
不機嫌なハミング <第5章>
【あらすじ】
小野寺雅斗は、アメリカの買収工場を立ち上げる初代工場長。冷酷な本部長の圧力や、文化も常識も異なる現地従業員との衝突に、独自の「戦略」で耐え忍んでいた。さらに、慣れない異国生活でストレスを抱える家族との間にも、いつしか見えない溝が生まれ、雅斗の不機嫌な鼻歌(ハミング)は止まらない。そんな中、心を閉ざした若き出向者が赴任してきたことで、工場の歪んだ歯車は予期せぬうねりを上げて回り始める。
異文化と家族の距離に翻弄されながらも、混迷の果てに見出した国境を越えた共通項、そして隠された驚くべき真実とは――。
42.195kmのマラソンと工場再生が完璧にシンクロする、ビジネスと家族の魂の再生ストーリー!
雨が止んだ。
相変わらずの重苦しい曇天で、今にもまた雨粒が落ちてきそうな雰囲気だが、とりあえず今は降っていない。
エイドステーションでドリンクを口に含んだ際、オレはしばらく走ることを止めてしまった。
二回ほど。
だが、サブ4を達成するためには、あれは必要不可欠な休息だったのだ。
戦略的な休息であり、決して困難からの逃避などではない。
その証拠に、オレは今こうして走っている。
ペースは6分20秒まで落ち込んでいるが、諦めない限り、サブ4はまだ手の届くところにあるはずだ。
23マイル地点を知らせる幟に気づく。
23マイルということは……だいたい35kmか。
ガーミンの画面に目を落とす。現在までの走行時間は3時間20分。ということは、残り40分でおよそ7kmを走破できれば、サブ4だ。
ここから5分40秒ペースにまで引き戻せば、計算上は何とかなる。
幸い、さっきまでペースを落として身体を休めたおかげで、両ひざの痛みも少しだけ和らいでいる。
よし、少しギヤを上げてみよう。
すぐに両ひざの痛みが強くなる。
苦痛のあまり、自分の顔が歪んでしまうのがわかる。
もっと上げなきゃとは思うものの、どうしても6分の壁が切れない。
オレの立てた完璧な戦略に、オレ自身の肉体がついてこないのは、一体なぜなんだ?
何か、オレの計算が間違っているのか?
緑色に染めた髪を揺らしながら、アフリカ系の女性ランナーがオレを追い越していく。
ふと、2000年代に世界の女子テニス界を席巻したウィリアムズ姉妹の姉、ビーナスを思い出した。彼女の圧倒的な躍動感は、どことなくビーナス・ウィリアムズに似ているような気がしたのだ。
アメリカで暮らしていて、いつも感じるのは黒人とアジア人の骨格そのものの圧倒的な違いだ。
彼らの身体は、真横から見ると見事なまでのS字型を描いている。
胸が大きく前方に突き出ており、頭部は肩より少し後方の位置にチョコンと乗っている。腰のラインは鋭く反り返っており、臀部が大きく突出しているのだ。まさに完璧なS字型。それは、平坦なI字型の体型を持つアジア人のそれとは、根本から異なっている。
人間という括り方をすれば、確かに同じ人間ではある。だが、とても同じカテゴリーの生物とは思えない。同じ哺乳類というだけであって、実は全く異なる進化を遂げた別の種類の生命体なのではないかとすら感じてしまう。
オレを抜き去ったビーナス似の女性も、その見事なS字型の体躯を躍動させ、決して速いペースではないものの、チーターやサラブレッドを連想させる美しいフォームで走り続ける。
もしオレがあのフォームを真似ようとすれば、たちまち腰を痛めるに違いない。
骨格の設計図そのものが違うのだ。
再びガーミンに目を移すと―――驚いたことに、数字はキロ6分を切っていた。
どういうことだ?
彼女の美しいフォームを目で追ったことで、オレ自身のこわばった身体の走りが、無意識のうちに少しだけ変化したのだろうか。
戦略と、その遂行。
……いや、やはり、オレのこれまでの物事の捉え方のどこかに、決定的な不自然さがあったのだ。
どこかに、嘘を孕んだ無理なポイントがあったのではないか?
