
竹中半兵衛は二度殺される 第6章
あらすじ
稀代の軍師・竹中半兵衛は病死ではなく、殺害されていた!?
全て実在の古文書を引用し、戦国時代の裏側を推理する歴史ミステリー。
竹中半兵衛を卒論のテーマに選んだ大学生とその友人の会話。
『黒田家譜』と古文書を突き合わせた時に生まれた些細な疑問。
史料を探し研究を進めると竹中半兵衛の殺害疑惑が浮上する。
さらには『豊鏡』の不自然さ。『信長公記』に隠された謎。
そこから浮かび上がるひとりの武将。
忖度された通説が覆い隠す、本能寺の変直前までの歴史の謎に迫る。
第6章 利用される嫡子・竹中重門
出自にコンプレックスを持つ秀吉は、地位の正当化や他人から見た自分の評価に執着した。
◇
「多分揉めただろうね、もし、竹中半兵衛が生きてたら。
でも、その書状を書いたニヵ月後、天正七年六月、竹中半兵衛が死んでしまう。それで、うやむやになったんだと思う。
おそらくそれで『信長公記』は、意図的にこの話題を避けてるんだよ」
「そう言えば、最初、お前が『信長公記』を引き合いに出さないから不思議だったんだ。確かに『信長公記』に黒田官兵衛の話は見なかったな。テレビドラマや小説では、秀吉と竹中半兵衛、黒田官兵衛、三人の友情が盛り上がる話なのに」
「そういうこと」
「それにしても、・・・」
「秀吉って運が強いよね」
「否定はしないけど、・・・何だかな」
「うん・・・」
「運じゃなくてさ」
「ん?」
「竹中半兵衛は秀吉を騙したんだろ?それで殺されたのかもしれない」
「いやいや、さすがにそれはないだろ。竹中半兵衛は病死とされているし、もしそんなことがあったら前代未聞だよ。そもそも秀吉と竹中半兵衛は仲が良かったんだから」
「何を根拠に?」
「『豊鏡』。『黒田家譜』にもあったと思う。成立時期から考えれば、そこは『豊鏡』を参照したかもしれないけど。
どちらも竹中半兵衛が死んだ時、秀吉はすごく悲しんだって残っている。テレビドラマなんかでは定番の、お涙頂戴の名シーンなんだから。
それに『豊鏡』を書いたのは竹中半兵衛の嫡子・竹中重門。さすがに嘘は書かないよ」
「テレビはいいとして、本当にそうだったのかな?」
「自分の自慢の父親だよ。もし殺されていたなら、そんなの書かないよ」
「知ってたらそうだけど、時代が合わないだろ?この頃、竹中重門は子供。まだ美濃にいたから、真実は知らないよな」
「いや、ほぼ同時代と言って良い。話が風化するようなズレじゃないよ」
「『豊鏡』の豊は、豊臣秀吉の豊だよな」
「そう・・・だったと思う」
「確か、秀吉が生まれた時の話も入っていたよな」
「よく知ってるね。そんな話を伝え聞いたんだろうね」
「教授のおつかいで、先週、コピーとったんだよ。で、竹中重門は、秀吉が生まれた時の話を誰から聞いたんだと思う?」
「・・・たぶん、秀吉?」
「そうだよな、秀吉が言って聞かせて書かせたんじゃないのか?」
「多分、そうだね。第三者から聞いて勝手に書いて、あとから秀吉に咎められたら死罪だからね」
「それで竹中半兵衛の息子が、”竹中半兵衛が死んで秀吉がとても悲しんだ” と書く。みんな信じるよな」
「まぁそうだね。それが何か?」
「だからぁ、生殺与奪の権力を持つ豊臣秀吉が、竹中重門を指名して、否応無く、む、り、や、り、書かせたんじゃないの?他のみんなに信じさせるために」
「・・・どういうこと?」
「だから、歴史を変えて、上書きするために、竹中重門を指名して書かせたかもしれないって言ってんの」
「・・・」
「お前が日記に、俺のことを人殺しって、書いたらそれが100年後は歴史になるんだろ?」
「ん?そう・・・か。そうか!それは確かに有り得るかも。『信長公記』に『太かうさまぐんきのうち』。全部、農民上がりの豊臣秀吉が、自分の支配を正当化するためのプロパガンダだからね。お天道様の道理ってやつ」
