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歴史小説「安芸銀山城秘伝」第6回~武田光和~

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     大内方の再三の執拗な攻撃に対し、武田光和率いる武田軍は要塞堅固で鳴る銀山城の地の利を生かし奮戦し、何とか踏みこたえていた。
     毛利元就は大内勢が数万の大軍をもって安芸国になだれ込み、銀山、桜尾の両城を取り囲む、の一報を受けた時直ちに出雲月山富田城の尼子経久の下へ援軍要請の早馬を送った。
     これを受け尼子経久も、亀井・牛尾・馬田ら大将を先陣として五千騎を安芸へ送り、自らもいよいよ出雲・伯耆・美作・備後・備中の勢力を集め、遂に銀山城の後詰に打って出てきた。
     また毛利元就も吉川・宍戸・平賀・小早川・熊谷・香川ら四千の兵を率いて尼子軍と一緒になり、七月八日銀山付近に進軍し、大内軍に対峙して陣を構えた。まさに中国の両雄、尼子軍と大内軍の全面衝突は避けられぬ情勢となってきた。
     両軍しばらくの間、互いの出方を探りながら牽制し合い幾日かが過ぎた。
     
     このような中で迎えた八月五日は、日暮れより折りしもの大雨となり、全くの闇夜となった。
     毛利元就はこの時とばかりに山内・宮下・宍戸・吉川・小早川・熊谷・香川らの諸隊を五つに分け、大内方の陶安房守、杉伯耆守といった名だたる武将の陣へ、敵味方の区別がしやすいように白鉢巻に白装束という出で立ちで夜襲をかけた。闇夜に加えて折からの風雨の中、突然切り立てられて大内の軍は大崩れとなり、討ち取られた者多数。夜討ちは大勝利を収めた。
     散々に切り立てられた大内軍では、八月十六日、陶晴賢は銀山南麓青原の南御所に置いていた陣を一旦払い、廿日市まで後退し大内義興の陣と合流することとなった。
     銀山攻めにてこずる様子を聞いた大内義興は、
    「尼子経久、武田光和、毛利元就、この三人は皆吉川家と婚姻し縁戚となり、このように一味してそれがしに敵対するとは誠にけしからぬ」
     と大いに憤り残念がったため、陶らは発奮し凄まじい勢いで桜尾城を攻め立てた。
     ところがこの時、折りしも九州勢侵攻の注進がしきりに届き、また時を同じくして石見勢が尼子方に呼応して長門との境界へ侵攻してきたとの知らせも届いていたため、
    「まず自国の敵を退治した跡他国を切り従えるべし」との義興の命に従い、八月二十五日廿日市の陣も引き払われ、大内軍は山口へ撤退するに至ったのであった。


     光陰矢のごとし、十年の月日は瞬く間に過ぎ去った。
     武田光和は先年、三入(みいり)の高松城主、熊谷信直を攻めた際敵の矢を左足太股に受けた。
     その時は浅い傷と見えたのだが大した処置もしなかったのが災いし、傷口から菌が入ったのか化膿し大きく腫れ上がり、今や寝込むまでになった。左足は太股だけでなく全体が腫れ上がり、腐りかけているような状態であった。現代ならば切断して一命をとり止める所なのであろうが、当時のことではそれもままならず毒が全身に回って、衰弱の一途をたどっていた。このところ数日前からは高熱を発し体に痙攣がきて、意識も失せがちになりかなりの重篤な状態であった。今で言う破傷風の症状であろう。
     高熱にうなされ、息も絶え絶えになりながら、光和は初めて己の一生を思った。
    (・・・・自分の一生とは何であったのであろうか。十五の時、父を討たれてよりは、合戦に次ぐ合戦、まさに戦に明け暮れた毎日であった。そのような毎日を省みることも無かったが、今こうして意半ばで思いもかけず死の淵に立つこととなってみると、自分の人生とは何とも無惨な月日を刻んだだけのものか・・・・・)
     頭を巡るものといえば、佐東の大地を忙しく駆け回り奮戦した戦のことばかりであった。
     鬼人とも恐れられた父、元繁を討たれた有田合戦から以後は、武田家は急速に衰退をはじめた。配下の熊谷などにまで見切りをつけられて離反され、また山口の大内からは中国支配の拠点を作るため再三再四銀山城への侵略を受け、気の休まる間も無かった。
     亡き父の弔い合戦を憎き毛利元就に一度も挑むこと無く、今まさに自分の命の火は燃え尽きようとしているのか…悔んでも悔み切れない。この悲憤の心というものは、例え死んでもこの世から、この佐東銀山の地上から消え去るとは到底思えなかった。
    (・・・・父上、太郎は口惜しゅうございますぞ。まだまだ父上に会いとうはございません。父の仇元就と一戦も交えずば何の合わす顔がありましょう・・・・・・父上・・・・・光和は・・・・・本当は淋しゅうござりました・・・・・・安芸武田の家を・・・・今一度・・・)
     その時、
    『太郎よ、お前は立派によう戦うた!』
     一瞬、父元繁の声がはっきりと鮮やかに、耳の中に響いた。
     それが光和の最期の時であった。
     高熱にうなされて、つり上がった両の目から涙がひと雫こぼれ落ちた。目を開き、歯を剥き出しにしたまま胸を掻きむしり、恐ろしい形相で最後は自分の運命を呪いながら、武田光和は息絶えた。齢三十八歳。
     天文九年(一五四〇年)六月九日のことであった。

