
歴史小説「安芸銀山城秘伝」第1回~黒い雨、そして市女の悲劇…
物語のあらすじ
高1の薬師堂誠は、同級生の中原美紀と夏休みの宿題で自分の町の歴史を調べ始める。町内の「武田山」には鎌倉時代から甲斐武田氏と同じ系譜の安芸武田氏が住む山城「銀山城(かなやまじょう)」があり、そこにいた悲運の豪傑、武田光和(たけだみつかず)…数々の伝説が今日も多く語り伝えられ、光和死後遂に安芸武田家は滅亡。お家再興を託し山腹に埋められた秘宝の黄金の茶釜の所在は歴史の闇に消え行方が知れない。この謎を追い武田山を探索中足を滑らせ谷底に転落する二人…一転して時は大永四年(1525年)、武田光和は山口の大内義隆の軍に城を囲まれ奮戦を続けていた。若き毛利元就、大内義隆、尼子晴久らも登場。戦乱の世を夢中で生き死んでいった若者たち、歴史に迷い込んだ現代の若者たちを描く歴史青春ミステリー!!
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「起立!」
「礼!」
終業のベルが鳴り渡って、生徒たちは三々五々地理教室を引き揚げ始めた。
休憩時間は十分間で、次の授業は数学だ。地理の授業ではビデオ映像を見たり、スライドを使っての説明などがあるため、地理教室は一種の「視聴覚室」的な特殊な造りになっている。新館四階の西側端に位置していたから、自分たちの元の教室まで戻るには結構忙しいのだ。
薬師堂誠は、同じクラスの小出正弘と並んで話しながら二階東端にある一年七組の教室へと歩いていた。
「高校ともなると、夏休みの宿題いうても一筋縄ではいかんのお」
「ほんまに。これならドリルかなんかをあてがわれたぐらいの方がよっぽど楽じゃわ」
舟入高校では、社会科は一年生は地理、二年生が日本史及び世界史、三年になると政治経済、という順で必須科目としてカリキュラムが組まれていた。
その地理の、つい今しがたの授業で和田教諭より、「自分の住んでいる町についてレポート用紙二十枚程度にまとめよ」との夏休みの課題が課せられたのだ。
(高校というのは中学とは大分違うものだな)と薬師堂や他の一年生達も流石に身に染みて感じていた。というのもあと一週間で待ちに待った夏休みに入るのだが、英数国の主要三教科などでは今週に入ってからの授業で、各教科とも夏休みの課題がたっぷりと言い渡されていた。
数学は問題集を一冊買わされて「一学期に進んだところまでの問題を全部解いてくること」で二十ページにわたり約五十問あった。英語に至ってはサブテキストとして買わされている参考書「英語の構文百五十」の「百五十構文を全部覚えてくること、休み明けの二学期冒頭にテストをする」ときた。
全く暑い暑い夏休み、しっかり休みしっかり遊んで青春を謳歌して身も心もリフレッシュしたい所なのにこれでは一体、休めるものかどうか判ったものではない。地元の国立大学へ毎年一〇〇人以上を送り込んでいた時期もあったというほど広島県内でも名うての進学校と聞いてはいたが、聞きしに勝る実態ではあつた。
そんな中でしかし、考えさせられることもあった。
高校になると国語は「現代国語」と「古文」「漢文」と三つの教科に分かれるが、その現代国語の夏休みの課題は「井伏鱒二の小説『黒い雨』を読んで四〇〇字詰め原稿用紙五枚以上の感想文を提出せよ」であった。
「黒い雨」は広島県の生んだ著名な作家、井伏鱒二の代表作である。
この小説は広島に落された原爆を描いた作品として広く世に知られている。
主人公閑間重松は被爆者であり、被爆直後の広島の惨状を克明に日記に書き留めていた。井伏鱒二自身は被爆者ではないのだが、主人公が当時の日記を整理するという形で井伏鱒二の類い稀なる筆力を持って広島原爆の惨状をリアルに描いた秀逸な作品である。
薬師堂達の通う広島市立舟入高校は、後一キロも南へ下ればもう海に足が届く広島市南部にある。市内中心部から電車で約三十分、爆心地近くの原爆ドームから直線距離にして約二キロのところに位置している。何よりもこの「黒い雨」で主人公重松が被爆し郊外へ逃げるまでの行程に出てくる地名・町名が非常に身近で、そのため生徒たちは一層リアルにこの小説を受け留めることが出来る訳であった。