違う。
戦略だの、遂行だのという、そんな高尚な話では決してない。
もっと、惨めなほど基本的なことだ。
オレはいつも、目の前で刻々と変わりゆく状況に対して、ただ後追いで必死に帳尻を合わせているだけだったのだ。
自分では、それを時代遅れのコンサバに対するアジャイル方式の柔軟なマネジメントだと都合よく言い聞かせていたが、その実、ただの泥縄式に辻褄を合わせ、自分を慰めていただけのことだった。
そもそも、何が「戦略的な休息」だ。
両ひざの痛みに耐え続けることができなかったから、ただ辛くて走るのを止めただけじゃないか!
設定したペースを維持できないのは、悪天候のせいでも、路面のせいでも、両ひざの故障のせいでもない。
ただ単に―――オレの準備不足が招いた結果だ!
そもそも、金哲彦の著書に書いてあるトレーニングメソッドは、一体どんな人間を想定して設計されたものか?
少なくとも、二十年以上タバコを吸い続け、体重を5kg落としたところで標準体重にはさらに10Kg近い減量が必要な、アラフィフのために用意されたプログラムであるはずがない。
その上、本の中で推奨されている練習メニューすら、オレは八割程度しか消化できていなかったのだ。
これを、準備不足と呼ばずに何と言う!?
何が戦略だ?
何が遂行だ?
基礎的な準備すら怠ったまま立てた戦略など、最初から正しいものであるはずがないし、それを遂行できる確率など、著しく低いに決まってる。
オレ自身の、その場しのぎの辻褄合わせの思想そのものが、根本から間違っていたのだ。
急激に気温が下がったような感覚に襲われ、オレは激しく身震いをした。
たたかい続ける人の心を
誰もがわかってるなら
たたかい続ける人の心は
あんなには燃えないだろう
◇
事務員のエレナ・モラレスがFuso Sake USAを去ってから、数週間が経過していた。
出勤最終日の終業直前に、彼女は一点の曇りもない晴れやかな笑顔で、小野寺雅斗の工場長室のドアを叩いた。
「本当にありがとう、マサ。ここで学んだことは、私のこれからの人生にとって決して小さくはない財産だわ。辞めるのは本当に寂しいけれど、あなたは私の、一生のメンターよ」
「次の職場でも、君ならきっとうまくいくさ。これまで本当にありがとう、エレナ」
涙を浮かべたまま両手を広げて近付いてくるエレナの身体を、雅斗はぎこちなくハグで受け止め、彼女を送り出した。
エレナが去った後、雅斗は自身の膨大な工場長業務に加え、彼女が担当していた資材調達のタスクを引き受けることになった。実際に中身を開けてみると、数量や型番に関する彼女のケアレスミスが山のように発覚し、その修正作業だけで毎日が忙殺された。
だが雅斗は、そこでただ過去を悔やむことはしなかった。クラウド型の来客管理システムを導入することで受付エリアを無人化し、オフィスエリアの清掃はすべてロボット掃除機に代替させた。人手によるアナログな作業負担をデジタルで徹底的に削減していくプロセスは、皮肉にも工場の近代化を加速させた。
製造部長のアレックスも、エレナの退職に際して不平不満を一切口にせず、雅斗の業務を積極的にサポートしてくれた。おかげでこれまでのところ、工場運営が致命的な機能停止に陥るような事態は回避できていた。
その時、雅斗のラップトップの画面に突如、『Masayoshi Higo』の通知がポップアップされた。
傘を持たずに外出した先で、いきなり逃げ場のない土砂降りに見舞われたかのような、はけ口の見つからない焦燥感に囚われながら、応答ボタンをクリックした。
モニターいっぱいに、肥後本部長の脂ぎった、不機嫌極まりない大きな輪郭が映し出される。
「やあ、小野寺君。元気にしてるかい?」
「おかげ様で」
「例の受付嬢が退職したそうだが、現場はどうだい?」
