
完結 【連続短編小説】医療事務・佐倉さんはほっておけない(#11『1月の決意、ほっとけない人へ』)
あらすじ
派遣職員として病院を渡り歩くこと3年。
主人公は佐倉麻衣、29歳。
転職活動の末にようやく手にした ” 病院の正規職員 ” という切符を胸に、2月の朝、地域に根ざした小さな急性期病院の門をくぐった。
医事課では、毎日色んな事が目まぐるしく起こる。
怒鳴り込む患者、現場との板挟み、人財育成に診療報酬改定の波。
窓口の向こうには、いつも誰かの人生がある。
ほっておけばいいのに、ほっておけない。
そんな佐倉さんの入職からの日常を描いた
”普段は垣間見ることがない病院を下支えする”
医療事務の成長を描いた奮闘記。
#1『2月の入職…桜までに1人前』
#2『4月の新顔、ほっとけない理由』
#3『5月の日直、はじめての本音』
#4『6月の雨、ようやく見つけた答え』
#5『7月の窓口、ここが誰かの帰る場所』
#6『8月の夏、玄関で座り込んだ日のこと』
#7『9月の空、黙って隣にいること』
#8『10月の確認、引けない理由(わけ)』
#9『11月の実習、伝えるということ』
#10『12月の面談、見ていてくれた人がいた』
新年を迎え 新たな一歩を踏み出す…第11話…
一月の朝は、やけに空気が澄んでいた。
ロータリーに立つと、白い息が静かに広がった。
あの二月の朝と同じ場所だった。
あのとき麻衣は、
コートのポケットに採用通知書を忍ばせていた。
お守り代わりに。
でも今日、ポケットの中には何もない。
お守りは、もういらない。
そう気づいたのは、今朝着替えながらだった。
採用通知書はとっくに引き出しの
奥にしまってある。
でも今日まで、どこかまだ必要な気がしていた。
それが今朝、ふと思った。もういらない、と。
ロータリーを見回した。
駐車場に並ぶ車の白い屋根。
早足で正面玄関へと向かう人影。
冬の朝の、いつもの景色だった。
あの二月の朝も、こんな景色だった。
なのに今日は、何かが違う。
あのときは、怖かった。
逃げ場がないと思っていた。
でも今日は——。
" 怖くない "
それだけだった。
言葉にするとそれだけのことだった。
でも、その「怖くない」が、どれほどの一年を経て
出てきた言葉か。
麻衣には、わかっていた。
今日、中島課長から話がある。
十二月の面談で「心の準備だけしておいてほしい」と言われていた。
何が来るのかはまだわからない。
でも、怖くはなかった。
麻衣はもう一度だけ深呼吸して、
ロータリーを横切り、病院の玄関へと歩き出した。
自動ドアが開く音が、やけに大きく聞こえた。
あの二月の朝と同じ音だった。
でも今日の麻衣には、その音が出発の合図に聞こえた。
午前の外来が一段落したころ、
中島課長が医事課に顔を出した。
「佐倉さん、今いいか」
「はい」
麻衣は立ち上がった。
田所が麻衣をちらりと見た。
何も言わなかった。
課長室に入ると、
中島課長が「どうぞ」と言って椅子を示した。
麻衣は椅子に座った。
十二月の面談以来、約一ヶ月ぶりだった。
「心の準備、できてる?」
中島課長が穏やかに笑いながら言った。
「……できているつもりです」
「そうか」
中島課長が書類を手に取った。
「来月から、入院係に異動してほしい」
麻衣は息を飲んだ。
入院係。
外来窓口ではなく、入院患者の対応を担当する部署。
書類の種類も、患者との関わり方も、
外来とは全然違う。未知の場所だった。
「驚いた?」
「……少し」
正直に答えた。
中島課長が「そうだね」と言って、書類を置いた。
「田所さんから、推薦があった」
麻衣は顔を上げた。
「田所さんから、ですか」
「うん。入院係には佐倉さんのような人が必要だと。患者さんの不安に寄り添える人が、あの部署には向いていると」
" 田所さんから "
その言葉が、じわりと胸に広がった。
田所凛が、推薦した。
言葉にしない人が、動いていた。
自分では言わなかった。
でも、中島課長に伝えていた。
「佐倉さんが入職してから一年、ずっと見てきた。田所さんの目に狂いはない。私もそう思っている」
麻衣はしばらく何も言えなかった。
入院受付は、実習の四週目に少し経験した。
あのとき「ゆっくりで大丈夫ですよ」と思わず
声をかけた場面が蘇った。
