まってるだろう」

    「ケーシング側面の点検口のことかい?」

    うんざりした様子でリュックが、そうだ、と答える。

    雅斗がさっき確認した時、点検口のネジの周りには白い米粉がびっしりと積もっていた。少なくとも数ヶ月は誰も触っていないに違いない。明らかにこの男は嘘をついている。しかし、ダイレクトにそれを指摘するとアメリカ人である彼のプライドを傷つけ、悪行がエスカレートすることになりかねない。

    少し思案した後、雅斗は、リュックに語りかける。

    「点検口からわざわざ中を見て確認してくれて、ありがとう。助かるよ。ただね、さっきみたら、昨日よりも異音は大きくなっているんだ。悪いが、今日中にもう一度、点検口を外して中を覗いてくれ。君なら、何かの異常を発見できると思うし、完全に故障する前に修理できれば、かなりグレイトだ」

    「わかった。時間を見つけてやっておくぜ」

    納得したのか、そうでないのか、表情からは読み取りにくいが、雅斗はリュックとの会話を切り上げた。フラフラと製造現場に入っていくリュックの背中を見つめながら、雅斗は喉の奥で、またしても不機嫌なハミングを漏らしていた。

     
    オフィスに戻った雅斗を待っていたのは、ラップトップのモニターを埋め尽くす大量の未読メールだった。

    日本との時差があるため、多くのメールは夜中に届く。すぐに回答できるものから、一件一件順番にクリアしていく。親会社である扶桑酒造の本社からの各種問い合わせには、内容が重複しているものも少なくない。部署間で情報共有してくれれば、出向者の負担が減るというのに。いつもながらの鬱屈を抱えながらも、キーボードを叩き続ける。

    一時間が経過した頃、製造部長のアレックスが雅斗の部屋の扉を遠慮がちにノックして入ってきた。

    「ハイ、マサ。邪魔してゴメンよ。ナギーを探してるんだけど、どこにいるか知ってる?」

    「ごめん。伝えてなかったね。彼は体調不良で、今日はお休みだ」

    「大丈夫なのか?」

    「詳細は知らないけど、アメリカに来て二ヶ月間、かなりのボリュームの業務を抱えていたからね。張り詰めていた糸が切れて、疲れが出たのかもしれない」

    「すぐに良くなるといいね……」

    アレックスの表情が、妙に重たく曇った。

    「そうだね。……何か心配事でもあるのかい?」

    「……うん。実は、トーマスから聞いたんだけどね」

    アレックスが周囲を気にするように声を潜めた。

    「リュックとナギーの関係があまり良くないかもしれないんだ」

    「どういう意味だい?」

    「かなりキツイ口調で、リュックがナギーを責めている場面を、トーマスは現場で何度か目撃したらしいんだよ」

    「リュックが、ナギーを?どんな内容で?メンテナンスのリュックと品質管理のナギーが直接関わる業務など、ほとんどないはずだろう?」

    「そうなんだけど、ナギーが色んなタンクから分析用のサンプルを採取することがあるだろう?その時に、細かいことで難癖をつけてるっぽいんだ」

    「難癖?よくわからないな」

    「トーマスが聞いたのは……、『若造が偉そうにするな』と、リュックが言ってたって」

    「何だって?」

    「『自分よりも経験の浅いアジア人の従業員が、製造現場を我が物顔で歩き回って、何をしているのかわからないから、不愉快だ』ってことだよ」

    「自分よりも経験が浅いって……、ナギーは専門の醸造技術者だ。リュックとはそもそも畑が違う。ナギーが製造現場でどんなサンプリングをしていようが、リュックに難癖をつけられる筋合いは一切ないはずだ」

    「もちろん、その通りさ、マサ」

    「そもそも、一従業員に過ぎない男が、工場を自分の縄張りのように主張すること自体が完全に間違ってる」

    「ちょっと待ってくれ、マサ。わかってるよ。オレはただ、トーマスから聞いた話を工場長であるマサに伝えただけだよ」

    雅斗は、自分の感情のコントロール戦略が急激に乱れていくのを自覚した。

    「リュックの言動には、私も日頃からストレスを感じることがある。誤解を恐れずに言わせてもらうと、彼は日本人をバカにしているように思えることも少なくないんだ」

    「……彼は、古い人間だからね。オレもふたりの関係を注意してみておくよ」

    「ありがとう。そうしてくれ」

    アレックスが部屋を出て行った後に、静まり返った工場長室で、雅斗は大きくため息をついた。

    凪は、おとなしい性格の持ち主だ。雅斗自身が思っているよりも、繊細で気
    が弱いのかもしれない。高圧的なリュックに真っ向から言い負かされ、傷ついている凪の姿が容易に想像できた。

    イジメ?―――まさか、社会人にもなって、そんな幼稚な嫌がらせがこの職場で行われているというのか。今朝になって、凪が突然休むと言い出したのも、それが原因なのか?

