
本能寺の変1582 【重史286】 №6-266 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史286】 №6-266
はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】
←【五大要因】 中 小
←1 時代の風潮
1戦国時代=相互不信の時代
2美濃
3尾張
←2 光秀の実像
1信長という男 【信長という男】 目次
2光秀という男 【光秀という男】 目次
1 光秀の素性 2 光秀の年齢 3 光秀の人物像
3光秀の後継者 1 信長と信忠 2 光秀と光慶 3 明智の将来
4 先祖の教訓
5 光秀と大量殺戮 1 仰木の事 2 比叡山焼討 3 越前 一向一揆殲滅
6 三人の謀叛人 1 丹波 波多野秀治 2 大和 松永久秀
3 摂津 荒木村重 4 光秀の総括
←3 志向の相違
光秀の苦悩
1 粛清の怖れ
2 光秀の老い
3 志向の相違 【光秀という男】 結論 目次
1 京都馬揃え 2 ヴァリニャーノ
3 信長の「さらなる夢」
4 四国問題 躓き
5 事態急変
6 自立への道
←4 武田の滅亡
1 甲斐遠征
2 勝頼の首
3 武田効果
←5 信長の油断 大要 概略
「事態急変」
1 勝利の余韻 概略 4月21日
4月24日
2 四国出陣 概略 5月7日 1/3 2/3 3/3
5月11日
3 足蹴事件 大 概略 5月12日 大 概 1/5 概 2/5 概 3/5 概 4/5 概
5/5 概
5月15日 大 概
密室にて 大 概 1/3 概 2/3 概 3/3 概
① 概 ② 概 ③ 概 ④ 概
⑤ 概
4 中国出陣 大 概略 備中高松城 大 概
5月17日
坂本にて 目次 大 概
1 2 3 ① ② ③
4 ① ② 5 6
5月19日 大 概
5月20日 大 概
5月21日 大 概
5 謀叛人の顔 1 謀叛の結末
2 信長の弱点
時は今、・・・・・
5月26日 大 概
5月27日 大 概
5月28日 大 概
5月29日 大 概
←さる程に、不慮の題目出来候て、
←【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】 【重史一覧全通】
←【抜粋】
←【注目ポイント】 目次
←【人物】
←【粛清の怖れ】 【粛清 佐久間信盛】 【重史240】
←「その一因」 目次大 概説大 目次中
←3光秀と光慶 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
←【四国問題】 八 九 十 目次 【四国問題 概要】 八 九 十
←【足蹴事件】 【重史040】 【重史041】
←【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史286】 №6-266
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①尚々、走り入り候者ども、悉く、くひを切る由、然るべく候、
②猶々、念を入れ、残らず打ち果すべき事、専一に候、
③左候て、隙明き候はゞ、此の表へ罷り越すべく候、
④さきざき手遣いの様子、申し聞かすべく候、
「細川家文書」
天正三年1575、八月二十九日。 1575000829
信長は、豊原にいた。
八月は、小の月。
この日が月末である。
信長は、各所に散開している諸将を呼び寄せた。
今後の展開等々について。
日数等を考慮すれば、
集合の地は、おそらく、越前 北ノ庄 (福井市中央1丁目) ・・・・・。
以下は、滝川一益に送った黒印状である (①~④) 。
この書状は、何故か細川家に伝えられた。
どの様な経緯(いきさつ)があったのだろうか・・・・・。
信長は、執念深い。
徹底していた。
「根絶やし(殲滅)にせよ」
何度も、繰り返している。
①一益は、一揆勢を追撃していた。
おそらく、越前北部(加賀寄り)。
場所は、不明。
尚々、走り入り候者ども、悉(ことごと)く、くひ(首)を切る由、
然るべく候、
②台風が襲来した様子である。
「洪水」、とある。
九頭竜川水系だろうか。
作戦行動は、このような状況下で行われていた。
委細、披見候、
仍って、一昨日は、洪水により、相動(はたら)かざるの由、
其の意を得候、
③信長は、越前を根本からつくり変えようとしていた。
掃討は、まだ終わっていなかったのである。
漸(ようや)く、水も干し落つべく候間、
猶々、念を入れ、残らず打ち果すべき事、専一に候、
④信長は、一益に、次の作戦を説明すると言っている。
左候て、隙明き候はゞ、此の表へ罷り越すべく候、
さきざき手遣いの様子、申し聞かすべく候、
先書に申し遣わす如く、昨日豊原に着陣候、
其の意を成すべく候、
謹言、
(天正三年)
八月廿九日 信長(黒印)
瀧川左近殿
(「細川家文書」31)
この時、
光秀は、加賀の南部にいた。 →【重史284】
細川藤孝も、同陣していた。
二人は、親しい関係にあった。
おそらく、
光秀にも、これと同様の書状が送られた・・・・・。
加賀の南部に、明智光秀。
越前の北部に、滝川一益。
そして、その南、豊原に、信長がいる。
一益は、信長と光秀の間にあって、万一に備える見張り役、繋ぎ役のような役目を兼任していたのではないだろうか。
とすれば、
この書状は、信長から、一益を経由して、光秀に廻された・・・・・。
「此の表へ罷り越すべく候」
すなわち、
光秀に伝達された・・・・・。
それが、光秀の手から、藤孝へ。
そして、細川家に残された。
と、いうことなのではないのだろうか。
【引用】2-5-3 越前 一向一揆殲滅
PS
9月17日より、noteの関連の部分につき、突然、メールの着信が止められてしまいました。
note側・メール会社側、両方とも、原因となり得るヶ所を、幾度も、確認・チェックしておりますが、異常ヶ所が見当たりません。
今までに、経験したことのないトラブルです。
何しろ、キカイオンチのため、大変、困惑しております。
早急に、解決したいのですが・・・・・。
どの様にすれば、復旧するのかなぁ・・・・・?
いろいろと、御迷惑をおかけ致しておりますが、今後とも、よろしくお願い
申し上げます。
⇒ 次へつづく