
歴史小説「安芸銀山城秘伝」第8回~毛利元就の策略~
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武田家中の内紛をよそに、天文九年(一五四〇年)六月いよいよ出雲の尼子晴久は安芸へと乗り出してきた。目指すは毛利元就の郡山城。大内方に寝返った元就を討伐するためである。
八月には、牛尾遠江守幸清が尼子晴久の命を受け、二千の兵と共に佐東銀山城の武田信実の下に入った。郡山城の毛利元就を南側から脅かすためである。八月十日、尼子晴久は自ら三万の大軍を率いて月山富田城を後にし、九月四日には吉田郡山城西北に到着。遂に合戦となった。
大軍を前にひとたまりも無いと思われていた毛利軍であったが、自軍の十倍もする敵を前にして元就は郡山城に篭り、お得意の奇襲や計略で尼子軍を散々いたぶって苦しめ、とうとう冬まで持ち堪えた。兵糧も残り少なくなった尼子勢は、雪に閉ざされることを恐れ、翌天文十年(一五四一年)正月十三日、遂に出雲に向って撤退を開始する破目となった。
「なに!?それはまことか?!」
尼子軍撤退の報を聞いた品川左京亮は、わが耳を疑った。
(あの天下の尼子が・・・・・)
郡山では元就が、あの手この手と奇策を次々と繰り出し、想像以上に善戦し持ち堪えていると聞いてはいたが、所詮落城は時間の問題と誰しもが思っていた。
(恐るべし・・・・・・・毛利元就・・・・・・ )
こうなると、尼子方の武田の銀山城は、尼子の大軍が居なくなった瞬間から、毛利や大内からは格好の攻撃目標となる。
折りしもこの日は、夜半から大雪となっていた。
(城を出るとしたら今夜しかない)
品川左京亮は、頂上館に詰めている信実に使いをやって観音堂まで呼び寄せた。
「殿、もはやこれまでにござりましょう。尼子軍と出雲で合流して再起を期すのです」
「ど、どうすると言うのじゃ?」
大雪の中、しかも夜中に呼び出されて信実はまだ事態が飲み込めない様子である。
「もはや一刻の猶予もなりません。今宵、これから城を出るのです」
旅支度は既に左京亮が供の者に用意させてあった。
不安な面持ちながら信実は左京亮に従わざるを得ない状況であることを直感した。その場で着替えを済ませた武田信実に供の者一人をつけ、これを先導する品川左京亮ら一行三人は、降りしきる雪の中闇夜に紛れて銀山城からの脱出を図った。
銀山の頂上を隣の火山(ひやま)側の西に折れ、伴方面への登り道を逆に駆け降りた。北東方向は、香川、熊谷と武田に反旗を翻した勢力の縄張りだから危険である。また、海沿いを西へ西へと進むのも大内方に捕らえられる危険があった。
(遠回りになるが、伴から久地(くち)、戸河内(とごうち)方面に草を分け入って進み、そのまま山越えをして出雲へ抜けるしか道は無い・・・・・・)
一歩、また一歩、落ち行く三人の足取りは重たかった。
舞いすさぶ吹雪が益々勢いを増していた。
主を失った佐東銀山城では、
「こうなったら城に篭って最期の最期まで戦いあるのみ。城を枕に討死じゃ」と血気にはやる者も居たが、年若いとは言え、主君である武田信実自身さえ見限って行った武田家の落日は隠せようも無く、一人、又一人と毎夜のように銀山の城から兵が逃げ落ちて行った。
尼子方から毛利討伐の援軍として派遣された牛尾率いる二千の兵も、孤立を恐れ、尼子軍の後を追うようにして引き上げてしまっていた。
結局の所、残るは武田恩顧の家臣たち、粟屋、山中、青木、内藤らの配下約一千余騎が決死の覚悟で銀山城に立て篭もった。
武田方から寝返り、今では毛利方の先鋒となっている香川左衛門尉や己斐豊後守らは、逃げ場を無くした武田の残党に死に物狂いになられては容易には攻め落せないと、何とか和睦をさせるため銀山城に使者を遣わせた。
これになびきかける者も居たが、内藤弥四郎が毅然として、
「ここに至って今更何を言う。出て行きたい者は行ったら良いであろう。他の者がどうであろうと、この内藤弥四郎、銀山城を枕とし、ここで討死ぬ覚悟じゃ」
と大いに憤り使者をも切り捨てかねない有様であったので、他の者ももはやこれまでと、いよいよ最期の一戦の覚悟を決めたのであった。
