
逢魔伝(おうまでん) 3-1
第一章
第二章
第三章
第四章
あとがき
夢を見た。
のずる、のずる、と地をはいながら、何か黒いものがこちらに近づいて来るようだった。
ひた、ひた、ひた、と額に水がしたたる。
しかし、僕は目を開けることができない。それなのに、そいつは化け物だとか、魔だとか、幽霊だとかではなくて、なにか得体の知れない「黒いもの」なのだ。その黒いものは、ぬめぬめした手だか、指だかで、僕の頬をなでる。
背筋に氷が落ちた。耳元で囁いた声は、低く掠れていたが、しっかりとしたものだった。
そこで目が覚めた。全身が、冷汗でぐっしょりと湿っていた。起き上がって見ると、敷き布団にまで汗だか、水だかよくわからないものが染み込んでいた。
どうやら、夢ではなかったようだ。
第三章
一
着替えを済ませて、縁側に腰かける。
まだ、日の昇っていない薄暗い中庭を眺めながら、ため息をついた。煙草盆を引き寄せる。マルボロを一本くわえて、火をつけた。
紫煙をくゆらせながら、春の陽気な気配に目を細める。そのとき、庭に植わった楓の枝に、二羽の尾長が止まった。キーキー鳴きながら、微かに聞こえてきた話し声に、自然耳を傾けてしまった。
「ねえ、知っていて?」
「知っていてよ、アナタ」
「本当かしら?」
「本当よ。だって、わたしも聞いたわ」
「恐いわね」
「恐いわよ」
何がそんなに恐いんだ?そう言って、顔を上げると、尾長はおどろいて飛び上がった。しばらく、空中を旋回していたかと思うと、またすぐに楓の枝に戻ってきた。
「人よ」
「人だわ」
「赤也よ」
「赤也ね。立ち聞きしてるわ」
「失礼な子ね。でも、可愛い子よ」
「猫よりマシね。わたしたちを食べようとするのよ」
「そうよ。尾を噛まれたわ」
「噛まれたのよ」
あいつめ、そんなことをしていたのか。
煙を吐き出すと、吸いがらを砂利の上に落として、踏み消した。うちの猫が、すみませんでした。アレはちと頭が足りないので、と尾長に軽い謝罪の言葉を述べて、話しを先にうながした。
しかし、左の尾長は黄色い小さなくちばしで、楓の葉をいじりながら、キーキー鳴きだした。
その高い鳴き声は、いやに耳に障る。右の尾長は、灰色の羽根を広げて、そこにくちばしをつっこみ、一本一本をきれいにし始めた。
なるほど。尾長を喰おうとする気持ちもわからなくはない。こちらの質問には答えず、高いところでキーキーと鳴きながら、人を小馬鹿にしているのだから。
「きみたちは、向こうの裏山に住んでいるんだろう。うちの龍が世話になっているそうだね」
「きれいな龍よ」
「清らかな気よ」
「やさしい子よ」
「そう。今度、おいしいものでも届けさせるよ」
そう言って微笑むと、尾長は大きく羽根を広げた。「しょうがないわね。赤也だから、教えてあげる」と、言って舞い降りてきた。二羽の尾長は、肩に止まると、歌うように話し始めた。
「祠があるでしょう」
「古い祠よ」
「壊されたのよ」
「ずいぶん前ね」
「毎晩、泣くのよ」
「あら、叫び声よ」
「水をおくれ。おくれ。おくれ」
「おくれ。おくれ。水をおくれ」
ふん、と鼻を鳴らして、しばし黙りこんだ。尾長は長い灰色の尾を振りながら、キーキーと鳴く。
「井戸があるのよ」
「古い井戸よね」
「きれいな水よ」
「いまは、濁ってるわ」
「そう、死なないのよ」
「あら、若がえるのよ」
「いいえ、生き返るの」
なんだって?ハッとして、顔を上げると同時に、尾長は空高く飛び上がった。白けてきた空のうえに、灰色の線を引きながら「来たわ、嫌な猫よ」「来たわね、嫌な猫よ」と、ぷんぷん言いながら、山の峰の方へと消えて行った。
すると、先ほどまで尾長の止まっていたところを、かすめるようにして、猫の爪が空を切った。
八枯れは黒い尻尾を振りながら、砂利の上に着地すると、忌々しそうに空を見上げていた。「もう少しで喰えたのに」と、つぶやいた八枯れの尻を、軽く蹴りあげた。
「何をやってるんだ、お前は」
「お前こそ、また変なものに好かれおって」
「情報を聞き出そうとしていた」
「どうだかな」八枯れは黄色い双眸を細めて、赤い舌をちろと出した。「面倒ごとに巻き込まれるんじゃないぞ」
「あの鳥たちのほうが長生きだ」
「ただのババアだろう」
「お前だってジジイだよ」
肩をすくめて、縁側の方へ向かう。八枯れはふん、と鼻を鳴らして「良い年をして、寝小便をたらす小僧よりゃマシじゃ」と、つぶやいた。
僕は、ズボンのポケットに手をつっこんで振り返ると、微笑を浮かべた。
「僕を小便漬けにしたのはどこの誰だよ。マーキングさせたのはお前なんだから、少しは協力しろ」
「知ったことか。来たら喰えば良いだけだろう」
「今までグースカ寝ていた奴が、よく言うな」
短くため息を吐きながら、草履を脱いで廊下へと上がって行った。
ぐうたらな黒猫も僕に続いて、縁側に上がったが、またすぐに丸くなったかと思ったら、ぐうぐう寝はじめた。まったくしょうがない奴だな、と苦笑をもらして台所の戸を引いた。