    凪がミズーリ工場に赴任して来るという話をした時に、アレックスが教えてくれたリュックの一言が思い起こされた。

    「どうせすぐに尻尾を巻いて、日本に帰るさ」

    イジメ抜いて、精神を崩壊させて日本に送り返してやる、ということか?自分の聖域を荒らす下等なアジア人を排除してやる、ということだろうか?そんな傍若無人なふるまいを、工場長として看過しておくわけにはいかない。

    明日、凪が出勤してきたら、一度じっくり話を聞いてみよう。

    雅斗の喉の奥から、またしても鼻歌が漏れ始めていたが、本人はそのことに全く気づいていない。


    その日の午後から雅斗は、狭い分析室にこもり、麹と酒母の成分分析に忙殺されることになった。たとえ分析担当の凪がいないからといって、日々のデータ収集を止めるわけにはいかない。分析を進めて数値を確定させなければ、適切な発酵条件が出せず、仕込工程そのものに遅れが出てしまう。以前、シカゴ本社受けた分析研修の分厚い資料を引っ張り出し、記憶を呼び起こしながら、黙々と分析業務を進めていく。

    ふと、デスク脇にあるガラス製品の回収箱が、雅斗の目に留まった。

    割れたビーカーやフラスコ、ホールピペットの破片が、やけに大量に溜まっている。雅斗は、自分が凪に業務を引き継ぐ前には、こんな凄まじい量の破損ゴミは入っていなかったはずだと、激しい違和感を覚えた。凪は、見た目よりも不器用なのかもしれないと一瞬思ったものの、そうではない、と思い直す。これは、何かのシグナルかもしれない。凪は、何か気がかりなことがあって、分析の手元に集中できていなかったのではないか?そしてその原因には、あのリュックが確実に関係している―――。

