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本能寺の変1582 【重史281】 №6-258 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史281】 №6-258

    はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】 
    ←【五大要因】  中  小
    ←1 時代の風潮
     
     1戦国時代=相互不信の時代
      2美濃
      3尾張
    ←2 光秀の実像
     
     1信長という男  【信長という男】 目次
      2光秀という男  【光秀という男】 目次
               1 光秀の素性 2 光秀の年齢 3 光秀の人物像
      3光秀の後継者  1 信長と信忠 2 光秀と光慶 3 明智の将来
      4 先祖の教訓
      5 光秀と大量殺戮 1 仰木の事 2 比叡山焼討 3 越前 一向一揆殲滅
      6 三人の謀叛人  1 丹波 波多野秀治 2 大和 松永久秀
                3 摂津 荒木村重  4 光秀の総括
    ←3 志向の相違
      
    光秀の苦悩 
     
     1 粛清の怖れ
      2 光秀の老い
      3 志向の相違   【光秀という男】 結論 目次
                1 京都馬揃え 2 ヴァリニャーノ
                3 信長の「さらなる夢」
      4 四国問題 躓き
      5 事態急変
      6 自立への道
    ←4 武田の滅亡
     
     1 甲斐遠征
      2 勝頼の首
      3 武田効果
    ←5 信長の油断 大要 概略
      
    「事態急変」
      1 勝利の余韻  概略 4月21日
                  4月24日
      2 四国出陣   概略 5月7日 1/3 2/3 3/3
                  5月11日
      3 足蹴事件 大 概略 5月12日 大 概 1/5 概 2/5 概 3/5 概 4/5 概
                         5/5 概
                5月15日 大 概
                密室にて  大 概 1/3 概 2/3 概 3/3 概
                         ① 概 ② 概 ③ 概 ④ 概
                         ⑤ 概
      4 中国出陣 大 概略 備中高松城 大 概
                  5月17日
                坂本にて 目次 大 概
                         1 2 3 ① ② ③
                         4 ① ② 5 6 
                  5月19日 大 概
                  5月20日 大 概
                  5月21日 大 概
      5 謀叛人の顔     1 謀叛の結末
                  2 信長の弱点        
      時は今、・・・・・
                  5月26日 大 概
                  5月27日 大 概
                  5月28日 大 概
                  5月29日 大 概
    ←さる程に、不慮の題目出来候て、

    ←【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】 【重史一覧全通】
    ←【抜粋】
    ←【注目ポイント】 目次
    ←【人物】
    ←【粛清の怖れ】 【粛清 佐久間信盛】 【重史240】
    ←「その一因」 目次大 概説大 目次中 
    ←3光秀と光慶 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
    ←【四国問題】 八 九 十 目次 【四国問題 概要】 八 九 十
    ←【足蹴事件】 【重史040】 【重史041】
    ←【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
    *加筆修正

    【重史281】 №6-258

    【記事一覧】>【重要史料】>【重要史料15】 281~300>

    ①大滝・白山の嵩(たけ)へ、一揆等、相集うの条、

    ②今日も逗留候て、谷々相捜し、打ち果たされ候由、簡要に候、

    ③日数・行(てだて)の事は、苦しからず候、

    ④いかにも念を入れ、

    ⑤一人も残さず打ち果たし候よう申し付けらるべく候、

    ⑥八月廿日 信長(黒印)   茶筅殿

                           「松井文書」

    天正三年1575、八月二十日。               1575000820
    信長は、府中龍門寺にいた。

    越前攻めには、二男 信雄も参陣していた。
    信雄は、永禄元年の生れ。
    この年、十八歳。
    若年ながら、一軍の指揮官である。

    信長は、これに、黒印状を送り細やかな配慮を示した。
    父親としての情愛が感じられる書状である。

      大滝*1・白山*2の嵩(たけ)へ、一揆等、相集うの条、
      滝川(一益)、掃部助(津田一安)相副え、これを遣わし候、
      四五百討ち捕らるゝの由、先ず以って然るべく候、

       *1 大滝 越前市大滝町
       *2 白山 勝山市白山神社

    信長は、執拗だった。
    「谷々相捜し」

    残敵掃討が、つづく。

      殊に、
      今日も逗留候て、谷々相捜し、打ち果たされ候由、簡(肝)要に候、

    信長は、徹底していた。
    「いかにも念を入れ」

    信雄に、厳命した。

      日数・行(てだて)の事は、苦しからず候、
      いかにも念を入れ、

    信長は、越前の一向一揆を全滅させようとしていた。
    「一人も残さず打ち果たし候よう」
    根絶やし(殲滅)にせよ、と命じている。

      一人も残さず打ち果たし候よう申し付けらるべく候、

      次に、原田備中(直政)守、赤谷*へ越し候由、聞き届け候、
      猶、追々、注進有るべく候、
      恐々謹言、

       (天正三年)
        八月廿日             信長(黒印)
         茶筅殿
                    (「松井文書」「織田信長文書の研究」)

       * 赤谷 福井県越前市粟田部町

    これが、戦国時代。
    当時の風潮だった。

    父が子に、大量殺戮を命じ、
    子が、平然と、それを受け容れ、実行している。

    正に、「狂気の世界」。

    信長も、信雄も、
    光秀も、秀吉も、
    皆、その真っ只中を生きていた。

    恐ろしい時代だった。

     

    【引用】2-5-3 越前 一向一揆殲滅


    PS
    9月17日より、noteの関連の部分につき、突然、メールの着信が止められてしまいました。
    note側・メール会社側、両方とも、原因となり得るヶ所を、幾度も、確認・チェックしておりますが、異常ヶ所が見当たりません。
    今までに、経験したことのないトラブルです。
    何しろ、キカイオンチのため、大変、困惑しております。

    早急に、解決したいのですが・・・・・。
    どの様にすれば、復旧するのかなぁ・・・・・?

    いろいろと、御迷惑をおかけ致しておりますが、今後とも、よろしくお願い
    申し上げます。



     ⇒ 次へつづく



     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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