入院する患者の不安は、外来とは種類が違う。
もっと深くて、もっと重い。
そこに寄り添う仕事が、自分に向いていると
——田所は言った。
田所さんが、そう言ってくれた。
「……やります」
言葉が、自然に出ていた。迷わなかった。
中島課長が「よかった」と言って、小さく頷いた。
「来月から、引き継ぎを始める。外来の引き継ぎをしてもらいながら、少しずつ入院係の業務を覚えていってほしい」
「はい」
「不安なことがあれば、いつでも相談してくれ。田所さんも、もちろん」
中島課長が「以上だ」と言って立ち上がった。
麻衣も立ち上がって、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
「佐倉さんらしくやってほしい。それだけだ」
" 佐倉さんらしく "
その言葉が、廊下に出てからも、
ずっと頭の中に残っていた。
佐倉麻衣らしく、とはどういうことか。
きっとそれは——ほっておけない、ということだ。
麻衣は廊下を歩きながら、静かに息を吐いた。
課長室を出ると、田所がデスクに向かっていた。
麻衣は少し迷った。
聞くべきか、聞かないべきか。
でも、聞かずにはいられなかった。
「田所さん」
田所が顔を上げた。
「推薦してくれたんですか」
田所が少し間を置いた。
視線を画面に戻しかけて、止めた。
「確認した?」
麻衣は思わず笑った。
田所凛らしい返し方だった。
「しました」
「そう」
田所が画面に視線を戻した。
それで終わりかと思った。
でも田所が、もう一言だけ言った。
「田所が言うんだから、間違いない」
麻衣は動けなかった。
" 田所が言うんだから、間違いない "
あの四月、
田所が初めて自分のことを三人称で言った日のこと
を思い出した。
麻衣が思わず噴き出しそうになって、
こらえた日。あのときと同じ言葉が、
今日は全然違う重さで届いた。
あのころの田所は、
麻衣の窓口対応を評価するために言った
言葉だった。
でも今日の田所は
——入院係への異動を、麻衣ならできると言うために
言った言葉だった。
一年間で、こんなに違う場面でこの言葉を聞くことになるとは思っていなかった。
「……ありがとうございます」
声が少し震えた。
田所が視線を外した。
画面を見るふりをしながら、
でも手が止まっている。
照れ隠しだと、麻衣にはわかった。
しばらく、二人とも黙っていた。
医事課の窓から、一月の空が見えた。
青く、高く、澄んでいた。
「田所さん」
麻衣がもう一度言った。
「うん」
「田所さんがいてくれたから、私はここにいます」
以前にも、同じ言葉を言ったことがあった。
あの九月の夜、二人で並んで話していたとき。
あのときも田所は視線を外した。
でも今日は——少しだけ、違った。
田所が画面から顔を上げて、麻衣を見た。
「入院係でも、ほっておけないままでいてほしい」
それだけだった。
でもその一言の中に、
田所凛の一年間が詰まっていた気がした。
麻衣は「はい」と答えた。
田所がまた画面に向き直った。
麻衣も自分のデスクに戻った。
医事課に、いつもの静かな時間が戻った。
でも今日の静けさは、いつもとは少し違った。
何かが、完成した静けさだった。
昼休み、休憩室に向かうと美咲が先に来ていた。
いつもの窓際の椅子。
お弁当を開けて、箸を動かしている。
あの四月、同じ場所で泣いていた美咲が、
今は普通に昼を食べている。
それだけのことが、今日は少し眩しかった。
「佐倉さん、顔が違いますよ」
美咲が麻衣を見て言った。
「そう?」
「なんか、すっきりした顔というか」
麻衣は向かいに座って、お弁当を開けた。
「美咲ちゃん、話があって」
美咲が箸を止めた。
「来月から、入院係に異動することになった」
しばらく、沈黙があった。
美咲が「……そうなんですか」と言った。
声が少し揺れていた。
「うん。さっき課長から話があって」
「入院係、ですか」
「うん」
美咲がお弁当の蓋を閉めた。
しばらく膝の上を見ていた。
「寂しいです」
静かな一言だった。
麻衣は何も言えなかった。寂しい。
その言葉が、思ったより重く響いた。
「でも——」
美咲が顔を上げた。
目が少し赤かった。
でも、笑っていた。
「佐倉さんなら、入院係でもほっておけないんでしょうね」
麻衣は思わず笑った。