    その時、分析室のドアが、ノックもなしに無遠慮に開け放たれた。当のリュックが傲慢な態度で入って来る。

    「ナギー、いるか?……、ん?なんだ、マサか。ナギーは?」

    「彼は今日、休んでいるよ。体調不良だ」

    「そうか。なら、いい」

    踵を返して立ち去ろうとするリュックに、雅斗が話しかける。

    「ナギーに、何の用だったんだい?」

    「別に。明日でもいい」

    「私でできることがあれば、言ってくれ」

    「オレは、アイツに用があるだけだ」

    「メンテナンスの君が、品質担当の彼に、どんな用事があるんだい?」

    「仕事の用事だ」

    「だから、その具体的内容を言ってくれ」

    自分の口調が少し荒くなっているのを雅斗は、自覚していたがそのまま続ける。

    「私は、ここの工場長だ。従業員が現場で困っていたら、それを速やかに解決する責任がある。何か問題があるなら、私に話してくれないか?」

    「オレは、ナギーに用事があるだけだ。マサ、お前に用はねえよ」

    「どういう意味だ?」

    雅斗がリュックに詰め寄ろうとした瞬間に、アレックスが血相を変えて分析室に飛び込んで来た。

    「垂直コンベアが、完全に止まった!」

    「何だって?」

    アメリカ人の極端な早口の英語は、今も雅斗は、うまく聞き取れない。状況を察したアレックスは、少しゆっくりした口調で、繰り返す。

    「垂直コンベアが、動かなくなったんだ」

    わかった、と頷き、雅斗は、リュックの方に振り返った。

    「リュック、今朝、再点検を頼んだはずだが、やってくれたのか?」

    「オレは忙しいんだよ」

    リュックは眼光をそらさずに言い放った。

    「やったか、やっていないのか、それだけを答えてくれ」

    「見たぜ。午前中は何も問題なかったぜ」

    見かねたアレックスが、ふたりの間に割るように声を張った。

    「オレからも、今一番に指示したよな、リュック」

    「ああ、聞いたよ。だから、見たって言ってるだろうが?午前中はノープロブレムだったんだ」

    「点検口を空けて、中を確認したのか?」

    ああ、と面倒臭そうに顔をしかめながら返事する。

    「中国製はチープで、最悪だからな」

    無視して、アレックスが続ける。

    「午前中は、ずっとコンベアは回っていた。いつ点検口を開けたんだ?」

    この男は、今もその場しのぎの嘘をつき続けている―――雅斗は、それを完全に確信した。アレックスの質問をあえて遮り、リュックの目を見据えて、別の質問をぶつけた。

    「プラスチック製のチェーンは、とても壊れやすい。鉄に比べて軽いというメリットはあるが、一旦何かに干渉し始めると極端に寿命が短くなることくらい、プロのメンテナンスなら当然知っているよね?」

    「……だから、中国製のプラスチックはダメなんだよ」

    リュックのその口から出た回答を聞いた瞬間、雅斗の胸の中で、冷たいパズルのピースが噛み合った。雅斗は、静かな声で言った。

    「もう一度聞くよ、リュック。君が午前中に確認したという、その『プラスチック製のチェーン』の状態は、本当に問題なかったんだね?」

    「問題なかったと何度言ったらわかるんだ!ノープロブレムだ!」
    リュックが激高して声を荒げると、激しく足を踏み鳴らして分析室から出て行った。

    アレックスも慌てて彼を追いかけようとしたが、雅斗は、その肩を強い力で静止した。

    「何をするんだ、マサ?早く対処しないと、今日の米が蒸せない!製造が完全にストップしてしまうよ!」

    「落ち着いて聞いてくれ、アレックス」

    大きく息を吐き出しながら、アレックスは、オッケーと応える。

    「リュックは、最初から内部など一度も確認していない。昨日の時点で、『中を確認した』と彼は言ったが、さっき私が確認した時、点検口のボルトには数ヶ月分の米粉が積層していた。もし彼が本当に点検口を外していれば、米粉は床に落ちているはずだ」

    「……いや、だけどコンベア周辺はいつも米粉が舞っているよ。外した点検口を元に戻した後に、また積もったんじゃないのか?」

    「アレックス。君は、彼が点検口を外して作業している姿を、自分の目で一度でも確認したかい?」

    「……、いや、していない」

    「組織を監督する立場の人間は、部下が何をしているか、常に自分の目で事実を確認しなければならない。事実と、相手の推測、そして言い訳をきちんと区別するんだ」

    「……わかった」

    アレックスは神妙に頷いた。

    「それと、もうひとつ決定的な証拠がある。あの垂直コンベアのバケットを搬送しているチェーンは、プラスチック製じゃない。鉄製だ。前にモーターのギヤのグリスの状態を調べた時に、実際に私自身が確認している。図面上も『鉄製チェーン』と明記されているんだ。プラスチック製じゃなくて、鉄製だ」

    アレックスが、あっと息を呑んで言葉を失った。

    「リュックが『午前中にプラスチックチェーンを確認した』というのは、完全な虚偽の報告だ。なぜなら彼は、あの駆動チェーンの本当の材質すら知らなかったわけだからね。彼は、上司である君に、真っ赤な嘘をついたんだよ、アレックス」

    「……あの野郎……!」

    製造部長の顔が、怒りで一気に気色ばんだ。

    「君に強く言いたいのは、マネジメントに就く人間は、自分の目で現場の事実を確認しなければならないということだ。部下は、リュックのように平然と虚偽の報告をすることもあるし、本人が誤解したまま報告することもある。工場を管理する上で最も大切なのは、『事実が何か』ということだけだ。それを知るには、我々自らが、自分の目で事実確認するしかないんだよ。それが、私のマネジメント戦略だ」

    「……オレは、リュックを頭から信じたわけじゃ……」

    「そうであれば、なおさら自分の目で確認しないとね。君ならできる優秀な部長だと思うが、私が間違っているかい?」

    「……いや。ありがとう、マサ。オレのミスだ……」

    ふたりで分析室を出て、騒然とする製造現場へと急いだ。

    ―――この手痛いトラブルが、アレックスの製造部長としての力量を引き上げるための育成戦略として機能してくれれば良いが。雅斗は、胸の奥で、じりじりと焦げ付くような焦燥を抱えながら、そう自分に言い聞かせていた。