「『太かうさまぐんきのうち』では『信長公記』の太田牛一が利用された。だったら『豊鏡』も太田牛一に書かせればよい。いろいろ知っている年配のお伽衆だって何人もいた。ググるからちょっと待て」
「・・・」
「えっと、さっきの秀吉の書状の宛先、小寺休夢もお伽衆だよ。信長が上洛する時に戦った六角承禎や、桶狭間の前後で信長に追放された斯波義銀もいる。そんなリアルタイムで歴史を知っている連中がいる。正しい歴史を残そうという意図ならお伽衆に編纂させれば良い。実際『天正記』を書かせているだろ。
でもなぜか、年若い竹中重門が、秀吉に指名されて『豊鏡』を書いた。
”竹中半兵衛が死んだ時、秀吉は悲しんだ” と竹中重門に書かせた。
・・・だとしたら?どうだ」
「そこには何かの意図がある!」
「そう!それが歴史を上書きするためのキャスティングだとしたら」
「だとしたら、怪しくなるね」
「調べてみよう。そのために図書館にいるんだし」
「そうだね」
「『豊鏡』って本あったっけ?」
「『群書類従』だよ。これこれ」
「おぉサンキュー」
「ちょっと待てよ、どこだっけか。よし、あった」
「そういう目で見てなかったからなぁ」
「何だよ、言い訳か?」
「そうだよ。言い訳。いいだろ。で、ええっと、まず、秀吉の生まれが書いてある。天文六年丁酉、・・・は1537年だな。尾張國愛智郡中村村」
「そんなの秀吉本人か弟の秀長。あと大政所くらいしか知らないよな」
「戦の話なんだから、大政所はないよ」
「えっと、最後は高麗の亂、文禄・慶長の朝鮮出兵で終わっている。だから天正十九年に死んだ秀長もないな」
「つまり、秀吉本人から話を聞いて、書いてるってことだね」
「それ以外は考え難いな。それで、竹中半兵衛はどう書いている?」
「元亀元年の姉川の前、これが最初の竹中氏だね」
元亀元年の夏江北淺井備前守。越前國主朝倉義景と一心にして 信長を背き侍れば。軍を發しかれを失はんとし給ふ。筑前守秀吉先掛を望ぬ。信長ゆるし給へり。勢も多かりけれど、猶かれに合すべき程ならねば。美濃國人竹中氏、牧村氏、丸毛氏三人を具せばやとこはれしに任せ給しかば。彼等を相伴にして江北の軍の先掛し給へり。同六月廿八日 姉川の軍ありける。竹中氏久作の某。其折江北のみにあらず。あたりの國までなをあげし遠藤氏を討
べきとかねて云かたりしにたがはざりしぞ不思議にみな入思へもとなん。
「なんだよ、半兵衛じゃないのか?」
「どうだろう?」
「黒田官兵衛のことはどう書いてある?」
「どれどれ、あった。”小寺官兵衛はもとより心ざしふかかりけり” って」
「それだけ?」
「それだけ・・・だね。後は上月の城攻めの話が出てる。”其外そむくをばいましめ” って、反抗した者を殺したってことだね。それから別所小三郎は、別所長治の事で ”毛利右馬頭輝元主を内々かたらひて秀吉を背きぬ” ・・・いきなり、三木合戦だ。それで書寫山の僧がでてきて、何だこれ」
「ちょっと待て。”書写山 秀吉” でググると、うん、姫路の圓教寺って寺が出てきた。三木城攻めの時に黒田官兵衛の進言で秀吉が陣を置いたらしい」
「なるほど、それで・・・。信長に早馬を出して信忠が出陣と。で、
”明石高砂の邊にありて、高倉の表へは行かずと。筑前守軍を退べしとありしかば、心えずながら力にをよばず。秀吉功あらんことをねたみ。かくはからひなせるとなり”
・・・秀吉の功を妬みって、んー、意識して読むと、なんだろなぁ、秀吉の自己中、自慢話を筆記しているみたいだね」
「竹中半兵衛でてこないのか?」
「”竹中某下知をなしてその日はくれぬ”」
「某かよ。明らかに父・半兵衛ではないな。普通、親戚でも某とは言わないだろ?」
「そう思うね」
「さっきの竹中久作って?」
「久作は半兵衛の弟。おそらく、姉川の戦いでは弟の方が活躍したんだね。で、本能寺の変の時に死んでる」
「もう一回見せて。これ、なんだ?これ本当に竹中重門本人の意思で書いたのか?