「受付嬢」というどこか前時代的で、人を見下したような呼び方に雅斗は小さな引っ掛かりを覚えたが、それを抑えて、無人受付システムやロボット掃除機による業務効率化を淡々と説明した。
「ふん、まあそれはいい。それよりも、木下君は一体どうなっているんだ?」
エレナが退職する前から、木下凪は体調不良を理由にした突発的な欠勤がじわじわと増え始めていた。そして今週にいたっては、三日連続で無断に近い形で会社を休んでいる。
昨夜も雅斗は、帰宅後に自宅から凪に携帯に電話を入れ、短い対話を持った。だが、凪は消え入るような声で謝罪を繰り返すばかりで、全く要領を得なかった。ひどい倦怠感と激しい頭痛に見舞われ、朝どうしても起き上がることができないのだという。先週末にようやく現地のクリニックに足を運んだものの、採血結果が出るまではとりあえず睡眠時間を最大化して休養しろという曖昧なアドバイスとともに、頭痛薬の処方箋を渡されただけだった。
「扶桑酒造本社の人事部からね、私のところに直接、警告の電話が入ったんだよ」
勤怠管理システムは、海外の現地採用の従業員を除き、出向者もすべて日本国内と共通のクラウドシステムを使用している。そのため、アメリカにいる雅斗や凪の勤務状況は、東京本社の人事部によってリアルタイムモニタリングされていた。
極端な長時間労働や、連続した不自然な欠勤が発生した場合、システムが自動的にアラートのフラグを立て、世界各地の主幹責任者へ即座に問い合わせが飛ぶ仕組みになっているのだ。
「困るんだよなぁ。シカゴにいるこの私が、ミズーリの出向者が毎日どんな働き方をしているかなんて、全部把握できるわけがないだろう?小野寺君。君が現地でしっかりと木下君を指導・管理してくれないと、私にまでとばっちりが来るんだよ!」
「仰る通りですが、本人が肉体的な体調不良を訴えて欠勤している以上、工場長としてはまず休養を促すほかなく―――」
「木下君の労務管理は、すべて君の責任だ!何とかして早急に解決してもらわないと、私が困るんだよ!」
「……まずは、採血の具体的な結果が出るまで、様子を見たいと考えております」
「いつ出るんだい、その結果とやらは?」
「本人も現地病院の対応ゆえ、明確な日付まではわからないようで……」
「結果が出ないなら病院に直接催促の電話を入れるとか、君自身が彼の自宅に足を運ぶとか、やれるアプローチはいくらでもあるだろう!君には問題を解決する気が無いのかね、小野寺君!?」
「いえ、そのようなことはありません。早急に確認して、本部長にご報告いたします」
「そうしてくれたまえ!人事部からマークされている件を、もし社長がお知りになったら、一番マズい立場に追い込まれるのは君の方だということを、忘れないでほしいな!」
肥後はそれだけを一方的にまくし立てると、TV会議アプリの画面は無慈悲に暗転した。
会議システムから退出したらしい。
部下である凪の労務管理不行き届きという烙印を押されることは、雅斗の今後のキャリアにとって致命的なダメージになりかねない。同時に、その直属の上司である肥後自身も、監督責任を問われて自らの出世街道に傷がつくことを何よりも恐れているのだ。つまり、今のテレビ会議は、「私は現地に対して必要な指導を行った」という、肥後の保身のためのアリバイ作りに過ぎなかった。あの男は、どこまでいっても自分の安全圏しか頭にない、陰険なキツネ野郎だった。
そのむき出しの醜悪さを突き付けられるたび、雅斗の胸には、泥水のような苦い澱が溜まっていく。
気付けば、オフィスにひとり取り残された雅斗の口から、『イメージの詩』のハミングが掠れた声で漏れていた。
「随分と調子が良さそうだな、マサ。今日は、日本のお祭りか?」
工場長室の前を通りかかったリュックが、開いたドアの隙間から、相変わらずの皮肉めいた薄笑いを浮かべて話しかけてきた。