「そうだね。ほっておけないから、大丈夫」
美咲が「ふふ」と笑った。
その笑顔が、あの四月に休憩室で初めて見た
力の抜けた笑顔と重なった。
あのときから、美咲はこんなに変わった。
いや——変わったというより、
美咲の中にあったものが、ちゃんと出てきた。
「入院係でも、ほっておかないでくださいね」
美咲が言った。
「ほっておけないから、大丈夫」
麻衣がもう一度答えた。
美咲が「それ、さっきも言いましたよ」と笑った。
麻衣も「そうだね」と笑った。
休憩室に、二人分の笑い声が静かに広がった。
しばらくして、美咲がぽつりと言った。
「佐倉さんがいてくれなかったら、私、今日もここにいなかったと思います」
麻衣は黙って聞いた。
「休憩室で泣いていたあの日から、ずっと。ほっておいてくれなかったから、ここが好きになれた」
その言葉は、以前にも聞いたことがあった。
でも今日の美咲の言葉は、
あのころとはまた違う重さがあった。
あのころは「辞めなかった理由」として言っていた。
でも今日は——ここが好きだという、
揺るぎない言葉として届いた。
「美咲ちゃんも、向井さんをほっておかなかったね」
麻衣が言うと、美咲が「そうですね」と頷いた。
「繋がってるんだよ、ちゃんと」
「はい」
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
二人でお弁当を片付けながら、麻衣は思った。
明日からの数日が、外来窓口の最後になる。
でも美咲がいる。田所がいる。
この場所は、続いていく。
それで、十分だった。
外来窓口の最後の日は、穏やかな朝だった。
一月の冷たい空気の中、患者が次々と受付に並ぶ。
いつもと変わらない朝だった。
でも今日の麻衣には、一つひとつの動作が、
いつもより鮮明に感じられた。
保険証を受け取る。両手で丁寧に。
有効期限を確認する。記号番号、氏名の漢字。
自己負担割合を画面と照合する。
「少々お待ちください」
患者に声をかける。
その人の顔を見る。
七十代の女性。少し足が悪そうだ。
書類を渡すとき、少し前に出る。
「お気をつけください」と一言添える。
女性が「ありがとう」と言って、待合へ向かう。
この人の人生がある。窓口の向こうに。
いつも感じていたことが、
今日は言葉になって浮かんできた。
午前の外来が半分ほど過ぎたころ、
安枝さんが医事課に顔を出した。
「佐倉さん、ちょっといい?」
「はい」
安枝さんが窓口カウンターの前に来た。
患者の合間を縫って、小さな声で言った。
「入院係に行くって、田所さんから聞いた」
「はい。来月から」
安枝さんが穏やかに笑った。
「よかった。あっちにも、佐倉さんみたいな人が必要だから」
「そうでしょうか」
「そうだよ。入院する患者さんって、外来より不安が大きいから。ゆっくり寄り添える人が、あの部署には向いてる」
田所と同じことを言っていた。
麻衣は「ありがとうございます」と頭を下げた。
「外来は寂しくなるけどね」
安枝さんがそう言って、少し笑った。
「でも、田所さんがいるから大丈夫」
「そうですね」
「それに——」
安枝さんが美咲の方をちらりと見た。
美咲が窓口で患者の対応をしている。
止まらずに、迷わずに。
「木下さんも、ちゃんと育ってる」
麻衣は美咲の背中を見た。
あの四月、田所の指摘に肩が跳ねていた美咲が、
今は一人で窓口に立っている。
「そうですね」
それ以上の言葉は、必要なかった。
安枝さんが「じゃあまたね」と言って、
外来へ戻っていった。
午後の外来が終わったのは、
夕方五時を少し回ったころだった。
最後の患者が帰っていく。
麻衣は深々と頭を下げた。
顔を上げると、待合の椅子が空になっていた。
窓口のカウンターに手を置いた。
一年間、ここに立っていた。
田所に指摘されながら、
四週間で四つの業務を覚えた。
初めての一人窓口で、手が震えた。
クレームの患者に、
声のトーンを落として向き合った。
美咲が休憩室で泣いていた日、
向かいに座った。
村田さんが退院してから真っ先に来てくれた日、
頭を下げながら目の奥が熱くなった。
桐島先生に「患者のために、か」と言われた日、
胸の中に温かいものが広がった。
窓口の向こうには、いつも誰かの人生があった。
『 この窓口に立てて、よかった 』