竹中久作は本能寺の変の時に死んでいるなら、ほとんど面識はないはずだよな。竹中半兵衛が死んだ後、その後任で播磨に行ったから」
「そのはずだね」
「それなのに、その叔父を某呼ばわりする時点で礼儀が無いか、頭が悪いと思うけど。もし竹中家家中で話を集めて『豊鏡』を書いたなら、こんな表現にはならないだろ。失礼過ぎる」
「うん」
「それに何だ、これ。その叔父を貶しているよな。”遠藤氏を討ち取ったら、みんなが不思議に思った” ってどういうこと?ほとんど面識が無い、既に死んでいる叔父を嘘つきだって言ってるようにみえるけど」
「確かにそういう意味になるね。戦国時代、他人が討ち取った首を横取りして自分の手柄にする奴がいたっていうから、 ”竹中久作が武名の通った遠藤氏の首を獲った時、皆、横取りしたと思った” って言ってるのと同じ。その上、名前に某をつける。これは見下げた奴という意味の某なんだろうね」
「俺には家門の武功を貶す神経が分からない」
「本当に。家門の武功なら普通、自慢するよね。それに他にも竹中某って、親戚に聞けば名前くらい分るし、武功についても真偽は分かるよね。それをいちいち某って。希代の軍師の嫡男なのに、なんか残念」
「つまり『豊鏡』を信じるなら、竹中重門は親戚中から爪弾きにされてたってことを認めるってことだよな」
「いや、え、でも、そんな訳ないだろ。関ケ原でもちゃんと軍を率いて出ているんだから」
「お前、さっき『豊鏡』を根拠にしてたよな。この文章が、嫡男・竹中重門の書いた文章なら、爪弾きになっていないとオカシイんじゃないか?
少なくとも親戚連中を嫌っているようにしか見えないが」
「えっ、えー、その後も半兵衛は出てこないな。あ、あった。ここだ」
「ははは、誤魔化したな」
竹中半兵衛主。例ならず心ちなやみしを。薬の道しる人もて さはぎけれど験なかりければ。京にこそ薬の聖も有とて上りしに。少おこたり様なれども。猶心ちさはやぐ様にもな けれど。播磨にて死なんこそ軍塲に命をおとすに同じかるべしとて。いまだなやみながら。秀吉の御座し平山に行て。六月中の比 終に失にしぞかし。秀吉限りなく かなしび。劉禪孔明を失ひしにことならず。
「薬の知識がある人がいろいろやったけど、効果がないので、京都に行ったということか。”心ちなやみしが” は胸の悩み、これが胸の病気ってことだろうね。ここだけ切り取って、お涙頂戴していたわけだ」
「結局、三木合戦の話ばかり書いてあるけど、荒木村重の話がでてこない。意図的に避けているな。これ」
「そんな感じだね」
「京に上ったのは薬のためってことになってるけど、やっぱり病気は仮病かもしれないな。信長を説得する為に行ったんだ。きっと」
「そうかもね。可能性高いよね」
「それで竹中半兵衛が死ぬときだけ、半兵衛が出てきて ”秀吉限りなく かなしび” か。これ以前の竹中某は、竹中半兵衛ではないんだ」
「ほんと、ここでいきなり竹中半兵衛なんだね」
「なんとも意図的な感じがしないか?状況から言えば、”心ちなやみしが” はメンタルだろ。上司がパワハラ秀吉で、実際に命が危ないんだから。そりゃ薬では治らないよな」
「はは。本当にメンタル病みそうだよね」
「よく竹中半兵衛は病弱なイメージで語られるけど、どうなんだ?」
「そんな記述、一次資料ではまだ見つけてない。むしろ、弟の方が持病をもっていた筈なんだよね」
「どうして?」