まあな、と雅斗は、手元のラップトップに視線を戻し、適当に受け流そうとした。だが、リュックは立ち去ろうとしない。
「ところで、ナギーを見かけないが、今日もお得意のズル休みか?」
「体調不良と聞いているよ」
モニターから目を離さずに雅斗が低く応じた。
「ミズーリの水が合わないんだな、軟弱なアジア人には」
アジア人というワードに込められた明確な侮蔑の響きに、雅斗の脳裏に一瞬で激しい怒りの血が上るのがわかった。だが、ここでリュックと言い合いを演じたところで、揚げ足を取られて不毛な泥沼に引きずり込まれるだけだ。これが大人の対人戦略だと自分に言い聞かせ、雅斗はあえて徹底的な無視を貫いた。
「なあ、マサ。エレナの後釜はいつ来るんだ?今度は、もっと若くてセクシーなアフリカン・アメリカンの女にしてくれよ。頼むぜ」
リュックのモラルの低さに、雅斗は心底閉口した。だが、何を言ったところで、この男の不適切発言は治らない。雅斗はやはり、何も答えなかった。
結局、凪は丸一週間、会社に姿を見せなかった。
週末、雅斗は「どうせ一人暮らしで、ロクなもの食べてないんだろう」と理由をつけて、凪を近くのレストランに誘い出した。
全米でチェーン展開している、カジュアルなアメリカンスタイルのステーキハウスだ。
「あまりお腹が減っていない」と力なく言う凪の分も併せて、雅斗が重厚なリブアイステーキを注文した。
「とりあえず、こういう時は肉を腹に詰め込んで、物理的なパワーを貯めないとな」
「……すみません」
凪は、うつむいたままだ。
「それで?血液検査の結果は出たのかい?」
「……はい。……軽いうつ症状だと診断されました。セロトニンを調節する薬を処方されています」
「軽いということは、そんなに深刻なステージじゃないな?ナギーの分もビール頼んじゃったけど、薬との兼ね合いは大丈夫かい?」
「……はい。ドクターからは、飲むなとは言われていません」
その時、軽快なステップを踏んだウェイトレスが、並々と注がれた大容量のビールジョッキをふたつ、テーブルの上に置いた。
「よし。とりあえず、乾杯だ」
雅斗は、ジョッキを凪の前に差し出し、鈍い音を立てて合わせた。
「そういえば、原料搬送の垂直コンベアのあの異音だけど、醸造畑の君がよくあんな微細な音に気付いたね。正直、驚いたよ」
「……たまたまです」
「そんなことない。日頃から現場の音に対して、相当神経を尖らせてないと聞き流してしまうレベルの音だったよ」
「昔から、プラモデルやラジコンを組み立てるのが好きでしたから……。ひょっとしたら、機械の駆動音とか、そういう方面に無意識の興味があるのかもしれません」
「へえ、意外だね。だけど、大学での専攻は、微生物学の醸造系だろう?」
「はい。でも、大学時代は、自動車部に所属していまして、部室で古いエンジンの分解やオーバーホールなんかも日常的にやっていましたから」
「なるほど、それは面白い。自動車のメカニックに強いなら、車検制度がなくて、何でもDIYで直してしまうこのアメリカの環境は、君にとってのアドバンテージになりそうだね」
「そうかもしれません。……でも、私は扶桑酒造のあの醸造のプロセスも同じくらい大好きなんです」
「その大好きなはずの醸造工場を、どうして一週間も連続して休むことになってしまったんだい?」
雅斗が静かに核心へと踏み込むと、凪は逃げるように再び視線を落とした。
「ですから、体調不良で……」
「その体調不良を引き起こした、根本的な要因があるはずだ」
「慣れない海外生活が……」
雅斗は、凪の目を見つめた。
「リュックか?」
凪がはじかれたように驚いた表情で顔を上げて、雅斗の目を真っすぐに見つめ返した。
「あの男に、現場で理不尽な嫌がらせを受けているんじゃないのかい?」
雅斗から目をそらし、手元のジョッキを凝視する凪。
