
竹中半兵衛は二度殺される 第8章
あらすじ
稀代の軍師・竹中半兵衛は病死ではなく、殺害されていた!?
全て実在の古文書を引用し、戦国時代の裏側を推理する歴史ミステリー。
竹中半兵衛を卒論のテーマに選んだ大学生とその友人の会話。
『黒田家譜』と古文書を突き合わせた時に生まれた些細な疑問。
史料を探し研究を進めると竹中半兵衛の殺害疑惑が浮上する。
さらには『豊鏡』の不自然さ。『信長公記』に隠された謎。
そこから浮かび上がるひとりの武将。
忖度された通説が覆い隠す、本能寺の変直前までの歴史の謎に迫る。
第8章 疑われる切支丹・小西行長
戦国時代に愛を説く。きっと善悪二元論でしか思考できなかっただろう。
戦国時代の上司指示は、そんなキリシタンにとって、納得できるものばかりとは限らなかっただろう。
◇
「”老女”は与力かもしれない」
「おぉ、どうすれば与力になる?」
「これ見てくれ」

「崩し字の字体なんだけど、こうすれば与力に見えないか?草書で書くと『老』は『考』に似ていて、『考』だと右下が『与』に似ている。『女』の横棒は大抵下に折れ曲がるから、文字の右側が『力』に似ている。だから『老女』を意図的に崩して書くと右側に『与力』を見せることができる」
「こじつけっぽいけど見えなくもない。もしかしたら、そんな感じで他にも隠れた文字で表現しているかもしれないな」
「うん。ただ残念ながら、それは原書が無いと分からないけどね」
「とにかく、それで”織田家からの十年になろうかとする与力” ができたな」
「そうだね」
「それなら、"下京四条小結町" はどうだ?」
「それは小西行長のことだと思う」
「どうして?そこは竹中半兵衛ではないのか?」
「当時の書状では、自分の名前を略すことが多いだろ。例えば、羽柴藤吉郎を羽藤と書く。官職で羽柴筑前守のときは羽筑。竹中半兵衛は、竹半兵だったろ。だから、小西行長だと小行か小行長。小結町は、小行長にかけたんじゃないかな。それに実家は堺の商人だけど小西行長自身はは京で生まれた。だから、下京四条小結町って、イメージがピタリとはまる」
「小結町って実際にないのか?」
「調べてみたけど、ドンピシャの小結町はなかった。現在の京都市には中京区に小結棚町がある。確かに四条通り近く。地名が変ったのかもしれない。太田牛一がそれを参考に作った架空の地名、それか当時、実際にあった地名で誤魔化したのかもしれない」
「小西行長に引っ掛けて作った町の名称か。面白い。で、糸屋は?」
「それが全くわからない」
「なんだよ、つまんねぇやつだなぁ」
「いや、それは正解の時のセリフ」
「ははは、そう?それで、糸屋ねぇ」
「小西弥九郎行長。実家は堺の商人、薬問屋の次男。親兄弟(家)も洗礼を受けてキリスト教に改宗している熱心なキリシタン。関ケ原の合戦では西軍の主力のひとつ。竹中半兵衛の子・竹中重門の家臣が六条河原に連れていって処刑された」
「六条河原での処刑も一致しているから、小西行長っぽいよな。薬問屋の次男。んー。たしか昔の薬って字(藥)、白の横の点々は糸の上の形だよな」
「そうだけど、そうだけどねぇ、なんかしっくりこないというか」
「そうだよなぁ、崩し字だったら、むしろ分からなくなるな。うーん、文の全体で見たら、前の”下京四条小結町”が小西行長、”後家で七十になろうかという老女”が竹中半兵衛だよな。”糸屋の” が動詞ってことはないか?」
「繋ぎの部分で関係を示すってことか。それが殺害を意味する言葉になったら暗号っぽくなるね。何だろう?弑する、殺す、殺害、謀殺、誅殺、討つ、成敗、生害、あと何だろう?」
「"生害" の形が "糸屋" に近いような気がするけどな、うーん。判らん。やっぱり崩し字の状態で見ないと分からないかもな」
「そうかもね」
「もっとも、太田牛一が謎を隠していたとしての話だからな。他に何か見つけたことはあるか?」
「日付が気になってて、何かありそうなんだけど」
「暗号だったら数字って気になるよな」
「うん。竹中半兵衛が死んだ日は『信長公記』では六月二十二日。『黒田家譜』では六月十三日。九日違う。竹中半兵衛の書状は四月九日。だから九日ずらしたとか」
「それは『信長公記』に竹中半兵衛の書状のことが記してあって、初めて言える話だから、暗号にはならないな」
「そうだよね。あと、この事件の日は四月二十四日。本当の事件の日を指しているのか、他の隠喩なのか」
「小西行長が死んだ日は?」
「関ケ原の合戦の後、十月一日」
「それとも違うかぁ」
「違う。ただ、二十四日が事件発生で、六条河原での処刑が二十八日。四日後。豊臣秀吉の死後に処刑されたことの暗示かもって考えたけど・・・」