     
     このような悲運の最期であったから、光和の死後、銀山では奇怪な出来事が度々起こる。これも光和が成仏出来ずに亡霊となってこの付近をさ迷っているからだという噂が絶えなかった。
     銀山へ木こりに行くと必ず怪我をするとか、山から石を持って帰りわら打ち台にしていたら家族から病人が続出したとか、中腹の大谷には大きな蛇がいてこれを見たものは必ず病気になる、この蛇こそ武田光和の生まれ変わりであろう・・・・・とか枚挙に暇が無いほどだ。
     
     中でも誠しやかに地元で伝えられている大掛かりな話としては次のようなものがあった。
     ある禅宗の修行僧が道に迷って銀山を通りかかり、岩を枕に眠ったり、滝の水に打たれて座禅をしたりしていると、一転俄かに掻き曇り暴風雨となった。やがて山が崩れるほどの大音響がしたと思うと、年の頃三十余りの大男が鎧を着て鉄の大弓に鉄の矢を持ち、葦毛の馬にまたがり飛んできた。ものを言うのを見ていると口から火を吐いている。この男が「小河内」と呼ぶと「はい」と言って齢六十ばかりの老人が大地から湧き出してきた。男が「これにお客のお坊さんが居られる。おもてなしを」と言うと、この老人は湯玉の沸きかえる熱鉄を銚子に入れ鉄の杯を添えて持ってきた。大男は、
    「貴僧に一杯おすすめしたいがまずは自分が飲んで見せよう」
    と軽々とその熱鉄を三杯傾け、
    「我は生きていた時は武田判官光和と言った。最後の一念によって修羅道に入り魔軍八万四千を率いて天下の騒乱を起こし、仏法を仇となし、猛火をもってすべての寺を焼き尽くそうとしている。達磨大使九年の修行ですらどうすることも出来ない。ましてこの頃の一僧において何が出来るか。形は僧に似ていても心は鬼の如く、身に法衣をつけていても心は俗塵に染んでいるではないか。仏は太平の世の奸賊であり釈迦は乱世の英雄である」
     などと暴言をもって仏を罵り一口に食おうと僧に飛びかかろうとした。
     この僧は全く動ぜず、暫らく端座した後忽ち大声で、
    「通心無影像!」と一喝した。
     その瞬間に光和は合掌して何か唱えながら跡形も無く消え去った。
     この僧は、これは誠に不思議なことであると、暫らくここに逗留し武田光和の霊を弔うことにし、千部の経を書写しこの地に埋め、また千本卒塔婆を作って冥福を祈ったので光和の怨霊もようやく静まった、というものであった。               (つづく)


     
     
    作家/エッセイスト/ファイナンシャルプランナー /ラジオパーソナリティー、広島市在住 「広島にこだわり広島を題材にした作品を広島から発信」をモットーに小説や詩、エッセイを創作。 ◼️著書に小説「愛が降る球場物語」(ザメディアジョン刊)、自伝的エッセイ「カープファン物語」(新風舎刊)

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