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不機嫌なハミング <エピローグ>

    【あらすじ】

    小野寺雅斗は、アメリカの買収工場を立ち上げる初代工場長。冷酷な本部長の圧力や、文化も常識も異なる現地従業員との衝突に、独自の「戦略」で耐え忍んでいた。さらに、慣れない異国生活でストレスを抱える家族との間にも、いつしか見えない溝が生まれ、雅斗の不機嫌な鼻歌(ハミング)は止まらない。そんな中、心を閉ざした若き出向者が赴任してきたことで、工場の歪んだ歯車は予期せぬうねりを上げて回り始める。

    異文化と家族の距離に翻弄されながらも、混迷の果てに見出した国境を越えた共通項、そして隠された驚くべき真実とは――。

    42.195kmのマラソンと工場再生が完璧にシンクロする、ビジネスと家族の魂の再生ストーリー!

    やはり、雨は降り続いている。

    小雨とはいえ、数時間も晒されているので、全身ずぶ濡れだ。

    HOKAのMACH6もせっかくの光沢色がくすんで見える。

    けれど、何だか猛烈にカッコイイ。

    オレと一緒に戦ってきた、頼りがいのある相棒のような存在だ。

    ソックスももはや大量の雨水を吸い込んで、歩を進める度に、ンジョ、ンジョ、とわずかな液体を吐き出すポンプのような音を立てている。なるべく路面の水たまりに足を踏み入れないように走ってきたはずなのに、今では泥沼の中を走っている感覚だ。

     
    沿道に立てられた、残り1マイルを示す幟の周りには、数えきれないほどのギャラリーが溢れていた。

    みな笑顔で、ランナーたちに惜しみない声援を送っている。

    Almost there!!

    Almost there!!

     
    「あとちょっとでゴールだ!」


    渡米して来てから知った、オレの好きなフレーズだ。

    そうだ、あと1マイルでゴールだ。

     
    左腕のガーミンに目を落とす。

    3時間58分を示している。

    二分で残りの1マイルを走ることなど、不可能だ。

    つまり―――今回、オレのサブ4達成という目標は、完全に潰えた。

     
    ゴール近くの沿道には既に走り終えたランナーたちが、誇らしげに完走メダルを首にぶら下げて、まだゴールしていないオレたちランナーとは反対方向に歩いている。

     
    アメリカ人の撤収は、驚くほど速い。

    日本人はイベントや会食が終わっても、名残惜しそうにレストランの外や駐車場でしばらく立ち話を続け、その余韻を共有する傾向があるが、アメリカでは稀だ。イベントが終わると蜘蛛の子を散らしたように解散する。会食後にひとりでトイレに寄り、店を出た時には、もう誰も残っていない。

    だが、そんなアメリカ人の一見ドライに見える引き際の潔さを、いつの頃からかオレは、心から好ましく思うようになっていた。

     
    ゴールして一息ついたら、すぐに帰路につく。

    イベントは終わり、既に次の生活が始まっているのだ。

     
    ふと、完走メダルを首にかけた小柄な老人が、ひとりの白髪の女性と抱き合っているのが視界に飛び込んできた。

    ゴラムだ。

    奥さんと思われるその白髪の女性が、愛おしそうにタオルで彼の禿げ頭を拭いている。

    ゴラムは目じりを下げ、優しそうな笑顔で奥さんを見つめ返している。

    そこへ、あの緑色の髪をしたビーナス・ウィリアムズ似の黒人女性が近付き、ふたりと親しげにハグを交わす。

    ―――彼らは知り合いだったのか……。

    楽しそうに談笑する三人の姿。
     

    ゴラムも、ビーナスも、四時間を切ってゴールしたことは間違いない。

    オレは、自分より二回りも老齢であろうゴラムにも負けたし、ビーナスにも負けた。

    そして、自分で決めたサブ4という目標も達成できなかった……。

    しかし、不思議なほどに悔しさは湧いてこなかった。

    胸の奥にあるのは、ただ彼らを心から称賛したい気持ちだけだった。

     
    練習は嘘をつかない。

    走った距離は裏切らない。

     
    ゴラムもビーナスも、オレよりも練習したのだろう。

    そしてふたりは、オレよりも長い距離を走ってきたのだろう。

     
    清々しい気持ちになった。

     
    そうだ。

    今日、家に帰ったら、久しぶりに家族三人で餃子を包もう。

    楓の最近の味付けは、少し妙な時がある。

    だから、この場合の戦略としては―――。

    違うな。

    戦略なんて、いらない。

    楓は、慣れないアメリカ生活のストレスで、ほんの少し味覚のバランスを崩しているだけかもしれないのだ。

    もしそうなら、夫であるオレが横に立って、一緒に笑いながら味見すればいい、ただそれだけの話だ。

    確か、うちの吟醸酒も未開封のものが戸棚に眠っていたはずだ。

    冷やしておいてもらう。

    楓にも、弦にも、話したいことはたくさんある。

    ふたりが、この異国の地での生活をどう感じているか、聞いてみたい。

    三人で餃子を包みながら、いろんな言葉を交したい。
     

    雨粒は、なおもオレの顔にぶつかり続ける。

    麻痺していた両ひざも、右足首も、ここへ来て痛みがぶり返してきている。
     

    一歩一歩ゴールに近づくにつれ、沿道の声援は大きなってくる。

     
    Almost there.

    まもなく、ゴールだ。



    <了>


    あとがき


    最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
    本作『不機嫌なハミング』は、アメリカでの孤独な戦いと家族の再生を描いた物語です。皆様に少しでも楽しんでいただけたのであれば、これ以上の喜びはありません。

    実は本作は、私が人生で初めて書き上げた小説です。
    物語を紡ぐ過程はワクワクとした楽しさがある一方で、自分の内面を吐露するような苦しさもあり、筆力のなさに歯がゆさを覚える日々でもありました。

    執筆を終えた昨日は、アメリカ建国250周年の独立記念日でした。私自身、主人公の雅斗と同じくアメリカに暮らしています。街の至る所で祝福の花火が上がる中、ひとりパソコンに向かってこの物語を仕上げていったあの静かな孤独感は、私にとって一生の宝物です。

    雅斗たちの旅路を見守ってくださった皆様に、心からの感謝を込めて。
    本当にありがとうございました。


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