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【連続短編小説】医療事務・佐倉さんはほっておけない(#3『5月の日直、はじめての本音』)

    あらすじ


    派遣職員として病院を渡り歩くこと3年。
    主人公は佐倉麻衣、29歳。
    転職活動の末にようやく手にした ” 病院の正規職員 ” という切符を胸に、2月の朝、地域に根ざした小さな急性期病院の門をくぐった。

    医事課では、毎日色んな事が目まぐるしく起こる。
    怒鳴り込む患者、現場との板挟み、人財育成に診療報酬改定の波。窓口の向こうには、いつも誰かの人生がある。ほっておけばいいのに、ほっておけない。そんな佐倉さんの入職からの日常を描いた”普段は垣間見ることがない
    病院を下支えする
    ”医療事務の成長を描いた奮闘記。

    シンリョクへ向かう 第3話…


    五月の連休は、病院の空気を変える。

    外来の自動ドアをくぐると、いつもと違う静けさが迎えた。
    連休中は予約患者がなく、来るのは急な体調不良か、それとも何かあったときだけ。
    待合の椅子は誰もいない。
    受付カウンターの照明だけが白く光っている。

    麻衣は更衣室で制服に着替えながら、ふと手が止まった。

    今日の医事課は、田所さんと私だけだ。

    業務中はもちろん、手が空いた時間も、昼休みも。
    医事課として動くのはこの二人だけ。
    逃げ場がない、という感覚は入職初日以来だったが、あのときとは少し種類が違う。
    緊張というより…なんだろう。
    うまく言葉にならなかった。

    「おはようございます」

    医事課のドアを開けると、田所がすでにデスクに向かっていた。
    制服姿、髪はいつも通りすっきりとまとめている。
    連休中だというのに、何一つ普段と変わらない。

    「おはよう」

    田所が画面から視線を上げずに答えた。
    それもいつも通りだった。

    麻衣は自分のデスクに座り、ログインしながら思った。

    『 田所さんにとって、今日は普通の一日なんだろうな。』

    日直当番は何度もこなしてきたはずの田所にとって、
    これは日常の延長だ。でも麻衣にとっては初めての日直で、
    初めての連休対応で、しかも相手は田所凛だ。

    深呼吸して、画面を開いた。

    連休中の病院は、しんと静かだった。

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    午前の受付が始まっても、患者はなかなか来なかった。

    連休中の日直外来は、平日とは別物だった。
    緊急性の高い患者だけが対象で、予約もなければ定期受診もない。窓口に誰も来ない時間が、ただ静かに流れていく。

    麻衣は画面を確認しながら、横目で田所を窺った。
    田所は淡々とレセプト(※)の点検をしている。
    連休中でも手を止めない。
    やはり普通の一日だ、この人にとっては。

    しばらくして、田所が立ち上がった。

    「ちょっといい?」

    「はい」

    麻衣は背筋を伸ばした。
    何か指摘されるのかと思った。
    でも田所が向かったのは、医事課の隅に置かれた小さな棚だった。引き出しを開けて、缶コーヒーを二本取り出す。

    「飲む?」

    「……あ、はい。ありがとうございます」

    田所が缶コーヒーを麻衣のデスクに置いた。
    ブラックだった。

    「甘いのが苦手だったら言って」

    「大丈夫です、ブラックで」

    田所が自分のデスクに戻り、缶を開けた。
    麻衣もそれに倣った。

    しばらく、二人とも画面を見ながらコーヒーを飲んだ。
    会話はなかった。でも不思議と、沈黙が重くなかった。

    田所さんって、こういう気遣いをする人なんだ。

    言葉にはしない。でも麻衣の中で、田所凛という人物の輪郭が、
    少しだけ違う形になった。

    しばらくして、田所がふと口を開いた。

    「佐倉さん、日直は初めて?」

    「はい。初めてです」

    「そう」

    それだけだった。田所はまた画面に視線を戻した。

    麻衣は缶コーヒーを両手で包みながら、思い切って聞いた。

    「田所さんは、日直って慣れましたか。最初のころ」

    田所が少し考えるように、人差し指で机を静かに叩いた。

    「慣れるというより……割り切った」

    「割り切る?」

    「何が来ても、できることをやるだけ。それだけ考えたら、怖くなくなった」

    麻衣は黙って聞いた。
    田所らしい答えだと思った。
    感情を排して、やるべきことに集中する。
    それが田所凛という人間だ。

    でもふと気になって、もう一つだけ聞いた。

    「田所さんが、割り切れなかったことって……ありますか」

    田所の手が、一瞬止まった。

    「ある」

    それだけだった。続きはなかった。麻衣も聞かなかった。

    でもその一言が、思ったより重く響いた。
    田所凛にも、割り切れなかった何かがある。
    それがわかっただけで、今日の午前は十分だった気がした。


    医事課の電話が鳴った。
    田所が素早く受話器を取った。
    麻衣は思わず手を止めて、その背中を見た。

    田所が受話器を置いたのは、それから二分も経たないころだった。

    「救急搬送の受け入れが入った。七十代男性、意識あり。家族が一緒に来る。受け入れ準備して」

    それだけ言って、田所はすでに動いていた。

    麻衣も立ち上がった。
    頭の中で手順を組み立てる。
    救急受け入れの際に医事課がやるべきこと。
    患者情報の確認、保険証の確認、緊急入院の書類手配、家族への
    説明。平日なら誰かに確認できる。

