
逢魔伝(おうまでん) 3-8
八
契約を結び、自身を守らせると言うのはなんだか薄情で、つめたいもののように感じていたが、実際、忠誠心から従われるのも、これでなかなか厄介なものだなあ、と頭をかいた。
首に包帯を巻きつけながら、カラスは苦笑を浮かべて「ともかく、事が済んで良かったですね」と、苦し紛れにつぶやいた。ふん、と呆れて鼻を鳴らすと、それにいち早く反応を示したのは、事の発端でもある錦だった。
「申し訳ありません」
中庭で泥だらけになりながら、頭を地につけ平服した。謝罪する声はか細く、深々と下げられた頭は、ふるふると震えていた。その様を見ていた八枯れは、毛づくろいをしながら、わはは、と笑いだした。途端、錦は頭を上げて八枯れの頭を尾の先で、殴り飛ばした。
勢いのついていた錦の尾は、障子につっこみ、新たな穴をつくった。
同時に吹っ飛ばされた八枯れも、縁側を越えて、座敷に転がりこむや否や「貴様、喰ってやる」と、叫び起き上がった。
飛びかかろうとした八枯れの尻尾をつかんで、頭を押さえつける。畳の上に縫いつけ「お前、ちょっと黙れ」と、低くつぶやいた。
それでもなお、じたばたと暴れるので、懐の中から一枚の札を取り出して、八枯れの背中に貼りつけた。「縛」と記された札は、その名の通り貼りつけた生物を、動けなくさせる効果がある。こうした簡単な術なら使える。
もちろん、これもじいさんの残した資料を参考にして、自分なりに工夫して使用している。この札は、対八枯れ、カラス専用と言っても過言ではない。
動けなくなった八枯れは牙をむいたまま、「くそ、小癪な。札をはがせ、阿呆。ばか赤也、冷酷鬼、傲慢冷血非道」と、いくらも悪態をついた。体が動けないぶん、口だけでも必死に抵抗を示しているようだ。馬鹿馬鹿しい、とそれを無視して座布団の上に座り直した。
「それで?」と、カラスの方を向いて頭をかくと、小さく息をついた。「そのネズミはいったい何なんだ?」
カラスの膝の上で、まだ全身が麻痺しているのか、黄色いネズミが横たわっている。しかし、とっくに眼を覚ましていたのか、何度も鼻をひくひくと動かしていた。ネズミは、黒い双眸をこちらに向けて、そのガラス玉のような瞳の奥で微かに笑ったような気がした。
僕はぎょっとして、くわえようと取り出していた煙草を、畳の上に落とした。すると、麻酔で動けないはずのネズミが、ぐぐぐ、と足を動かして、カラスの膝の上から飛び降りた。これ以上引っ掻かれてたまるか、とネズミから距離を取って、後ろに下がった。
同時に、八枯れの尻尾を踏んづけた。ぎゃあ、と短い悲鳴のあとで、赤也ゆるさん、貴様かならず殺してやるからな、と手足を動かして暴れていた。
ネズミは、黄色い毛を逆立てて、泥土に汚れた前足を舐めた。ひくひくと、鼻を動かしながら、僕をじっと見据えて来た。
「我も、恩恵を受けし者。小僧、許そう。近こう寄れ」
その小さな姿からは想像もつかないような低く、しゃがれた声が響いた。
一度、おや、と眉をしかめたが、すぐにその場でしゃがみこんだ。斜め前では、ぎゃーぎゃーと騒ぐ八枯れがいるが、無視した。
なるほど、言葉が通じるなら話しは早いや、と肩をすくめて、まっすぐネズミの双眸を見つめた。
「なぜ、僕を襲ったんですか」
「貴様が本物か、確かめたかった」
「僕のことを知っているんですか」
「この星が生まれるはるか前より、我らは生きている」
「恩恵とは?」
「世界」
「あなたは何者なんですか?」
「妃と同じ」
「でも、あなたは梅じゃない」
「依り代に意味はない」
「本体がどこかにあるってことでしょうか」
「否」
「ちがう?では、本体も借り宿も同じと言うことですか」
「応
ふうん、と一度、言葉を切ってうなずくと、未だ騒がしい八枯れを指さして、微笑を浮かべた。
「まさか、鬼とか言わないですよね」
「我は地上のものではない」
妙だな。腕を組んで、しばし黙りこんだ。地上のものではないが、世界の恩恵を受けていて、楊貴妃と同じで、本体を持たないものだなんて、黄泉の生物以外に見たことがない。
そのとき、ふと「楊貴妃」の言葉が思い浮かんだ。そうして、依り代の中で微かに笑んでいるそれを眺めて、まさか、と言葉を無くす。ありえない。しばらく逡巡したあと、おそるおそる自分の到達した結論を、口にした。
「もしかして、お星さま、とか?」
「そうとも呼ばれている」
「じゃあ、その枝は」
口を半開きにしたまま、楊貴妃の枝を指さした。ネズミは、視界の端で小さくうなずくと「応。それも我と同じ、恩恵を受けし者。何億年の月日を経て、いま一度、東の空を渡り、百年の都、輝きの海へ向かう」
寸分違わぬ、楊貴妃の望みと同じ言葉を、このネズミは朗々と口にした。そうしてしゃがれた声をそっとひそめて、後足で立ち上がると、まっすぐに僕の顔を見上げて、信じられないことを言った。
「我らは、貴様が生まれてくるのをずっと待っていた。空に橋をかけし者。鬼の子供。彼岸に渡りし者」
「僕を待っていた?」
「確かに頼んだぞ」
ちょっと待ってください。あわてて近づくと同時に、ネズミは意識を失いその場に倒れた。どういう訳か、もうぴくりとも動かなかった。不審に思った邪植が、ネズミの体にそっと触れる。しばらく、腹のあたりをいじっていたかと思うと、赤也さん、と小さな声で、僕を呼んだ。
「これはもう、死んでいます」
瞬間、背中にはしった悪寒はどこから来たものなのか。久しく感じることのなかった、何か得体の知れない大きなものへの恐怖を抱いた。