     
    結局、垂直コンベアが突如動かなくなった原因は、雅斗の見立て通りだった。バケット搬送用の鉄製チェーンが長年の酷使によって経年的に伸び切ってしまい、ケーシングの内壁に干渉し続けた結果、ついに限界を迎えて破断したのだ。幸いにも、前身の中国系調味料会社から遺されていた同型の鉄製チェーンが予備品倉庫の奥に保管されていたため、チェーンを入れ替えるだけで無事にコンベアを復旧することができた。製造計画にも大きな狂いが生じなかったことに、雅斗は、安堵した。

     
    だが、トラブルが解決した翌日、雅斗の心を再びささくれ立たせる報告が上がってきた。

    リュックが帰り際に、事務員のエレナに対して、せせら笑いながらこう吐き捨てていたというのだ。

    「うちの日本のボスは、鉄製のチェーンをプラスチックだと言っていたぜ。アジア人は、鉄とプラスチックの区別もつかないらしい」

    エレナは激しい憤りを露わにしながら、こっそりと雅斗にその事実を教えてくれた。

    あのカフェでの一件以来、エレナは、雅斗に対して絶対的な信頼を寄せていた。雅斗のコミュニケーション戦略は、想定以上に彼女の心に深く刺さっているようだった。

    しかし、と雅斗はデスクの上の冷え切ったコーヒーを見つめながら思案した。リュックをこの工場から排除する「Xデー」は、雅斗の当初計画よりも、大幅に前倒ししなくてはならない。

    考え込んでいる様子の雅斗に、エレナが遠慮がちに話しかけてくる。

    「マサ、ちょっといい?今、忙しい?」

    「大丈夫だよ。何だい?」

    躊躇していた彼女が意を決したような表情に変わった。雅斗の了解を取ると、工場長室のドアを静かに閉めた。

    ―――また何か新たな人間関係のトラブルでも発生したのだろうか、と雅斗は身構えた。

    ふたりでソファに腰かけたものの、エレナは、一向に口を開かない。カラフルなマニュキュアが塗られた自分の指先をせわしなく触っている。

    「どうしたの、エレナ?何か困ったことでもあるのかい?」

    「……私がここで働く前に、ケアホームで働いていたことは知ってるわよね?」

    もちろん、と答えながら、雅斗は、エレナの履歴書を頭の中で呼び起こした。現在、三十四歳の彼女は、高校中退後、いくつかの施設を転々としながらも、一貫してハウスキーピングの仕事を続けてきた。この拠点が中国系の調味料会社だった時代からここで働き、受付業務をこなす傍ら、オフィスエリアの清掃も献身的にやってくれている。カーペットに付着した頑固なシミに効果的だとされる洗浄剤を試してみたいなどと雅斗に提案してくることもあり、オフィスが常に清潔に保たれているのは、彼女のおかげと言っても過言ではない。雅斗の渡米直後の混乱期には、地元のサンドイッチなどを買って来てくれたりするような、細やかな優しさを持っている。母性が強い女性だと、雅斗は感じていた。

    「確か、最後に働いていたケアホームは、経営悪化で閉鎖されてしまったんだよね?」

    「そう。スタッフも利用者もみんな優しくて、すごく良い職場だったんだけど……、経営陣が毎年、利用料金を大幅に上げ続けたの。その結果、他の施設へ移る利用者が後を絶たなくて、最後は潰れてしまったわ」

    「そうだったのか……。それは災難だったね」

    「その時の同僚とはね、今でも時々集まって、お茶したりしてるのよ」
    一見、ただの退屈な雑談のようだった。だが、なぜエレナはわざわざ部屋のドアを閉め切る必要があったのだろう。雅斗の胸に、小さな引っかかりが釈然としない霧のように広がり始めた。

    「私はね、マサ。ハウスキーピングの仕事が、心から大好きなの」

    「よく知っているよ。君のおかげでオフィスはいつもきれいだ。いつも感謝している」

    「ありがとう、マサ」

    待てよ、と雅斗がエレナの真っ直ぐな瞳を見つめていると、悪い予感がよぎった。

    ―――まさか彼女は、そのケアホームのネットワークを使って、転職するつもりなのではないか。退職を願い出るために、扉を閉めて個人的な話を切り出してきたのではないか。

    「私、ここでの仕事も本当に大好きなのよ」

    エレナは、言葉を重ねた。

    「受付に座っていれば、社外の色んな人と話ができるし、何より、資材調達の業務をマサがイチから丁寧にトレーニングしてくれたおかげで、毎日本当に多くのことを学べているわ。私にとって、とてもエキサイティングなことよ」