「製造部長のアレックスも、リーダーのトーマスも、君のことを本気で心配しているよ。君が現場で、リュックから執拗に高圧的な難癖をつけられている姿を、何度か目撃したらしいんだ」
凪は、固く口を閉ざしたままジョッキを凝視し続けた。
そこへ、先ほどのウェイトレスが両手に巨大なプレートを抱えて戻ってきた。これぞアメリカと言わんばかりの、猛烈な脂を放つリブアイステーキがふたりの前に置かれた。食欲をそそる香りが立ち上る。
「……話したくないなら、無理に話さなくてもいいよ」
雅斗は、ビールを一口飲み下すと、優しいトーンで凪に語りかけた。
「さあ、冷めないうちに食べよう」
その後、雅斗はナイフでリブアイを切り分け、口に放り込みながら、自らの趣味であるジョギングの話、妻の楓との馴れ初め、ひとり息子の弦がアメリカに来てからなぜか読書に没頭していること、扶桑酒造への新卒時の入社動機、これまで国内で歩んできたエンジニアとしての泥臭い仕事の記憶など、とりとめない雑談を一方的に転がし続けた。凪の強張っていた表情も、時間の経過とともに少しずつ和らいでいく。雅斗は心底、胸を撫でおろした。
雅斗がテーブルでチェックを終え、店を出ようとしたその時、凪が立ち止まり、雅斗の目を真っすぐに見据えて言った。
「来週は、必ず出社するつもりです」
その声には、先ほどまでの脆弱さは消え、確かな力強さが宿っていた。
週明けの月曜日。雅斗がいつもの出勤時間に工場の駐車場に着くと、凪の日産の白いセダンが静かに停まっていた。凪は、約束通り出社しているようだ。先週末のあのステーキハウスでの対話が、彼の壊れかけていた心をつなぎとめる戦略として機能したのなら、あのリブアイの代金など安い投資だった。雅斗は思わず、独りよがりな満足感とともに微笑んだ。
雅斗が工場長室でユニフォームに着替えていると、突然、製造部長のアレックスが飛び込んで来た。
「マサ、大変だ!生酒ポンプがまた動かなくなった!シャフトが折れて、モーターがグニャリと曲がってしまっている!」
シャフトが折れる?モーターが曲がる?
アレックスは機械系が苦手なため、装置のトラブルの第一報がいつも要領を得ない。自分が現場で目にした視覚的衝撃をそのまま、あるいは部下の説明を自分で咀嚼しないまま雅斗に丸投げしてくるのが常だった。だからこそ、雅斗はまず自分の目で現場の事実確認することを鉄則としていた。実際に現場確認してみると、モーターがポンプの台座からずれて斜めに傾いてしまっているだけだった。本来、ポンプ側の回転軸とモーター側の回転軸はカップリングと呼ばれる中継パーツを介して接続されている。外見だけを見れば、一本のシャフトがモーターからポンプを貫いているように思えるが、実際には、二本の独立したシャフトが向かい合っている構造なのだ。その中継役のカップリングが粉砕され、シャフトがむき出しになっていたので、アレックスはそれを「シャフトが折れた」と勘違いしたのだろう。モーターにしても、彼が騒ぎ立てたように物理的に「グニャリと曲がった」のではなく、位置がずれただけのようだ。
ポンプとモーターを台座に固定する際、向かい合う二本のシャフトの軸心を寸分の狂いもなく一直線に位置合わせする「芯出し」という精密な作業が絶対に要求される。これを怠れば、それぞれのシャフトが回転するたびに偏心運動を起こし、カップリングや軸受けを瞬く間に破壊してしまう。少し前に予備のモーターと交換したばかりであるにもかかわらず、この極めて短い期間でカップリングが粉砕され、モーターが位置ずれを起こしたということは―――取付時の芯出し作業そのものに、致命的な不備があったとしか考えられなかった。
このモーターを取り替えたのは、自身を「神」と豪語したメンテナンスのリュックだった。