「九日よりはマシだけど、何か決め手が欲しいよな」
「やっぱりそう思うよね。もしかしたら、オリジナルの原文を見たら、何かヒントがあったのかもしれないんだけどね」
「十月一日なら糸屋の糸を ”一” ”十” で ”イト” としたと言う方がそれっぽい」
「そうだけど、こじつけがひどくなってる」
「だな。でも『信長公記』の記載だけだと、そこらへんが限界か」
”京都四条糸屋の事件”
ーーーー< 類推する対応関係 >ーーーーーーーーーーーーーーーー
下京四条、小結町の
⇔ 京都出身、小行長(小西行長)
七十になろうかという老女
⇔ 竹中半兵衛は十年になろうかという織田家からの与力
(娘の)家は法華宗であるのに浄土宗の僧侶を呼び
⇔ (小西行長の)家は改宗してキリシタンに
下女に美しい小袖を与え、この夜の事は絶対に内密に
⇔ 袖の下(賄賂)を与えて内密に
四月二十四日に刺し殺し、四月二十八日(四日後)に、六条河原で処刑
⇔ 秀吉の死後(四後)に、(小西行長は)六条河原で処刑
「そうだね。一応、念のため、もし当時、これが前代未聞って驚くような事件だったら、他にも記載されている文献があるかと思って、『兼見卿記』で確認しようとしたけど、四月十九日の次は三十日だった」
「なんだよ、綺麗に抜けているのか」
「うん。あと『多聞院日記』も見たけど該当する話は無かった。戦ならともかく、一般人の処刑の様子なんて京都の話を奈良の僧侶が書かないよね」
「そうだろうな」
「結局、本当に娘の処刑があったのか、確認できなかった」
「だったら、太田牛一の残したメッセージ、創作の可能性もあるわけだ」
「うん。そうなる」
「それでも、一致点は多いよな」
「ほんと、びっくりする」
「他には、何かあった?」
「そうだね。小西行長は、三木城攻めをする羽柴秀吉の元に、宇喜多直家からの使者として送られて、そのまま父と共に羽柴秀吉の配下になってる。
丁度、竹中半兵衛と入れ替わるように羽柴秀吉の配下となったから、タイミング的にも疑いたくなるんだよね」
「まぁ状況証拠だな。証拠としては弱いけど」
「とにかく小西行長は、豊臣秀吉に忠実なキリシタン大名で有名。豊臣秀吉はキリシタン大名に対して厳しく当たってるのに、不思議なんだよね」
「小西行長が羽柴秀吉の弱みを握ったか、羽柴秀吉が小西行長を都合の良い駒として重宝したのか、その両方か」
「そんな感じ。それでいろいろ調べてて、ちょっと気付いた事がいくつかあるんだけど」
「何?」
「一つ目は、もしかしたら、竹中半兵衛殺害の噂くらいは当時もあったかもしれないってこと」
「どうしてそう思うんだ?」
「竹中半兵衛は播磨陣中で病死して、そのまま埋葬されているだろ」
「それがどうして、殺害の噂になるんだよ」
「当時、遺体は死の確認のために重要なアイテムだった。例えば、三好長逸は足利義輝の遺骨を保管してるし、斎藤龍興は斎藤義龍の葬儀を三年後にしている。普通、腐ってしまうと思うけど。
本能寺の変では、織田信長の遺体がなくて明智光秀は討ち取ったことを宣言できなかった。信長の遺言で隠したとも言われている。それくらいに遺体って重要アイテムなんだよ。
そんな時代に竹中半兵衛の遺体をそのまま敵地で埋めるのは何だか不自然だと思うんだよ」
三好長逸書状 (切紙) (端裏切封)
「(封)」
就 公方様御骨之儀、様躰承候、則申届候之処、如有来と被申候、就者只今御使へ委自相国寺被申候由候、送状事者、只今奉行衆他行候間、不調候、以後御取可然候、恐々謹言
七月五日 長逸(花押)
多田院知事
「どうして?だから埋葬したんだろ?」
「だからさ。獄門に首を晒す時代だよ。首に魂が宿っていると思われている時代だよ。敵地に埋葬したら、後日掘り返されて、負けた恨みを晴らそうとするかもしれないだろ。
竹中半兵衛の遺族だって普通に考えれば、遺骨くらいは戻ってきて欲しいと思うんじゃないか?」
「病死だったら?感染を危惧したとか?」
「当時はそこまで考えてないよ。もし感染を気にするなら、最初から隔離するだろ。感染すると分かってて人が多く集まる陣地、それも大将・秀吉の陣中に行くなんて、それこそ非常識なんじゃないか?」
「まあそうか」
「羽柴秀吉の側近で織田家の与力、そんな地位にいる竹中半兵衛のご遺体。だったら遺体は家族の元に送るのが自然だと思うんだよ。織田軍は城を包囲している側で物流に支障はない。送ろうと思えば送れる。それなのにその場で埋葬された。
遺体を家族に見せられない理由があったんじゃないか?