    なるほど、転職を考えているわけではないのか、と雅斗は、張り詰めていた肩の力を抜き、胸を撫でおろした。

    「そうだね。最初に君に資材調達の業務をお願いする時は、不慣れなデスクワークを強いることに私自身かなりの躊躇があったけれど、今となっては、君を資材調達の担当に抜擢して本当に良かったと思っているよ」

    「できる仕事の範囲が広がるってことは、楽しいことなのね」

    もっと業務の幅を広げたい、ステップアップしたいという、前向きなキャリア相談なのだろう。雅斗は、総自己解決した。

    「色んな経験を積むことで、エレナ自身の新しい可能性をどんどん切り開いていってほしいんだ。エレナが強く望み、正しい戦略を立てれば、人生はいつからだって変えられるよ」

    「ええ……私も、今ならそう信じられるわ」

    エレナの顔に、完全に吹っ切れたような、爽やかで眩しい笑顔が咲いた。

    「私、ケアホームに、移ろうと思うの」

    「え……?」

    雅斗は、目の前の空間が急激にゆがむような錯覚を覚えた。愕然として、言葉が喉の奥につっかえたようで出てこない。

    「さっき話した元の同僚のひとりが働いているケアホームでね、ずっと人手が足りないから来ないかって、実は数ケ月前から熱心に誘われていたの。ここで働きながら、マサに色んなビジネスのことを教えてもらって……。私、自分のこれからの人生について、夜も眠れないくらいずっと考えてきたわ。やっぱり私にとって、ハウスキーピングこそが天職なんだって、心の底から再確認できたの。マサ、あなたが言ってくれた通りね。人生は、自分の力で変えられるのよね!」

    うん、と辛うじて相槌を打ちながら、雅斗は、うまく機能していたはずのコミュニケーション戦略のどこにミスがあったのか、と必死に内省しようとしたが、脳内はあまりの動揺と衝撃で埋め尽くされ、思考が全くまとまらない。

    「もちろん、リュックが私を侮辱したことは、今でも許せないし、彼と同じ職場で顔を合わせたくないという気持ちは強いわ」

    エレナは、真っすぐに雅斗を見つめていた。

    「それにね、マサのおかげで、アレックスの奥さんであり私の親友のローズとは仲直りできたけど……、私とアレックスが同じ職場に居続けるのは、親友のローズにとって、どこか不安の種として残り続けるのが彼女の本音だと思うの。私のせいで、大好きな親友をこれ以上悩ませたくない」

    「ちょっと、待ってくれ、エレナ……。この職場の人間関係のストレスが、今回の転職の本当の引き金なのかい?」

    「イエスでもあり、ノーでもあるわ。だけど、一番の決定的な理由はね、マサが教えてくれたように、『自分で自分の人生を切り開くことができる』って気付けたことよ。私は、誰かに依存するんじゃなく、自分の足で人生歩みたいの」

    「……ここに残って、私の下で、自分の可能性をもっと広げるという選択肢は考えられないかい?」

    「もちろん、それも何度も、ずっと考えたわ」

    「それなら―――」

    「やっぱり、私の本当の天職は、ハウスキーピングなの。人生は短いわ、マサ」

    晴れやかな光を湛えたエレナの笑顔を前にして、彼女の退職を引き留めるための論理的な説得材料を、雅斗はもう何一つ持ち合わせていなかった。

    「私はね、マサ。あなたという素晴らしいボスに出会えたおかげで、失っていた自分の自信を、取り戻すことができたのよ!」

    最高の賛辞なのかもしれない。しかし、ここまで完璧な感謝を述べられてしまえば、工場長としてこれ以上の慰留など、醜いエゴでしかなかった。

    「……そうかい。私との時間が、君の人生に少しでも良い影響を与えることができたのであれば、嬉しいよ」

    やっとの思いで、雅斗は、その言葉を絞り出した。

    ―――どこでコミュニケーション戦略を読み違えたのだろう……?