雅斗が、リュックを今すぐここに呼び出すようアレックスに指示しようと顔を上げたその瞬間、当の本人が、ポケットに手を突っ込んでフラフラと近付いて来るのが見えた。
アレックスが激しいため息を漏らす。
「このポンプが動くようになるまで、すべての製造をストップしないといけない。早く直さないと、発酵が……」
そこへ、製造リーダーのトーマスが、ゆっくり歩くリュックを追い抜く猛烈なダッシュでふたりの元へ駆け寄ってきた。
「マサ!念のため、予備品倉庫の棚を全部ひっくり返してきたが……、もう移送ポンプの予備モーターの在庫はひとつも残ってはない!」
「カップリングの予備ははどうだい、トーマス?」
「オッケー、マサ。すぐに調べてくる!」
リュックがニヤニヤと下卑た笑みを浮かべながら、アレックスに話しかけた。
「おう、どうした?また故障か?全く、モノが壊れない日がないな、この工場はよ」
他人事のように吐き捨てるリュックに対し、アレックスが語気を強めて応じた。
「また、お前が直したはずのこのポンプが動かなくなったんだよ、リュック!」
「何しろ、中国製のクソだからな」
こんな当事者意識のかけらもない、組織の癌のような男であっても、現在のミズーリ工場における唯一のメンテナンス要員なのだ。せめてもうひとりだけでも保全ができる人材がいれば、こんな男を抱え続けずに済むのに―――雅斗は、はらわたが煮えくり返るような苦々しい感情を必死に押し殺し、冷静な仮面を被って口を開いた。
「リュック。このポンプがこの短期間で再び動かなくなった原因を、プロとしてどう推定する?」
「中国製だからだろう?あーあ、モーターが完全に曲がっちまってるな。まったく本当にチープで最悪だぜ、中国製の機械ってやつは」
「モーターは物理的に曲がっていないよ。負荷で位置がずれているだけだ」
「ふん、同じことだろうが。いずれにしても、このモーターはもう完全にゴミ箱行きだぜ、マサ」
「私は、そうは思わない。ずれているだけだし、シャフトを見る限り、傷も歪みも見当たらない」
「まあ、工場のボスであるマサがこのゴミを使い続けろ、と命令するなら、オレは従うだけさ。どうせまた、すぐに派手にぶっ壊れるだろうけどな」
こんなやつでも自分が立てた戦略では、あと数ヶ月は何としてもここに引き留めておかなければならないのだ。雅斗は頭の中で、自らの人事戦略のスケジュールを必死に再確認した。
「こんなに短期間でカップリングが割れるのは、不自然だ。前回の取り付け直後、回転は本当にスムーズだったかい?シャフトが偏心していなかったかい?という意味の質問だよ、リュック」
「オレは完璧に直したぜ」
ニヤニヤと笑いながら、黒人特有のアクセントをわざとらしく強調するリュックに対し、雅斗は、いらだちを抑えるのが難しくなってきた。しかし、戦略通りに事を進めることこそが、工場長としての絶対的な命題のはずだ。この男を今、感情任せにクビにするわけにはいかない。
「質問を変えるよ。君は前回、モーターとポンプの芯出しを、規定のゲージを使って厳密にやったのかい?」
「完璧に直したさ」
「私が聞いているのはね!」
雅斗の声が、ついに現場の騒音を突き破って激しく響き渡った。怒号に近い口調へと変貌する。
「モーターとポンプの芯出しを、実際にやったのか、それともやらなかったのか、と聞いているんだ!どうなんだ、リュック!答えろ!」
今、リュックを解雇することは、自分の立てた戦略において、完全なる時期尚早だ。あと数ヶ月、時間が欲しい。クビにするのは、今じゃない。
「だから、やったと言ってるだろうがよ!」
そう、クビにするのは、今じゃない。ここで踏み止まれ、小野寺雅斗―――。
「嘘だッ!!」
突如、背後から引き裂くような絶叫が響き渡った。
完全な日本語だった。
涙をボロボロと流しながら、肩を激しく震わせている男―――木下凪だった。
いつから、そこにたっていたというのか?