例えば、刺し傷があるとか。だから、本人の希望ということを強調した。遺品もその場で分けられた、ということにした」
「ふむ。なるほどな」
「当時だって、疑う人間がいてもおかしくないんじゃないか」
「おかしくはない。仮にそんな奴がいても何もできないだろうけどな」
「まぁ、そうなんだけど。
それでこんな書状を見つけたんだ。実際、秀吉の気に障る噂をするだけで磔にされたという書状」
書中被見せしめ候。阿州相残る人質共堅く相卜われ、志智に至り相越さるるの由尤もに候。行の様子、委細小西弥九郎に書付けを以て申し渡し候。能々相談せらるべく候。将亦雑説申し候由、沙汰の限りに候。牢人共申し出で候者を搦め取り、はた物にかけさせ候。随って讃州安富人質を召し連れ、親父相越され候。彼の表行の儀、何れも具さに弥九郎申すべく候。恐々謹言。
筑前守
九月廿四日 秀吉(花押)
黒田官兵衛尉殿
「先に出せよ。えっと、日付は天正九年九月廿四日か。黒田官兵衛がリハビリを終えて阿波・讃岐に向かった時だな。そこへ小西行長を使いに送るっていう秀吉の書状か」
「そう。その中に”雑説”、つまり、根も葉もない噂を言った牢人を捕まえて磔の刑に処したと書いてあるんだよ。これが黒田官兵衛を脅しているようにみえるんだよね」
「秀吉が磔の刑にしないと気が済まないような ”雑説” で、且つ、黒田官兵衛に知らせる意味がある ”雑説” か。その上、使いが小西行長」
「だろ。関係者3人と噂、揃ってるだろ」
「だな。フルハウスだ。秀吉に都合の悪い噂はあったのは間違いない」
「この ”雑説” が竹中半兵衛殺害の噂とは確定できないけど、黒田官兵衛が関心を寄せる内容であることは間違いない。だからその可能性は高い」
「”京都四条糸屋の事件”、その元ネタがこの ”雑説”かもな」
「それだ!」
「で、他には何?」
「小西行長と黒田官兵衛との関係。黒田官兵衛が洗礼を受けて、キリシタンになってる」
「そうだったな。シメオンだっけ」
「そう。良く知ってたね」
「バイトの後、ちょっと調べた」
「高山右近が勧誘したらしいけど、キリシタンって人数が少ないから関係があったはずだよね」
「そうか、朝鮮出兵でも一緒になっていたことがあるみたいだけど、キリシタンとしても繋がっているな」
「もし、小西行長が竹中半兵衛を殺したという噂を黒田官兵衛が聞いたと仮定しての話だけど、もしかしたら、黒田官兵衛は恩人・竹中半兵衛が殺された疑惑を私的に調査していて、潜入調査のためにキリシタンになったのかもしれない」
「うわぁ、妄想もここまでくると笑えるな」
「お笑いついでに言えば、黒田官兵衛は豊臣秀吉と微妙な関係。豊臣秀吉は小西行長を重用しているのに、官兵衛にはキリシタンを辞めろと言うダブルスタンダード。二人が接触するのを邪魔したかったのかもしれない。
豊臣秀吉は黒田官兵衛を警戒してたって話もある。黒田官兵衛が頭が良いので、豊臣秀吉が恐れたという話なんだけど、これって、黒田官兵衛を恐れたのではなくて、何かがバレるのを恐れたんじゃないかって」
「関白になった時点で、秀吉は何も恐れることはないだろ」
「そうなんだけど。でも、やっぱり黒田官兵衛は小西行長と単純に懇意にしてた訳ではないと思うんだよ」
「うん、それはどうして?」
「竹中半兵衛、黒田官兵衛は秀吉の両兵衛、二兵衛と呼ばれて、秀吉の忠臣のように言われてたはずなのに黒田官兵衛・長政は関ケ原で迷わず東軍。
その上、黒田官兵衛は関ケ原の時、九州にいて、加藤清正に小西行長の居城・宇土城を落とさせてる。キリシタン大名・大友義統も自ら落として、九州を制圧してる。
加藤清正は関ケ原の合戦の直後、こんな書状を残してる」
「へぇ、見せて」
加藤清正書状(切紙) 〔影寫本〕
「 加主計
淺左京様 人々御中 清正」
巳上
