
逢魔伝(おうまでん) 3-7
七
ぐう、と低くうめいたが、頭を押さえつける力はますます強くなった。倒れた瞬間、強く顎を打ちつけたため、手足がしびれて力が入らなかった。こりゃ、さすがにまずい、と八枯れの名を呼んだが、あいつめ熟睡しているのか、知らぬふりをしているのか、一向こちらの騒ぎに気がつかない。
押さえつけられた畳は、水でひたひたに湿っていた。
ぐいぐい、と口と鼻をそこに押しつけられるため、息ができない。目の前が白んでくると同時に、朝かとも思ったが、違う。このままでは、意識が飛ぶ。意識を飛ばしたら、死んだも同じだ。どうにか体をよじって、頭を振った。そのときだった。
赤也、と呼ぶ声がしたと思ったら、すう、と背中に乗っていたものがどいた。それと共に、突風に近い風が縁側に向かって吹きぬけて行った。見ると、障子は破れて、鴨居も折れていた。縁側の先で、透明な尾を振って、黒いものをなぎ払う錦の姿があった。何度も尾を振り上げては、黒いものを砂利の上に叩きつけていた。
そのたびに、黒いものは悲鳴を上げて、砂利の上を這いまわり、衝撃から逃れようとした。しかしそれを許さん、とばかりに錦は執拗に追い回す。彼は激昂していた。普段、冷静に落ち着いて物事を考えて、行動している錦とは思えないほど、鋭い眼をしていた。尾の先で黒いものをとらえると、縁石の上に叩きつけた。
「よくも、私の主に手を出したな。愚か者め」
そうして、ついには尾の先で黒いものを貫こうとした。僕はあわてて、おい、よせ錦。殺しちゃ駄目だ。と、止めに入った。素足で砂利の上に降りると、振り上げられた尾をつかむ。急に、引っ張られてバランスを崩したのか、錦は一度よろめいてから、池の中に落ちた。
すると、黒いものはまだ諦めていなかったのか、むっくりと起き上がると飛びかかって来た。おっと、頭を下げてそれを避けたが、首元を爪か牙がかすめたのか、うっすらと血が流れた。素早い動作で、居間の方へと駆け去って行く。なるほど、爪も牙もあるってことは、化け物ではないようだ。はあ、とため息をついて手のひらで血を拭うと、それを見ていた錦が「今度こそ、殺してやる」と、言って空高く飛びあがった。おいおい、勘弁してくれよ、とぼやきながら縁側に向かって駆けて行くと、思いの他静かな室内に首を傾げた。
「もう大丈夫ですよって、外の龍さんにも言ってくれませんか」
ひょっこり、と襖の蔭から顔を出してそう言ったのは、カラスだった。のんびりとした口調に手元を見ると、注射針が握られていた。楊貴妃の活けられている花瓶のそばで、先ほどまでちょこまかと駆けまわっていた黒いものがうずくまっていた。よく見ると、それは黒く汚れたネズミだった。
「まさか、こいつが?」
「ええ」
「殺したのか?」
「まさか。眠っているだけです。そんなことより、赤也さん」
ぐらぐらと、屋敷が揺れはじめた。僕とカラスは、畳の上でよろめき、テーブルにしがみついた。
どうやら、怒りにのまれた錦が、土地を揺らしているようだ。あわてて、縁側から空を見上げると、暗い闇の中で錦龍が川を泳ぐように、夜空を泳いでいた。
裏山の川の水を呼んでいるのか、蛇のような細長く白い流れが闇を割って、こちらに向かって来ていた。揺れる土の中からも、水滴が生まれ、吸いよせられるようにして空にのぼってゆく。
地下水まで吸い寄せているからか、土地が微かに揺れて、液状化しはじめている。このままでは、この屋敷も崩れかねない。錦は一つの大きな水の塊をつくりだしていた。どうやら、それを、こちらにぶつけてくるつもりらしい。後先を考えていないのか?冗談じゃないぞ。
そのとき、ようやく目を覚ました八枯れが、「何じゃ、地震か」とのんきなことを言って起き上がった。僕は、八枯れの尻尾をつかんで引き寄せると、中庭に向かって放り投げた。何じゃ、乱暴するな。と、目を向いて怒鳴ったが、空を見上げて絶句した。
「あいつは何をしているんだ」
「遊んでいるように見えるのか?どうにかしろよ。あそこまで暴走した錦は、お前にしか止められないぞ」
「ふざけるな。貴様が主なら命令すれば良いだろう」
「無理だ。聞こえやしない」
そもそもお前がグースカ寝てなければ、ここまで事態は大きくならなかったんだから、責任を取れ。と、言って踵を返すと、座敷へと引き返した。
良いんですか、放っておいて。と、心配そうにつぶやいたカラスに向かって、「いいから、棚にしまってある救急箱を取ってくれないか」と、言ってしゃがみこんだ。首から滲み出る血を、手のひらで抑えながらため息を吐きだした。
しばらくすると、揺れは治まった。
八枯れが地下の熱を起こして、いくらか泥のなかの水分を飛ばしたようだ。しかし、頭上に集まっていた水の塊は、消し飛ばすまで至らなかったのか、大きな破裂音と共に弾けた。
弾けた水の塊は、大雨となって頭上に降りそそいできた。
錦と八枯れの言い争う声とともに、この辺り一帯をずぶぬれにした。ザアザア、とバケツをひっくりかえしたような豪雨のなか、二匹の式神が中庭の砂利の上に落下してきた。泥土にまみれながらも、鬼と龍はとっくみあいを止めることなく、騒ぎ回っていた。
それを遠目で眺めながら、首に消毒液をぬりつけた。「あの二匹が喧嘩するだけで、街が一つ消えそうですね」と、言ったカラスの不吉なつぶやきに、大きなため息をついた。