
不機嫌なハミング <第1章>
【あらすじ】
小野寺雅斗は、アメリカの買収工場を立ち上げる初代工場長。冷酷な本部長の圧力や、文化も常識も異なる現地従業員との衝突に、独自の「戦略」で耐え忍んでいた。さらに、慣れない異国生活でストレスを抱える家族との間にも、いつしか見えない溝が生まれ、雅斗の不機嫌な鼻歌(ハミング)は止まらない。そんな中、心を閉ざした若き出向者が赴任してきたことで、工場の歪んだ歯車は予期せぬうねりを上げて回り始める。
異文化と家族の距離に翻弄されながらも、混迷の果てに見出した国境を越えた共通項、そして隠された驚くべき真実とは――。
42.195kmのマラソンと工場再生が完璧にシンクロする、ビジネスと家族の魂の再生ストーリー!
ピッという乾いた電子音が左腕に付けたガーミンのランニングウォッチから聞こえた。
画面の表示によると既に3kmを消化している。1kmあたり5分32秒ペース。全体の平均を5分40秒以内でキープできればサブ4は達成できる。スタート直後の混雑で多少のタイムロスはあったが、ここまでは計画通りだ。
よし、よし、と胸を撫でおろす。
しばらくすると、2マイル地点の表示が目に入った。周りのランナーの腕時計やスマホから、次々とラップ音が鳴り始める。アメリカではキロメートルではなく、マイルが基準だ。ガジェットの設定もそれになっていて、2マイル(約3.2km)の通過タイムやペースがアナウンスされているのだろう。
しかし―――スタートからここまでの間、身体がやけに重く感じるのなぜだろう。
年明けの一月から、プロ・ランニングコーチとして有名な金哲彦の著書、『マラソン練習法がわかる本』の指示通りにサブ4達成に向けた練習を行ってきた。歩道が積雪で閉ざされた数日間を除けば、メニュー通りに走ってきたはずだ。月間走行距離が150kmを超えると、膝や足首、背中、腰のどこかしらに痛みが出て、練習メニューを消化できなくなるのが常だったが、幸い今回は違う。身体の故障が全くない状態でスタートラインに立てたことは、ひょっとしたらマラソンを始めてから初めてのことだったのかもしれない。
今朝目覚めた時も、体調は良いと感じた。
なのに、なぜか今は身体が重い。
マラソンは長距離の騙し合いだ。最初の数kmで身体が重くても、10km、20kmと距離を重ねていくうちに徐々にギヤが上がってくることも少なくない。逆に、スタートが絶好調でも、中盤で突如全身にブレーキがかかることだってある。
まだたったの3kmだ。これからどう転ぶかはわからない。
立案した戦略に従って、つまり設定したペース通りに、一歩一歩前に進み続けること。
頭では理解できているのに、心と身体が置いてきぼりになっているようだ。
うまく集中できないのだ。
気付くとオレは、またしてもあの曲を口ずさんでいた。
古い水夫は知っているのサ
新しい海のこわさを
◇
「陰険なキツネ野郎め……!」
小野寺雅斗は、パソコンのモニターを睨み続けていた。
Fuso Sake USAの生産本部長である肥後正義とのワン・オン・ワンのテレビ会議が終わって、既に十分以上経過している。
肥後は、いつも自分の都合だけで突如テレビ会議を仕掛けてくる。
事前に何のアポイントもないものだから、雅斗のラップトップの画面にいきなり『Masayoshi Higo』の通知が割り込んでくるので、毎度大慌てになる。仕掛中の業務を中断し、ヘッドセットを準備し、雅斗のいる工場長室の扉を閉める。
部下の都合を考えたことなんて、微塵もないのだろう。
そのくせ、上層部に対しては徹底的な低頭平身を貫く。
社長と話す時の肥後は、いつもより数オクターブ上の甲高い声を出し、見ているこちらが恥ずかしくなるほど卑屈に振舞う。ビジネスパーソンの性と言えばそれまでだが、その見苦しさに閉口させられたことは一度や二度ではない。
ただ、日本酒や醸造物を扱うメーカーというのは、往々にして旧態依然としたコンサバティブな社風に染まりがちだ。目に見えない微生物の力を借りる醸造の現場では、一朝一夕のダイナミックな変化はなく、長い時間をかけてじっくり醸成していくことが求められる。その技術的背景が、保守的な社風を生むのだろう。
肥後の行動特性は、扶桑酒造において、特別なものではない。
それでも、部下に対するリスペクトの低さは社内でも有名で、直属の部下となった雅斗は、どうしても肥後との折り合いを付けられずにいた。
「やあ、小野寺君。元気にしてるかい?」
テレビ会議システムが繋がった瞬間に肥後は、雅斗に話しかける。オールバックに固めた黒髪の下で、野心を物語る顔全体がぎらぎらと脂を放っている。重厚なエグゼクティブデスクにその肥満した体躯を深く預け、踏ん反り返った姿勢が、彼の横柄な物言いに絶対的な傲慢さを上乗せしていた。洗練されたビジネスパーソンとは程遠い。むしろ、老獪な政治家を思わせた。
