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本能寺の変1582 【重史285】 №6-265 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史285】 №6-265

    はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】 
    ←【五大要因】  中  小
    ←1 時代の風潮
     
     1戦国時代=相互不信の時代
      2美濃
      3尾張
    ←2 光秀の実像
     
     1信長という男  【信長という男】 目次
      2光秀という男  【光秀という男】 目次
               1 光秀の素性 2 光秀の年齢 3 光秀の人物像
      3光秀の後継者  1 信長と信忠 2 光秀と光慶 3 明智の将来
      4 先祖の教訓
      5 光秀と大量殺戮 1 仰木の事 2 比叡山焼討 3 越前 一向一揆殲滅
      6 三人の謀叛人  1 丹波 波多野秀治 2 大和 松永久秀
                3 摂津 荒木村重  4 光秀の総括
    ←3 志向の相違
      
    光秀の苦悩 
     
     1 粛清の怖れ
      2 光秀の老い
      3 志向の相違   【光秀という男】 結論 目次
                1 京都馬揃え 2 ヴァリニャーノ
                3 信長の「さらなる夢」
      4 四国問題 躓き
      5 事態急変
      6 自立への道
    ←4 武田の滅亡
     
     1 甲斐遠征
      2 勝頼の首
      3 武田効果
    ←5 信長の油断 大要 概略
      
    「事態急変」
      1 勝利の余韻  概略 4月21日
                  4月24日
      2 四国出陣   概略 5月7日 1/3 2/3 3/3
                  5月11日
      3 足蹴事件 大 概略 5月12日 大 概 1/5 概 2/5 概 3/5 概 4/5 概
                         5/5 概
                5月15日 大 概
                密室にて  大 概 1/3 概 2/3 概 3/3 概
                         ① 概 ② 概 ③ 概 ④ 概
                         ⑤ 概
      4 中国出陣 大 概略 備中高松城 大 概
                  5月17日
                坂本にて 目次 大 概
                         1 2 3 ① ② ③
                         4 ① ② 5 6 
                  5月19日 大 概
                  5月20日 大 概
                  5月21日 大 概
      5 謀叛人の顔     1 謀叛の結末
                  2 信長の弱点        
      時は今、・・・・・
                  5月26日 大 概
                  5月27日 大 概
                  5月28日 大 概
                  5月29日 大 概
    ←さる程に、不慮の題目出来候て、

    ←【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】 【重史一覧全通】
    ←【抜粋】
    ←【注目ポイント】 目次
    ←【人物】
    ←【粛清の怖れ】 【粛清 佐久間信盛】 【重史240】
    ←「その一因」 目次大 概説大 目次中 
    ←3光秀と光慶 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
    ←【四国問題】 八 九 十 目次 【四国問題 概要】 八 九 十
    ←【足蹴事件】 【重史040】 【重史041】
    ←【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
    *加筆修正

    【重史285】 №6-265

    【記事一覧】>【重要史料】>【重要史料15】 281~300>

    ①八月廿八日、豊原へ御陣を寄せらる。

    ②堀江・小黒の西光寺・・・御赦免の御礼申し上げ候。

    ③賀州能美郡・江沼郡、二郡御手に属すの間、

    ④別喜右近・佐々権左衛門幷に堀江を相加へ、入れ置かせられ、

    ⑤十余日の内に賀・越両国仰せ付けらる。

                           『信長公記』

    天正三年1575、八月二十八日。              1575000828

    信長は、豊原に本陣を進めた (福井県坂井市丸岡町豊原) 。
     
      八月廿八日、豊原へ御陣を寄せらる。

    信長は、己に従順な寺は赦免した。
     
      さる程に、堀江*1・小黒*2の西光寺、
      連々(かねがね)、申し上ぐる筋目これあり、
      御赦免の御礼申し上げ候。

       *1堀江 福井県あわら市堀江十楽
       *2小黒 福井県鯖江市小黒町

    信長は、加賀の南部に簗田広正を配した。
    与力として、佐々長穐・堀江景忠を付け置く。
     
      賀州能美郡・江沼郡、二郡御手に属すの間、
      檜屋城*1・大正寺山*2、ニツこしらへ、
      別喜右近・佐々権左衛門、幷に堀江を相加へ、入れ置かせられ、

       *1 檜屋(ひのや)城 石川県加賀市日谷町
       *2 大聖寺城 石川県加賀市大聖寺錦町

     簗田広正は、尾張の出身。                →【人物】
     生年不詳。
     桶狭間の合戦 (永禄三年1560) で手柄を上げた簗田出羽守の子とされる。
     元亀元年1570、六月、姉川の合戦の時、佐々成政らとともに殿軍をつとめ
     た。
     同三年1572、三方ヶ原の戦いでは、目付として派遣されている。
     この(天正三年1575)七月、「別喜右近」の名を賜った。
     織田家の中堅武将。
     「抜擢人事」
     信長に嘱望されていたようである。

     佐々長穐(ながあき)も同じく、尾張の出。         →【人物】
     生没年不詳。
     父良則とともに、上杉氏との外交を担当した。
     この配置も、それに関連するものか。
     佐々成政との関係については、よくわからない。

     堀江景忠は、元朝倉氏の家臣。              →【人物】
     生没年不詳。
     永禄十年1567、加賀の一向一揆に通じたため同氏の攻撃を受け逃亡。
     天正二年1574、越前で、一向一揆蜂起。
     この時、もどったらしい。
     同七月頃から、信長に通じていたようである (「法雲寺文書」) 。

    信長は、僅か十日余りで加賀・越前二ヶ国を手に入れた。
     
      十余日の内に賀・越両国仰せ付けらる。
      御威光、中々申すばかりなし。
                               (『信長公記』)

    信長は、本願寺を追い込んでいた。
    じりじりと、破滅の淵へ。
    長島、越前、そして加賀。
    外堀が、埋められていく。

    信長に、躊躇(ためら)いはなかった。
    「北進」
    本性、露顕。
    その意志が明らかになった。

    時に、
    越後の龍、上杉謙信の胸中や、如何に。


    【引用】2-5-3 越前 一向一揆殲滅



    PS
    9月17日より、noteの関連の部分につき、突然、メールの着信が止められてしまいました。
    note側・メール会社側、両方とも、原因となり得るヶ所を、幾度も、確認・チェックしておりますが、異常ヶ所が見当たりません。
    今までに、経験したことのないトラブルです。
    何しろ、キカイオンチのため、大変、困惑しております。

    早急に、解決したいのですが・・・・・。
    どの様にすれば、復旧するのかなぁ・・・・・?

    いろいろと、御迷惑をおかけ致しておりますが、今後とも、よろしくお願い
    申し上げます。



     ⇒ 次へつづく



     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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