先輩たちに薬師堂が聞いた話では高二の夏休みの読書課題は、自身が被爆者でもある太田洋子の代表作「屍の街」、三年になると岩波新書で出ている大江健三郎の「ヒロシマ・ノート」でここ最近は変わっていないらしい。ここまで毎年原爆文学というものをじっくり読まされると、広島の原爆について考えてみるという学校の意図は誰にでもわかる。
今年一九七三年は終戦後二十八年、ベトナム戦争も昨年和平がなり、昭和三十二年生まれの薬師堂達は全く戦争というものを知らない世代だ。夏休みには友達と海にでも繰り出して、最近流行りの小説でも読んでテレビの青春ドラマみたいにパアーっと楽しくいきたい所なのだが・・・・・
この高校は進学校だから授業を割いて原爆の事を詳しくやるといったように平和教育に特に力を入れていると言うほどではないようだ。それにしては現代国語の夏休みの課題のテーマは三年続けて原爆なのである。またこの学校には原爆のことばかりを題材に取り上げ続けている演劇部があるという話も聞いていた。
実は、ここ舟入高校には、原爆についてこれ以上の悲劇は無いというくらい悲しい悲しい過去があるのであった。
舟入高校は今でこそ男女共学だが、戦前は市立高等女学校といい女学校であった。あの運命の日、一九四五年八月六日、市立高女の一、二年生と引率の教職員合せて六七九人は建物疎開作業に広島市中心部に出ていた。米軍による本土の空襲が激しくなり爆弾での類焼を避けるために建物を壊し空き地を作る作業に駆り出されていた。
現在の平和公園の南側東よりに架かる平和大橋の袂の辺りで、八月六日午前八時十五分、全員が被爆、大火傷を負った女生徒達は熱さを逃れるためすぐ近くを流れる元安川に入ったが、力尽き海へ流されていった。教師を中心に輪を作って校歌を歌いながら励ましあったが及ばず死んでいったという。一人だけ何日か生き残った女生徒が皆の様子を語った後息絶え六七九人が全滅となった。
その後二年たった夏、原爆資料館南側の工事現場から名札や櫛、財布等と一緒に女生徒二人の遺体が発見された。市立高女の女生徒たちの携行品置き場で、体調の悪かった二人が留守番をしていて爆風で塀が倒れ下敷きとなり焼死したと見られ、新たな涙を誘うと同時に、一人の生存者も無くわからなかった生徒たちの、作業をしていた大体の位置が判明した。現在の平和大通り、別名一〇〇メートル道路の「広島市立高女の慰霊碑」が建っている辺りだ。爆心から五百メートルも離れていないこの近辺での惨劇の凄まじさは想像を絶する。
薬師堂はいつだったか「舟入・市女合同同窓会名簿」というのを見せてもらったことがあったが、市女の昭和二〇年前後の二回生分のところが「原爆犠牲者」となって数ページ、この時に亡くなった人々全員の氏名が掲載されているのを見てあらためて事の重大さを感じた事があった。
勿論戦後の新教育制度に伴って学校名も舟入高校となり市女の歴史は終わった。教師も広島の人ばかりでは無くなっただろうし、生徒も戦後生まれで市女の悲劇も年と共に忘れ去られがちになっていっただろう。しかし、やはり根底には、この悲劇を忘れまい、原爆というもの全体を今一度真剣に考えて見て欲しい・・・・・というのがこの学校の教育方針なのであろう・・・等々と典型的な戦後世代である薬師堂などが、ここまでいろいろと考え巡らしてみているということをもってしても、学校の教育意図は半ば成功したと言えなくは無い。
それにしても入学早々初めての夏休み、大いに遊ぶことを第一として、これだけの宿題をどうやって片付けるかだ。とりわけ難問はこの変てこな地理の課題だ。自分の部屋でしこしこやっていても何も始まらない。手掛かりになるものを探しに外へ出かけなければ何も進みようが無い。
(こいつぁやっかいだぞぉ)
薬師堂は汗を拭き拭き教室へ向かった。蝉が校庭のそこいら中の樹にとまって、今を盛りにミンミンミンミンとやかましく鳴き囀っていた。
(つづく)