唖然とする雅斗の目の前には、凪が自らのスマホを突き出してきた。
液晶画面には、ある「写真」が鮮明に写し出されていた。
「これは……リュックが前回のトラブルで、新しいモーターを台座に付け替えた、その直後の現場の写真です!撮影時刻を見ていただいたら、嘘をつけない事実だと解るはずです!」
震える声で、凪は涙をぬぐいもせずに叫んだ。
雅斗がその画面を凝視すると、そこには、シャフトの軸心が不格好にズレた状態のポンプが写っていた。中継役のカップリングは、本来水平であるべきなのに、強引に斜めに噛み合わされている。
さらには、モーターを台座に固定するための、四本あるべきボルトが、対角線上の二本しか取り付けられていなかった。
これでは、モーターが駆動して回転トルクがかかるたびに軸ブレが激しく増幅され、凄まじい偏心荷重によってカップリングが粉砕されるのは、時間の問題だった。
ガタガタと激しく震える凪の手から、雅斗は静かにスマホを受け取った。そして、その決定的な証拠を、リュックの目の前に突き付けた。
リュックは、画面を見ようともせず、ただ傲慢に顔をそむけると、吐き捨てるように濁った声を漏らした。
「クソアジア人は、何でもコソコソ写真に撮りやがる。胸糞悪いぜ」
雅斗は、隣に立っていたアレックスの目を、冷徹に見据えた。
「アレックス。今のは、明白な人種差別の発言だよね?」
アレックスは息を呑み、無言で深く、首を縦に振った。
その瞬間―――雅斗の身体から、これまで彼を重く縛り付けていた「戦略」という名の不自然な呪縛が、フッと消え去っていく不思議な感覚が訪れた。全身が驚くほど軽くなる。良い意味での完全なる脱力感。
何が戦略だ?
目の前にこれほどの悪質な虚偽と、従業員を傷つける人種差別があるというのに、これ以上、後追いの辻褄合わせで何を耐える必要があるというのだ?それで何が得られるというのだ?
「リュック・ベルローズ。上司に対する度重なる虚偽の報告。そして、適切なメンテナンス業務を完全に放棄して社有資産を意図的に破壊し、我が工場の製造計画を著しく狂わせたこと。この明確な二点より―――君を、今この瞬間をもって懲戒解雇処分とします」
雅斗の声は、驚くほど静かで、毅然としていた。
リュックの顔が、怒りで一気に真っ赤に変貌した。
「なっ……、何だと!?不公平だ!ふざけるな!オレは悪くない!悪いのは、このチープな中国製のクソポンプだろうが!?不当解雇だ!!」
アレックスもトーマスも、あまりに雅斗の電撃的な決断に呆然とし、言葉を失って雅斗を見つめていた。凪だけが、その横で肩を激しく上下させながら、堰を切ったように泣き続けている。
雅斗は、ひるむことなく、リュックの血走った目を真っ向から見据え続けた。
「今すぐにユニフォームを着替え、私物をすべてまとめて、ミズーリ工場の敷地から直ちに出て行ってください。猶予は与えません」
「クソアジア人のお前の言うことなんか、誰が聞くかよ!ふざけんじゃねえ!」
リュックが威圧するように雅斗に一歩詰め寄ろうとした刹那、
「やめろ、リュック!」
と、やや上ずった声でトーマスが割って入り、リュックの分厚い肩を掴んだ。
「触んじゃねえ!」
リュックがその手を暴力的に振りほどこうと腕を振り回した瞬間、彼の硬い肘が、トーマスの右頬を強烈に直撃する。反射的に激昂したトーマスが、リュックの襟首を掴んで拳を振り上げた。
「トーマス、ストップだ!」
アレックスが叫びながら猛烈な力でトーマスの背中に飛びつき、そのスマートな身体を羽交い絞めにして静止した。その激しい三つ巴の反動の中で、足元をすくわれたリュックが、不格好に床へと激しく尻もちをついた。
「リュック。君は今、工場内で明確な暴力を振いました。解雇処分は一切撤回されません」
雅斗は一歩も引かず、床にへたり込んだ男を見下ろした。
「これ以上ここで騒ぎ立てるなら、即座に警察を呼びます。それがイヤなら、直ちに工場の敷地内から出てください」