胸の中から、静かに言葉が出てきた。
カウンターから手を離した。
そのとき、美咲が麻衣の隣に来た。
二人で、空になった待合を見ていた。
「佐倉さん」
「うん」
「ここで一緒に働けて、よかったです」
麻衣は何も言えなかった。
しばらくして、ようやく口を開いた。
「私も」
それだけだった。
でも、それだけで十分だった。
二人で、空の待合を見ていた。
窓の外、一月の夕暮れが病院のロータリーを染めていた。
外来が終わり、スタッフが帰り支度を始めた。
医事課の中に、
一日の終わりの静けさが漂っていた。
ロッカーを開ける音、椅子を引く音、
「お疲れ様でした」という声。
いつもと変わらない業務終わりの風景だった。
美咲が「お先に失礼します」と言って、
麻衣に向かって深々と頭を下げた。
「今日も、ありがとうございました」
「こちらこそ」
美咲が出ていった。
その背中を見送りながら、麻衣は思った。
あの四月、
この医事課に入ってきた美咲を、
麻衣はほっておけなかった。
それが今、こういう形になっている。
見えない連鎖が、ちゃんとここにある。
中島課長が課長室から出てきた。
「佐倉さん、お疲れ様」
「お疲れ様でした」
「入院係でも、佐倉さんらしくやってほしい。それだけだ」
十二月の面談でも、今月の面談でも、
同じことを言っていた。佐倉さんらしく。
その言葉の意味が、
今日はよくわかった気がした。
「はい。ありがとうございます」
中島課長が「うん」と言って、
課長室に戻っていった。
麻衣が帰り支度を終えたころ、
田所だけがまだデスクに残っていた。
書類を見ているようで、見ていない。
あの九月の夜と同じだった。
麻衣は鞄を持って、田所のデスクの前に立った。
「田所さん」
田所が顔を上げた。
「外来窓口、最後でした」
「そうだね」
田所が静かに言った。
「お疲れ様」
それだけだった。
でも今日の「お疲れ様」は、いつもとは違う重さ
があった気がした。
一年間の、すべてが詰まっているような気がした。
麻衣は「ありがとうございました」と頭を下げた。
深々と、長く。
顔を上げたとき、田所が麻衣を見ていた。
「入院係でも——」
田所が少し間を置いた。
「困ったら、言って」
それだけだった。
" 入院係でも、困ったら言って "
田所凛が、そう言った。
現場を離れても、麻衣のことをほっておかない。
言葉にしないだけで、そういうことだった。
「はい」
麻衣は答えた。
声が少し震えそうになったが、堪えた。
田所が「じゃあ」と言って、
書類に視線を戻した。
麻衣は「失礼します」と言って、
医事課のドアへ向かった。
ドアを開ける前に、振り返った。
田所が書類を見ていた。
いつも通りの、無駄のない姿勢で。
" 田所さんがいてくれたから、私はここにいる "
そしてここから、次の場所へ行ける。
麻衣はドアを開けて、廊下へ出た。
廊下は静かだった。
業務終わりの病院の廊下。
自分の足音だけが響く。
あの二月、同じ廊下を歩いていた。
あのとき麻衣は、一日が長かった。
でも今日は——短かった気がした。
一年間が、あっという間だった気がした。
病院の玄関を出ると、冬の夜気が頬を刺した。
空を見上げた。
満天の星だった。
麻衣はしばらく、空を見上げたまま動けなかった。
こんなに星が見えたのは、いつぶりだろう。
白い息を一つ吐いて、ロータリーへ出た。
あの二月の朝も、この場所に立っていた。
コートのポケットに採用通知書を忍ばせて、
深呼吸して、歩き出した。
今日のポケットは、空っぽだ。
それでいい。
病院を振り返った。
自動ドアの向こうに、外来の明かりが見えた。
来月から、あの窓口に自分はいない。
でも美咲がいる。
田所がいる。
この病院は、続いていく。
もう一度、空を見上げた。
あっという間の一年間だった。
思ったより重かった。
思ったより、
誰かにほっておいてもらっていた。
" ほっておけない性格は、これからも変わらない "
白い息をもう一つ吐いて、
麻衣は星空を見上げた。
「怖くない。行こう…」
呟いた言葉が、白い息と一緒に
冬の夜空へ溶けていった。
麻衣はロータリーを横切り、歩き出した。
これで一旦完結になります。
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