    漠然とした後悔のような、敗北感のような感情が雅斗を覆いつくした。

    中卒で、まともな事務の専門性など何一つ持ち合わせていなかったエレナを、何とかFuso Sake USAの正社員として戦力になるよう、これまで精一杯エネルギーを注いで育成してきたつもりだ。パフォーマンスが感情の起伏に大きく左右される彼女を、時には大げさに褒め、時には優しく諭し、励ましながら、この一年半もの間、一緒にやってきた。人事の適性があるかと試してみたこともあったが、彼女は人の好き嫌いが激しすぎるせいで従業員の一部から猛反発を食らい、雅斗がやんわりと担当を外さざるを得なかった。発注や支払いといった比較的シンプルな経理業務をやらせた際には、尋常ではない数字の弱さを露呈し、致命的な入力ミスを連発させた。その結果、雅斗自身の確認手間が倍増し、「これなら最初から自分でやった方がはるかにマシだ」と、これまたやんわりと担当を外した。事務員は、決まったユニフォームがない。身体のラインがくっきりと浮き出るような露出の激しいファッションを好む彼女に対して、下品な目線を送り続ける備品納入業者とのトラブルが発生し、雅斗の判断でそのベンダーとの取引を即座に中止せざるを得なかったことさえあった。

    これまで雅斗が、エレナという人間に割いてきた膨大な時間と労力は、一体何だったというのか?

    ―――いや、待て。この思考プロセスは、完全に非生産的だ。

    雅斗は、自分の脳裏をかすめた未練を、必死に振り払おうとした。エレナに投資してきた時間と神経は、既に支払い済みであり、どうあがいても二度と戻っては来ない「サンクコスト(埋没費用)」だ。過去の未練という名のぬかるみに足を取られていては、工場の立ち上げという大局そのものを見失ってしまう。雅斗は、小さくため息をつき、理性を引き戻そうと自分に言い聞かせた。頭の中を整理したいのに、脳内ではまたしても『イメージの詩』が流れ始め、意識がそちらに奪われそうになる。

    「喜んでくれて本当にありがとう、マサ」

    エレナは晴れやかに続けた。

    「実はね、もうそのケアホームに採用は内定していて、二週間後の月曜日から働き始めることになってるの」

    「え?……ということは……」

    「来週の金曜日が、ここでの私の最終出勤日になるわ」

    「……十日もないじゃないか」

    「出勤日だと、六日ね。でも、心配しないで。私がいなくなった後でもマサが困らないように、明日から私の持っているすべての業務を、あなたに完璧に引き継ぐから」

    気持ちを切り替えろ、と雅斗は自分に鞭打った。個人的な感情は、ひとまず脇に置いておくんだ。

    受付、オフィスの清掃、そしてすべての資材調達業務―――それらすべてが、明日から工場長業務に追加されることになるのか……。雅斗は、軽いめまいを覚えた。アレックスや凪と手分けをしてタスクを分散しなければ、確実に自分自身がキャパオーバーで破滅する。業務仕分けの新たなサバイバル戦略を早急に立てないといけない。

    「明日から、お互いに忙しくなりそうだね。でも、エレナの新しい門出のためだ。一緒に乗り越えよう」

    今の最悪の状況下で、ひねり出せる最もポジティブな言い回しができたことに、雅斗は胸のつかえが少し取れたような気がした。

    「受付や清掃に関しては、何とかなりそうな気もするけど、納品待ちの重要資材のステータスだけは、しっかりとリスト化して引き継いでもらわないと困るよ」

    「わかってるわ。すべてをリストアップしたものを、明日あなたに提出する」

    「頼むよ、エレナ。それと、メンテナンス関連のパーツについてだ。以前も少し揉めたけど、君とリュックの認識に齟齬を残したまま退職されては現場が困る。明日、彼も交えて一つずつ、発注履歴を確認しておく必要があるね」

    「彼との食い違いは、何をやったって絶対に埋められないと思うけど……」

    「でも、できる限りやっておこうよ。彼自身も資材調達担当の君がいなくなることがわかれば、それなりに危機感を感じて、確認してくれるはずだよ」

    「そうは思わないわ」

    それにリュックは、と前置きをしたエレナが少しトーンを落とした強い口調で言葉を締めくくった。

    「あの男は、何があっても絶対に変わらない」


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