「クソアジア人が!!」
リュックは、床に唾を吐き散らした。
迫力に圧倒された凪が、思わず嗚咽を漏らす。
「これまで君が、私たちに繰り返してきた人種差別的な暴言の数々。本当に不愉快でした」
リュックが、青筋を立てて身を震わせながら、雅斗を見上げる。しかし、雅斗は、毅然たる態度を微塵も崩さず、静かに言葉を紡いだ。
「なぜ私が、これまで君のその醜い態度に我慢し続けたか、最後に伝えておきます」
工場内が水を打ったように静まり返った。凪の鼻を啜る音だけが、やけに大きく響く。
「反応すれば、君と同じレベルになり下がってしまうからです。私は、自分が日本人であることに、強い誇りを持っています。だからこそ、君の幼稚な差別発言など、いくらでも耐えることができるのです。したがって―――私の誇りの問題として、解雇の公式な理由に、君の差別発言は、あえて含めません。君は純粋に、プロとしての無能さゆえに首になるのです」
「知るかよ、そんな綺麗事!オレがいなくなったら、一体誰がこの工場のすべてのメンテナンスを回すんだ?困り果てて、泣きを見るのはお前らアジア人の方だろ!」
リュックが悔し紛れに毒づいた。
「君がこれまでこの工場でやってきたことはね、メンテナンスなどではなかったよ。君はただ、我々の大切な装置や機械、そして人を傷付け続けていただけだよ」
「何だと、てめぇ!!」
立ち上がろうとするリュックの顔の前に、雅斗は、ゆっくりと腰を落とし、鼻先が触れ合いそうな距離にまで自分の顔を近づけた。目の下の深い隈が、リュックの網膜に焼き付く。
「よく聞け、リュック!お前なんかいなくても、オレたちは、何一つ困らねえんだよ!!」
その後のリュックは、アレックスの監視の下、私物をまとめて工場から出て行った。
アレックスからの事後報告によると、案外おとなしく工場を後にしたそうだ。
夕方、雅斗が帰宅しようと工場の駐車場へ向かうと、雅斗のシボレーの右側のドアミラーが無残に叩き割られていた。
リュックが腹いせにやったのは、火を見るより明らかだった。だが、周囲に防犯カメラはなく、彼がやったという決定的な証拠はどこにも残されていなかった。
元々、雅斗が頭の中で組み立てていた人事戦略では、「解雇通知を出すのは、彼の帰宅後、電話かレターで行う」と決めていたはずだった。工場内での何かしらの報復行為に出るリスクは、事前に予想できたからだ。
戦略を自ら破ってしまったことで、ミラーの破壊という報復行為を許し、その証拠を押さえることすらできなかったのだ。
―――証拠、か。
雅斗は、夕闇に包まれつつある工場を、振り返ってじっと見つめた。
今回、リュックの嘘を完全に暴き、解雇の決定的なトリガーとなったのは、他でもない凪が撮影した芯出し直後の「写真」だった。
彼との面談の中で、雅斗は、凪に対してこう偉そうに説教したはずだ。
「醸造技術者としての自分のストロングポイントを使うべきだ」、と。
週末のステーキハウスでの、凪の言葉が脳裏にフラッシュバックする。
凪は、こう言っていた。
「昔からプラモデルやラジコンなんかは好きでしたから、ひょっとしたらそういう方面に興味があるのかもしれません」
凪の持っているストロングポイントは、雅斗が想定していたような醸造技術者としての知識やTOEICの点数だけではなかった。彼は、泥臭い機械の構造を見抜く確かな目と、執拗なまでの「事実」への執着を持っていた。
だから、彼はそのストロングポイントを使って、リュックの不正を証明してみせた。
雅斗が必死にこねくり回していた、数々の生ぬるい辻褄合わせの戦略とは、まったく違う次元の、むき出しの「事実」の力によって。
雅斗は、壊されたドアミラーを指でなぞりながら、小さくため息をつき、誰に届くでもなく、静かに微笑んだ。
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