猛将武田光和も病死し、今また尼子の大軍を撃退し意気揚揚たる毛利元就は、後顧の憂いも無く、いよいよ銀山城攻略に取り掛かった。
「あの剛勇で鳴らした光和が年若うにして亡くなるとはの、人の命など判らぬものよ。おまけに精鋭揃いの武田の家中が内紛で揺れていると言う・・・今の内に討ち取ってしまえゃ」
と大内義隆も陶隆房(すえたかふさ)の一軍を派遣し、毛利軍と合流させた。
毛利軍は大町(おおまち)金蔵寺の辺りに、また陶隆房率いる大内軍は銀山南麓青原(あおばら)の城山(しろやま)南御所(みなみのごしょ)付近に陣を張った。
かくして、毛利・大内合同軍の銀山城攻撃が始まった。
中でも大内軍は何度攻めても武田光和率いる武田の精鋭に守られ煮え湯を飲まされてきたから、今度こそはとの意気込みには凄まじいものがあった。 それにしてもこの銀山城、三百年この方手を尽くして作り上げられた全山要塞で、ここにひとたび篭ってしまえば守るに固く、容易には攻め落せない。 三月四日、毛利軍の一隊が銀山の東麓尾根にあたる三岩(さんいわ)の方面から攻め掛けてみたが、六人の武田の兵を討ち取ったのみでそれ以上は進めない。
銀山城の中枢は中腹より上にあり、裾野はなだらかでも一定より以上になると、断崖絶壁そそり立つが如き険しさで、大軍では到底攻め上れないのである。狭く急傾斜の登り道を楯などを押し立てて少人数で登るところを山陰より散々に矢を射掛けられでもするとお手上げなのであった。
ここに至り毛利元就は一計を案じた。
(・・・・この城は容易には落せぬ・・・・・・)
そう見た元就は得意の計略を講ずる。
この山城を正面から攻め落すのは到底無理と見て、裏側から攻めるしかないと考えた。銀山の武田方でも万一背後から敵が攻めて来る時のことも考え、安(やす)の正伝寺に配下の者を住まわせておいて、いざ背後から銀山を攻める動きがあれば正伝寺の鐘を打ち鳴らす手筈にしてあった。
このことを察知した元就は、一隊を正伝寺に差し向けこれを制圧し、合図の鐘を鳴らさない手筈を整えた。
五月七日夜半、毛利軍は銀山の北側山麓に密かに集結した。しかし何とか城方の注意を山の正面南側に向けさせておかねばならない。
そこで元就は策を巡らし、八木の辺りで農家という農家からありったけの草鞋(わらじ)を急ぎ集めて油に浸し、これに火をつけて八木の辺りから夜の太田川へ片っ端から流したのである。
大量の草鞋は、轟々と燃えながら銀山城南側正面を流れる太田川を流れ下って、戸坂の渡船場付近で水の流れの加減で渦を巻いた。これを銀山の城の上から見ると、夜目でもあり丁度毛利の大軍が八木の辺りから松明を持って行軍し、戸坂付近に集結した後今にも正面から銀山へ攻め掛けて来るかのように見える訳であった。
正伝寺の合図の鐘の鳴らない理由を知らない武田方は、正面からの大軍の襲撃に備え、全軍を城の南側正面中腹の各所に配置につけた。
次から次に松明を持った毛利方の兵たちが、戸坂に大挙して渦を巻くほど集結し膨れ上がっているようにも見える。夜にもかかわらず、銀山に向けての進軍は時間の問題と思われた。武田方はこれを警戒し、主力を南側中腹まで降ろし正面からの毛利軍の突入に備える体制をとった。
銀山の武田軍に緊張が走った。
ところが時間は経てども、一向に銀山へ攻めて来る様子が無い。一時は燃え盛って見えた松明の火も火勢が弱まり、チラ、ホラと消えかかり始めている。
「ややっ!?これはおかしい。さては謀られたか!」
その時である。
頂上館の方角で大喚声が上がり、メラメラっと館から火の手が上がった。 武田軍の隙に乗じて北側闇に紛れて攻め上ってきた毛利の本隊が、突然背後から攻めかかってきた。
「謀られたぞ、敵は背後じゃ。皆取って返せ」
しかしいつもは攻め上ってくる敵を上から散々に攻め降ろす強さを誇った武田軍も、既に頂上を奪られ逆に下から上へ向って攻め上って行く形では、攻守逆転、不意を突かれたこともあって武田軍はバタバタと討ち取られてゆく。完全に形勢不利であった。 (つづく)