「斎藤龍興を稲葉山城から追い出しただろ。その時に弟・久作の持病の悪化を言い訳にして油断させたんだ。それに騙される、信じるってことは、弟・久作の持病の方が知られてたってことだよね」
「可能性としては、そうなるな。だから武功を不思議がられていたっていうなら、分からなくもないが」
「それでも、”久作の某” なんて書き方しなくても良いよね」
「だよな。病弱だった竹中久作が武功を挙げた。それが一門衆ならスゲー!よくやった!だよな」
「僕もそう思う」
「もうちょっと見ていいか」
「いいよ」
「おぉっ、これこれ、本能寺のくだり。これが秀吉の言葉だったら、秀吉が信長の出陣を頼んだから、本能寺の変が起きたとも言えるよな」
秀吉使を進て 備中の軍だての事を申されければ。信長自趣給ふべしとて 兵どもを催され。五月中比太郎信忠を具して都に上り。三條本能寺にぞ御座しける。其比明知日向守光秀丹波國の主にて。亀山といふ所にありしが。信長卿に 恨ありけるにや。討べき心を日比さしはさめりしに。能折からとおもひ立て。六月朔日の夜半より 兵どもを進め。大江の坂を越て。二日の曙に本能寺の四方をかこみ責しに。けいごの武士もなく塀の一重をもぬらざりけ
れば。防に及ばず自害し。寺に火をかけともに煙と昇り給ふ。
「そうだね。本能寺の変、秀吉黒幕説で、”秀吉が信長に応援を頼んだから、信長は本能寺に出てきた”という話は聞いたことがあるんだけど、秀吉が出した書状を見た事がなかったんだ。これが根拠なのかな」
「それを示す書状が他にないなら、多分、そうなんだろな」
「それにしても、そういう視点で『豊鏡』を見ると、やっぱり、竹中重門が書いたというよりも、秀吉の思い出話。それもなんだろう、秀吉の自慢話を竹中重門に筆記させたような感じだね」
「そうだな」
「だとすればお前の推理通り、豊臣秀吉に何らかの意図があって竹中重門が指名されて、『豊鏡』を書かされた可能性って高いね。
だったら、そこにどんな意図があると思う?」
「そうだな。これが秀吉の意図だとして、強調していることは、秀吉と竹中半兵衛は仲が良かったが竹中半兵衛は病気で死んでしまったこと。そして、竹中久作は嘘つきということ。それを竹中家の竹中半兵衛の嫡男が『豊鏡』として残すことで史実と認識させること、だな」
「実際、史実として認識されているしね」
「もし、それが秀吉の嘘による歴史の上書きだとすれば、その逆が、秀吉が隠した真実ということだよな」
「逆?」
「つまり秀吉と竹中半兵衛は仲が良かったわけではない。悲しんでいない。竹中半兵衛の死因は病気ではない。
後任の竹中久作は秀吉に都合の悪い話をしていた。例えば、竹中半兵衛の死因に疑問を呈したとか。それを秀吉は、竹中久作を嘘つきにすることで、否定しようとしたってことになる」
「全然話が違ってくるね」
「ところで『豊鏡』が完成したのはいつだ?」
「えっと、江戸時代。ん、合わない?」
「でも、竹中重門が秀吉から聞かされた話を、メモに残していたとしたら」
「ネタは秀吉からもらって、書きおいていたのか」
「そう、ネット検索もできない時代、何十年も経っているのに、全くゼロから書き起こすなんてことは出来なかっただろうからな。しかも竹中家家中や親戚から話を聞いたとは思えない。親戚の武功は某で、嘘つきだって言っているからな」
「秀吉から聞かされた内容なら、たとえ親戚から本当の話を聞いても、怖くて勝手に修正できないだろうしね」