急度申入候、今度者、彼悪逆人共、徒黨を企候處、早速御上候て、於濃州面御手柄之由承及候、然處、内府様御出勢ニ付而、於關原面被成御合戦、悉所被討果、打續各御手柄共御羨敷候、此ホ之儀、爲可申入、同名右馬允指上候、其元之様子、一ゝ被仰越候て可給候、此面事、只今宇土之城取詰、本城二丸迄ニ仕成候間、落去程有間敷候、然者、其面より被討洩立花左近、妻子をぬすミ取罷下、則柳川へ令入城候、彼者罷下事、少ハ拙者仕合ニ候、宇土面隙明次第相働、則時討果御注進可申候、不及申候へ共、九州中之表裏もの共、一人も不被成御免候様ニ、連ゝ可被仰上候、上方いつれの國ゝにても悪黨同心之者共、身上無恙不被成御赦免候様ニ、是又可被仰上事、尤ニ存候、定而上かた御手ニ立もの在之間敷候、國ゝ之様子、具ニ可被仰越候、此面之儀、何も如水申談、きっと可申付候間、可御心安候、恐ゝ謹言、
十月二日 清正(花押s)
淺左京様 人ゝ御中
「宇土城は小西行長の居城、領地なんだ。黒田官兵衛はチャンス到来と思ったかもしれない」
「九州制圧は、黒田官兵衛が天下を狙っていたとか言われているよな」
「うん。同じ九州制圧でも、豊臣恩顧で西軍について、同じキリシタン大名で結託して九州制圧しても良いよね」
「宗教的につながるなら、そうかもしれないな」
「でも、秀吉が死ぬと直ぐに家康について東軍。キリシタン大名をバッタバッタで九州制圧。そんな黒田官兵衛が、そもそも安易にキリシタンになるというのも不思議なんだよね」
「そこは気になるな」
「それに黒田家はキリスト教禁止令が出た後、江戸時代も続いているだろ。熱心な高山右近は国外に出て行ったのに。その温度差もね。
だから、小西行長に近づいて情報を得るためにキリシタンになったと言う方がわかる気がするんだよ」
「ふーん。もし、黒田官兵衛が小西行長を疑っていたというなら、秀吉が死んで、ようやく黒田官兵衛は竹中半兵衛の恩に報いたってことかな」
「そうなるね。それにさらに不思議なのが、関ケ原の合戦の時、小西行長は捕まったんだけど、逃げるチャンスはあったのに、竹中家の家臣に自首しているんだよ」
「なんか史料があるのか?」
「徳川家康の侍医、板坂卜斎の『板坂ト齋覺書』とか、『關原始末記』の中に出てくる」
「同時代の記録なら信頼性が高いな」
「うん。小西行長が逃げ込んだ地元の庄屋・林蔵主は匿ってくれて、逃げることを勧めた。豊臣恩顧なら、大阪に戻ってリベンジって思うだろ?普通」
「だな」
「同じ様に逃げていた石田三成や安国寺恵瓊は捕まるまで逃げ続けたしね。
でも何故か小西行長は、その庄屋・林蔵主を通して、竹中家に自首した。関ケ原は竹中家の地元だから、たまたまかもしれないけれど、出頭したのが残党討伐の徳川軍ではなく地元領主の竹中家。
もしこの時、小西行長に竹中半兵衛殺害に対する贖罪の気持ちがあったとしたらどうだろう?」
伊達文書 徳川家康書状(折紙) 〔影鳥本〕
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「慶長五年九月七日、 従權現様、少將政宗公と
被下御書 」
急度申入候、濃州大柿城へ、備前中納言・嶋津兵庫
石田治部・小西攝津守逃入候所を、先手之衆取巻、
通路取切、顔戸川を切懸之由申來候間、則令出馬候、
落居程有間敷候条、可御心安候、其表之儀、三河守
有相談、被入御精尤候、委細者、宗薫可申候、恐ゝ謹言、
九月七日 家康(花押 四)
大崎少將殿
鹿野文書 德川家康朱印書状(折紙)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
小西攝津守召捕給候、被入精段祀著之至候、猶期後音候、恐く議言、
九月十九日 家康 朱印
竹中丹後守殿
(前略)