「お疲れ様です。おかげ様で、何とかやっております」
「何とかやってるじゃあ、困るな。ミズーリ工場の立ち上げは、我がFuso Sake USAの至上命題だ。扶桑酒造本体の東京本社からも注目されていることを忘れないでほしいな」
雅斗が赴任してきたFuso Sake USAのミズーリ工場は、元々中国系の調味料会社をFuso Sake USAがM&Aして設立された、急ごしらえの拠点だ。雅斗は、この工場の初代工場長というポジションに就いていた。
現地に送り込まれた日本人は、雅斗ひとり。中国系の調味料会社からFuso Sake USAに転籍してきたプロパーの現地従業員たちは、日本酒はおろか、日本が地球上のどこにあるのかすら知らない状況だった。文字通り、根底からの改革がミズーリ工場の立ち上げには求められていた。
「再来月の一日から、ひとり研修生をそっちに送ることが決まったよ。かねてより、君が『日本人がひとりだけでは、工場は立ち上がらない』と不満を漏らしていたことに対する、社長の寛大な措置だ。受け入れ準備を進めておくように」
「研修生……ですか?私が要請していたのは、即戦力として現場を回せる中堅クラスなのですが……」
「君がその責任者になって半年も経つのに、扶桑ブランドの製品を未だ一本も出荷できていない。この状況で固定費だけを膨張させたら会社がどうなるか、わからないわけじゃないだろう?私が、君の泣き言を聞くために時間を割いていると思うのかい?」
「いえ……。ただ……、現場の惨状が本部長に正確に伝わっていないのであれば―――」
「小野寺君!何度も言わせないでくれ!」
肥後が明らかに苛立ちを露わにして、雅斗の言葉を遮った。
「……失礼しました。それでは、赴任してくる研修生の情報をいただけませんか?」
ふぅ、とわざとらしいため息が雅斗のヘッドセットから漏れる。
「木下凪という入社五年目の醸造担当者だ。二十八歳になったばかりだと言っていたな」
「木下さんは、工場の管理経験がありますか?」
「いや、無い。商品開発部に三年、現在は東京本社の生産管理部門にいる」
「工場経験のない人材をこの時期に投入されても、ミズーリの立ち上げには役に立ちませんよ」
「……君もしつこい男だな。もう一度言うが、私は、君の泣き言を聞きたいわけではない。これは会社の決定事項だ。君のミッションは、ミズーリ工場を立ち上げること。それがひとりでは無理だと言うから、会社が配慮して人員を増員してやるんだ。これ以上、何が不満なんだ?自分の無能さを声高に発信するのは控えた方が、君の今後のキャリアのためだと思うがね」
「いや、しかし―――」
「君の今後のキャリアのためだと言っているんだ!」
いつもこの論調だ。部下の未来を人質に取り、正論を封殺する。それが肥後の常套手段だった。
固定費抑制は、本部長である肥後自身の業績評価にダイレクトに直結する。自分の出世のことしか頭にない彼にとって、Fuso Sake USAの日本人出向者数を増やすことは、自分の評価に傷がつくことに他ならない。
これ以上、何を言っても、自分自身が不利な泥沼に追い込まれるだけだと、雅斗は悟った。
ミズーリ工場の窮状を訴え、適切な善後策を上申するという戦略は、このキツネ野郎には一切通用しなかった。会社にとって効果的なことよりも、まず肥後にとってのメリットを前面に押し出すべきだった。
雅斗は、言いたいことを全て飲み込んだ。
「……、承知しました」
研修生を受け入れるということは、工場の立ち上げと同時に、「何も知らない若手を一人前に育て上げる」という追加の重荷を背負わされたことを意味する。改善を求めた結果が、単なるわがままと処理されたことに、雅斗は強い憤りを覚えた。
日本を発つ前に聞いていた工場のレポートと、赴任後に雅斗が実際に目にした現実には、あまりにも大きな乖離があった。およそ食品を扱う場所とは思えない劣悪な衛生状態。転籍してきた従業員たちの「指示待ち」の姿勢は根が深く、工場に設置してある設備の多くを日本酒醸造にふさわしい仕様に改造しようにも、オリジナルの設計図すら紛失している。従業員の誰ひとりとしてそれらの詳細を理解していないために、何を聞いても「わからない」「知らない」のオンパレードだった。
自宅へ帰る道中のハイウェイで、時速75マイルでシボレーを飛ばしながら、雅斗は荒れ狂う感情を必死になだめていた。
肥後とのテレビ会議の後、すぐに東京本社の生産管理部にいる同期に連絡を入れ、木下凪の人となりを聞き出していた。