「もしかすると、反響が怖くて、ずっと門外不出にしていたのかもしれないな。年齢はどうだ?」
「竹中重門はえっと、1573年生まれ。太田牛一は1527年生まれで、秀吉が1537年生まれだから、太田牛一の方が年上だね。竹中重門は1世代若い」
「竹中半兵衛が死んだ1579年で竹中重門は6才。竹中久作が死んだ本能寺の変が1582年だから9才。竹中重門には、どっちの記憶もないだろうな。
豊臣秀吉が死ぬのが1598年。その時でも竹中重門は26才。しかも秀吉の死の間際、竹中重門は名刀を貰っている。天下人秀吉からの贈り物だからな。感謝しただろうな」
「『豊鏡』の完成をお願いされたのかもしれないね」
「かもな。竹中重門は、間違っても秀吉を疑うことはなかったんだろうな。だからこそ上手く利用されたとも言える」
「でも、秀吉から聞いたネタを公表できないまま、時間が過ぎて、江戸時代になった。こんな内容だから、出すのに迷いがあったのかもしれないね。
改善しようとして林羅山に習い、死ぬ少し前に完成させた。というか、もう『豊鏡』に手を加えることを諦めて門外に出した」
「そんなところだろうな。でも、太田牛一は秀吉よりも歳が上だから、もしかすると、自分が利用されている事を自覚していたかもしれないよな」
「そうだね。太田牛一は豊臣秀吉よりも歳が上。多分、そういう意図も気付いたかもしれないね」
「だよな。ふふっ」
「?」
「やっぱり、『信長公記』は面白いと思うな」
「ん?何が?」
目次:竹中半兵衛は二度殺される
第1章 生まれる疑問・貝原益軒
第2章 創られる冷酷・織田信長
第3章 隠される残虐・豊臣秀吉
第4章 流される涕・松壽丸
第5章 立たされる窮地・竹中半兵衛
第6章 利用される嫡子・竹中重門
第7章 隠される暗号・太田牛一
第8章 疑われる切支丹・小西行長
第9章 追放される義父・安藤守就
第10章 操作される情報・佐久間信盛
第11章 忖度される歴史・卒業論文
・戦国歴史小説:現代の経営戦略で視る新解釈 織田信長「歸蝶の戦国記」
『竹中半兵衛は二度殺される』の背景となる物語。
古文書などを200回以上引用しながら(特に3章以後)
戦国時代と(覇王ではない)織田信長の真の姿を読み解く。
・科学エッセイ:科学と哲学の間で道草してみた 全編目次
創作大賞2026応募版 : 観測する孤独 、 生命の物語
参考資料・引用文献
『信長公記』 太田牛一・著、中川太古・訳
『甲陽軍鑑』 腰原哲朗・訳
『大日本史料 第十篇』 東京帝國大學文学部 史料編纂所編集
『多聞院日記』 多聞院・著
『豊鏡』(『群書類従 合戦部十一』) 竹中重門・著
『織田軍記』(『総見記』) 遠山信春・著
『太かうさまぐんきのうち』 太田牛一・著
『佐久間軍記』Wikisource
『播州三木別所記』 加古川総合文化センター図書館蔵
『黒田家文書』 福岡市博物館・編
『黒田家譜』 貝原益軒・著
『織田信長文書の研究』 奥野高廣・著
『織田信長文書の世界』 永青文庫/熊本大学永青文庫研究センター・編
『織田信長文書の古文書』 山本博文・堀新・曽根勇二・編
『豊臣秀吉文書集1』
『戦国大名の古文書』 山本博文・堀新・曽根勇二・編
『岐阜県史 史料編 古代中世』
『兵庫県史 史料編 中世』
『新三木市史 第四巻 資料編 古代・中世』
『不破郡史 上』
『「戦国武将書翰集」の世界』 水戸市立博物館 特別公開 配布資料
『小西行長』 鳥津亮二・著