我等は小西攝津守也、内府へつれて行ほうびをとれと御申候、沙汰のかきり、もつたいなき御事少なりともはや〱落させられ候へと申ければ我等は自害するともやすけれとも根本きりしたんなり、吉利支丹の法に自害はせぬとさま〱被仰候、在所の百姓も聞申候まゝ、さらば御供可申とて我が宿へ御供申家康樣御本陣へ小西殿を御供申に、自然道にて人にうははれ候てはいかゝあるべきと存竹中丹後守殿家老をよび右の段々小西殿御前にてかたり、丹後守家老と申談小西殿を地下の馬にのせ申、丹後守家老とそれかしと御供申草津へ参上、
(以下略)
「戦国時代だろ?そんな殊勝な考え方するかな」
「調べてみるとさ、小西行長は基本的に真面目なんだよね。単純に豊臣秀吉を喜ばせる事が第一優先というだけで」
「ふーん」
「戦国時代の暗殺謀略といえば名前が挙がる宇喜多直家の部下だっただろ。そうした裏の仕事にも慣れていたかもしれない。実際、朝鮮出兵の慶長の役の時、加藤清正の朝鮮へ渡るルートを朝鮮側に流して、妨害しようとしたという研究もある」
「謀略には長けていたと」
「そう。行動として変ではない。ただ動機としては変。
加藤清正と小西行長は反目してた。犬猿の仲というか互いに嫌っていた。だから、加藤清正を陥れる動機は小西行長にある。
だけど、竹中半兵衛に対してはそういう動機が全く無い。竹中半兵衛が宇喜多直家を調略しようとしてた時に同席してて接点はあったかもしれない。だけど調略しようとする相手に悪印象をもたせるようなことはしないだろ」
「それはそうだな」
「それでもし、秀吉の指示で、不本意ながら竹中半兵衛を殺したとすれば、小西行長が気にしてたとしても変ではないだろ?」
「ありえない話でもないな」
「小西行長は熱心なキリシタン、愛を説くキリシタンだろ。教会の懺悔室のようなものでさ、懺悔する代わりに自首した。そう思ったんだ」
「面白い仮説だな。何か決定的証拠が欲しいよなぁ」
「でも、何が出たら決定的証拠になるんだろうね」
「わからん」
目次:竹中半兵衛は二度殺される
第1章 生まれる疑問・貝原益軒
第2章 創られる冷酷・織田信長
第3章 隠される残虐・豊臣秀吉
第4章 流される涕・松壽丸
第5章 立たされる窮地・竹中半兵衛
第6章 利用される嫡子・竹中重門
第7章 隠される暗号・太田牛一
第8章 疑われる切支丹・小西行長
第9章 追放される義父・安藤守就
第10章 操作される情報・佐久間信盛
第11章 忖度される歴史・卒業論文
・戦国歴史小説:現代の経営戦略で視る新解釈 織田信長「歸蝶の戦国記」
『竹中半兵衛は二度殺される』の背景となる物語。
古文書などを200回以上引用しながら(特に3章以後)
戦国時代と(覇王ではない)織田信長の真の姿を読み解く。
・科学エッセイ:科学と哲学の間で道草してみた 全編目次
創作大賞2026応募版 : 観測する孤独 、 生命の物語
参考資料・引用文献
『信長公記』 太田牛一・著、中川太古・訳
『甲陽軍鑑』 腰原哲朗・訳
『大日本史料 第十篇』 東京帝國大學文学部 史料編纂所編集
『多聞院日記』 多聞院・著
『豊鏡』(『群書類従 合戦部十一』) 竹中重門・著
『織田軍記』(『総見記』) 遠山信春・著
『太かうさまぐんきのうち』 太田牛一・著
『佐久間軍記』Wikisource
『播州三木別所記』 加古川総合文化センター図書館蔵
『黒田家文書』 福岡市博物館・編
『黒田家譜』 貝原益軒・著
『織田信長文書の研究』 奥野高廣・著
『織田信長文書の世界』 永青文庫/熊本大学永青文庫研究センター・編
『織田信長文書の古文書』 山本博文・堀新・曽根勇二・編
『豊臣秀吉文書集1』
『戦国大名の古文書』 山本博文・堀新・曽根勇二・編
『岐阜県史 史料編 古代中世』
『兵庫県史 史料編 中世』
『新三木市史 第四巻 資料編 古代・中世』
『不破郡史 上』
『「戦国武将書翰集」の世界』 水戸市立博物館 特別公開 配布資料
『小西行長』 鳥津亮二・著