木下凪、二十八歳、独身。
国立大学の微生物学の修士課程を修了した後、扶桑酒造に入社。
三年間、主に醸造技術開発に関する業務に携わった後、生産管理部門に異動し、一年半。
TOEIC820点。
性格は、内向的で、いわゆる物欲や出世欲の希薄な、今の若い世代の典型。会社に多くを求めない代わりに、言われたことだけを淡々とこなしていくタイプ―――。
頭脳明晰で語学力もあるようだが、そのおとなしい性格が少し気にかかる。
中国系調味料会社からFuso Sake USAに転籍してきた従業員の大半は、既得権を主張することが多く、ある程度タフに押さえつけないと現場が暴走する。この半年間、彼らと激しい口論を繰り返してきた雅斗だからこそわかる。押しの弱い人間は、一瞬でこのミズーリの現場に食い殺されてしまだろう。
また、工場勤務の経験がないことから、品質トラブルや設備トラブルが発生しても、うまく立ち回ってくれることも、すぐには期待できない。
何から手をつければいいのか、途方に暮れているうちに、気付けば自宅のガレージにシボレーを滑り込ませていた。
努めて笑顔をつくり、家に入る。
食卓に座っていた、雅斗より二歳年下の妻の楓が、
「おかえりなさい、マー君」
と気だるそうに立ち上がる。
雅斗より七ヶ月遅れて、ひとり息子の弦と一緒に渡米してきたのだ。
「まだ、夕ご飯できてないから、先にシャワー浴びてきて」
「うん。弦は?」
カバンをリビングの隅に置きながら見回す。
「知らない。二階にいるんじゃない?自分で見てきたら?」
楓は、看護師としてのキャリアを投げ打って、雅斗のアメリカ駐在に帯同することを選んでくれた。
弦の妊娠を機に一度は専業主婦になったものの、中学進学と同時に自宅近くの総合病院の内科の看護師として復職。数年後には次期看護師長に、という話も出ていたはずだった。その彼女から「アメリカに行く」と告げられた時、雅斗は驚きとともに、救われるような思いがしたのをよく覚えている。
雅斗は、二階に上がり、閉まっている弦の部屋の扉をノックした。返答がないので、ドアノブをひねりながら、
「入るぞ」
とドアノブをひねると、弦は、ベッドにうつぶせで文庫本を読んでいた。本から少し目を離して、雅斗を一瞥する。
「おかえり」
「ただいま。何やってんの?」
文庫本を少しだけ持ち上げて、黄色い文字で『何者』と書かれた表紙を雅斗に向けながら、弦は答える。
「これ、読んでる」
「弦が読書するなんて、珍しいな。寝てるか、スマホでゲームでもしてるかと思ってたよ」
「……」
「学校、どうだった?」
日本を離れたのは、高校一年生を修了した直後だった。英語が得意ではない弦は、ミズーリの公立高校に編入する際、もう一度同じ学年を履修することを勧められた。だから弦は今、ソフモア(十年生、日本での高校一年)である。
「……、フツウ」
元々、弦はおしゃべりな性格ではない。けれども、アメリカに越してきてから、明らかに口数は減っていた。
毎日、学校へは通っているが、楽しそうには見えない。自宅にいる時も、自室にこもる時間が増えているのが、雅斗の気がかりのひとつだった。
多感な十六歳。こういう物事に敏感な世代に対しては、焦って踏み込んでいくよりは、少し距離を置いて見守るのが現在の正しい育成戦略だろう。
もっと積極的に友人関係を広げ、またとない好機である海外生活を能動的に充実させてほしい、と雅斗は願っている。負けるな、弦!と強く思う。
けど、今はこの育成戦略に沿って、余計な口出しをしないことにして、静かにドアを閉めた。
シャワーを浴びてダイニングに降りると、テーブルには楓が昔からよく作ってくれる豚肉の野菜炒めが並んでいた。
冷蔵庫から缶ビールを取り出し、二階の弦に声を掛ける。
三人揃って、「いただきます」と箸をつける。
「ちょっと焼肉のたれを入れすぎちゃったから、しょっぱいかも」
無表情のまま、楓がつぶやく。
ビールを一口飲んだ後に口に入れると、かなり塩味がきつい。舌がじりじりと痺れる。
「どう?」
「大丈夫だよ。今日、仕事で結構汗をかいたし、塩分補給という意味でも、この味付けはリカバリー戦略に合ってるよ」
雅斗が答えると、楓は、どこか諦めたような小さな笑顔を返した。
弦は、無言のまま、野菜炒めを口に運ぶ。
「味、濃くない?」
楓が、重ねて弦に聞く。
「別に……」
再来月、このミズーリにやってくる木下凪は二十八歳。
ということは、自分よりも十六歳の弦の方がよっぽど近いんだな。
ビールを飲み下しながら、雅斗はふと、そんなことを考えていた。
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