メインコンテンツへスキップ
見出し画像

本能寺の変1582 【重史287】1/2 №6-267 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史287】1/2 №6-267

    はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】 
    ←【五大要因】  中  小
    ←1 時代の風潮
     
     1戦国時代=相互不信の時代
      2美濃
      3尾張
    ←2 光秀の実像
     
     1信長という男  【信長という男】 目次
      2光秀という男  【光秀という男】 目次
               1 光秀の素性 2 光秀の年齢 3 光秀の人物像
      3光秀の後継者  1 信長と信忠 2 光秀と光慶 3 明智の将来
      4 先祖の教訓
      5 光秀と大量殺戮 1 仰木の事 2 比叡山焼討 3 越前 一向一揆殲滅
      6 三人の謀叛人  1 丹波 波多野秀治 2 大和 松永久秀
                3 摂津 荒木村重  4 光秀の総括
    ←3 志向の相違
      
    光秀の苦悩 
     
     1 粛清の怖れ
      2 光秀の老い
      3 志向の相違   【光秀という男】 結論 目次
                1 京都馬揃え 2 ヴァリニャーノ
                3 信長の「さらなる夢」
      4 四国問題 躓き
      5 事態急変
      6 自立への道
    ←4 武田の滅亡
     
     1 甲斐遠征
      2 勝頼の首
      3 武田効果
    ←5 信長の油断 大要 概略
      
    「事態急変」
      1 勝利の余韻  概略 4月21日
                  4月24日
      2 四国出陣   概略 5月7日 1/3 2/3 3/3
                  5月11日
      3 足蹴事件 大 概略 5月12日 大 概 1/5 概 2/5 概 3/5 概 4/5 概
                         5/5 概
                5月15日 大 概
                密室にて  大 概 1/3 概 2/3 概 3/3 概
                         ① 概 ② 概 ③ 概 ④ 概
                         ⑤ 概
      4 中国出陣 大 概略 備中高松城 大 概
                  5月17日
                坂本にて 目次 大 概
                         1 2 3 ① ② ③
                         4 ① ② 5 6 
                  5月19日 大 概
                  5月20日 大 概
                  5月21日 大 概
      5 謀叛人の顔     1 謀叛の結末
                  2 信長の弱点        
      時は今、・・・・・
                  5月26日 大 概
                  5月27日 大 概
                  5月28日 大 概
                  5月29日 大 概
    ←さる程に、不慮の題目出来候て、

    ←【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】 【重史一覧全通】
    ←【抜粋】
    ←【注目ポイント】 目次
    ←【人物】
    ←【粛清の怖れ】 【粛清 佐久間信盛】 【重史240】
    ←「その一因」 目次大 概説大 目次中 
    ←3光秀と光慶 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
    ←【四国問題】 八 九 十 目次 【四国問題 概要】 八 九 十
    ←【足蹴事件】 【重史040】 【重史041】
    ←【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
    *加筆修正

    【重史287】1/2 №6-267

    【記事一覧】>【重要史料】>【重要史料15】 281~300>

    ①九月二日、豊原より北庄へ、信長御越しなされ、

    ②城取りの御縄張させられ、御要害仰せ付けらる。

    ③北の庄御普請場にて、

    ④高島打下、林与次左衛門、生害させられ候。

                           『信長公記』

    天正三年1575、九月二日。                1575000902

    信長は、北ノ庄に移動した。
    豊原から西南方向へ、凡そ三里12kmほどの地。
     
      九月二日、豊原より北庄へ、信長御越しなされ、

    信長は、柴田勝家に築城を命じた。
    これが北ノ庄城である。

    城は、現在の福井市中央一丁目にあった。
     
      城取りの御縄張させられ、御要害仰せ付けらる。

    信長は、その普請場で、打下(うちおろし)の林員清を成敗した。→【人物】

      北の庄御普請場にて、
      高島打下(滋賀県高島市勝野)*、林与次左衛門、生害させられ候。

    信長は、粛清の人。
    邪魔者は、粛清される。

    信長は、不意を衝く。
    恐ろしい男なのである。

    林員清にとっては、正に、不意打ち。
    否、騙し討ち。
    全く、予期せぬ出来事だった。
    「謀られた」
    そう、思った時は、すでに遅かった。
    「問答無用」
    「即時執行」
    一片の弁解、その余地もなく。
    越前 北ノ庄にて。
    露と消えた。
    人の命の儚さよ。
    それにしても、何という、手際のよさか。

    磯野員昌は、震え上がった。                →【人物】
    員昌は、浅井氏の元家臣。
    生没年不詳。
    丹波守。
    佐和山城の元城主。

    元亀元年1570、信長に攻められた。、
    元亀二年1571、降伏。
    城を明け渡し、高島郡新庄に移された。

    信長は、この員昌を重く用いた。
    以後、同地の支配を任せている。

    その後、暫くして、
    甥の織田信澄を、員昌の養子に入れた。           →【人物】

    また、
    磯野員昌の佐和山城から、琵琶湖を挟んで、真西へ凡そ六里24kmほど先に、
    林員清の打下城があった。
    当時の高島郡は、浅井氏の支配下にあった。
    水運が盛んだった時代である。
    佐和山と打下は、ともに、対岸の港町。
    琵琶湖は、南北に細長く、東西には狭い=近い。
    船で繋がっていた。

    したがって、
    この二人は、顔見知りだった。
    否、知己・・・・・。
    互いの名にある「員」の一字は、単なる、偶然ではあるまい。

    なお、
    員昌も、この越前攻めに参陣している。         →【重史275】
    『信長公記』八月十五日条に、「磯野丹波」とある。


    【引用】2-5-3 越前 一向一揆殲滅



    PS
    9月17日より、noteの関連の部分につき、突然、メールの着信が止められてしまいました。
    note側・メール会社側、両方とも、原因となり得るヶ所を、幾度も、確認・チェックしておりますが、異常ヶ所が見当たりません。
    今までに、経験したことのないトラブルです。
    何しろ、キカイオンチのため、大変、困惑しております。

    早急に、解決したいのですが・・・・・。
    どの様にすれば、復旧するのかなぁ・・・・・?

    いろいろと、御迷惑をおかけ致しておりますが、今後とも、よろしくお願い
    申し上げます。

    スミマセン!!
    未だ、復旧できず。
    261005 現在



     ⇒ 次へつづく



     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

    あなたへのおすすめ