    でも今日は田所と二人だけだ。

    『 落ち着いて。できることをやるだけ。』

    さっき田所が言った言葉が、頭の中で繰り返された。


    患者が運ばれてきたのは、電話から十五分後だった。

    ストレッチャーに乗せられた男性が救急入口から入ってくる。
    顔色が悪い。隣に五十代とおぼしき女性が寄り添っていた。
    娘だろうか。表情が強張っている。

    田所が救急担当の看護師と手短に言葉を交わしながら、同時に麻衣に指示を飛ばした。

    「佐倉さん、家族の方の対応お願い」

    「はい」

    麻衣は女性に近づいた。

    「奥様でいらっしゃいますか」

    「娘です。父が急に…」

    女性の声が震えていた。
    麻衣は努めて落ち着いた声で続けた。

    「お父様は今、医師が対応しております。少しお時間をいただけますか。確認させていただきたいことがございます」

    女性が小さく頷いた。
    麻衣は女性を待合の椅子へ案内しながら、保険証の有無を確認し、緊急連絡先を聞き、必要な書類を手渡した。
    女性の手が小刻みに震えていた。

    「大丈夫ですよ。ゆっくりで構いません」

    思わず出た言葉だった。
    第一週の入院受付で「ゆっくりで大丈夫ですよ」と言ったあの瞬間と、同じ感覚だった。

    女性が「ありがとうございます」と言って、書類に目を落とした。


    書類を受け取って医事課に戻ると、田所がすでにシステムへの入力を始めていた。

    「患者情報、取れた?」

    「はい。保険証はご家族が持参されています」

    「確認して入力して。緊急入院の同意書は?」

    「準備しています」

    田所が一瞬、麻衣を見た。
    何も言わなかった。
    でもその視線が「よし」と言っていた気がした。

    麻衣は保険証を受け取り、内容を確認しながら入力を進めた。
    有効期限、記号番号、自己負担割合。指が画面の上を動く。

    そのとき、ふと手が止まった。

    限度額認定証の確認だった。

    『 あれ。このケース、どうだったっけ。』

    緊急入院の場合、限度額認定証の確認タイミングは…。
    派遣時代、同じような場面があった。
    あのとき麻衣は確認を後回しにして、あとで処理が複雑になった。患者家族に何度も確認の電話をかける羽目になった。
    誰にも言えなかった。ずっと引きずっていた。

    手が、止まったままだった。

    「どうした」

    田所の声が飛んだ。
    責める声ではない。
    ただ、気づいている。

    「私……前に同じような場面で、確認を後回しにして迷惑をかけたことがあって」

    言葉が、滑り出ていた。
    こんなタイミングで言うつもりはなかった。
    でも止まらなかった。

    「前に同じような場面で、確認を後回しにしたことがあって……少し迷いました」

    田所が手を止めずに聞いていた。
    画面を見たまま、でも確実に聞いていた。

    「今は?」

    たった三文字だった。

    麻衣は画面を見た。限度額認定証の確認項目が、画面の中にある。手順はわかっている。今の自分には、できる。

    「……できます」

    「じゃあ、やって」

    それだけだった。田所はまた自分の入力に戻った。

    麻衣は深呼吸して、画面に向き直った。
    指が動き出した。確認項目を一つひとつ、丁寧に進めていく。
    止まらない。迷わない。派遣時代の自分とは違う。

    入力が完了したとき、麻衣はそっと息を吐いた。

    隣で田所が「家族への説明、一緒に行く?」と立ち上がった。

    麻衣も立ち上がった。
    さっきより少しだけ、足が軽かった。


    家族への説明が終わったのは、昼をとっくに過ぎたころだった。

    医事課に戻ると、田所がいつものように自分のデスクに向かった。麻衣も椅子に腰を下ろしたが、
    すぐには画面を開く気になれなかった。指先がまだ少し冷たい。
    緊張が、じわじわと抜けていくのがわかった。

    「お疲れ」

    田所が立ち上がり、また棚に向かった。
    缶コーヒーを二本取り出して、一本を麻衣のデスクに置く。

    『 また、これだ。』

    午前と同じだった。
    言葉より先に、手が動く。
    それが田所凛の気遣いの仕方だった。

    「ありがとうございます」

    麻衣は缶を受け取った。
    冷たいはずなのに、なぜか温かく感じた。

    田所が自分のデスクに戻り、缶を開けた。
    しばらく二人とも黙ったまま、コーヒーを飲んだ。

    先に口を開いたのは、田所だった。

    「さっきの対応、悪くなかった」

    麻衣は思わず田所の顔を見た。
    田所は缶コーヒーに視線を落としたまま続けた。

    「家族への対応、落ち着いてた。焦ってなかった」

    「……ありがとうございます」

    「さっき、手が止まってたけど」

    麻衣の胸が、少し跳ねた。

    「限度額認定証のところですか」

    「うん。前に後回しにしたって言ってたね」

    田所が静かに聞いていた。
    責める口調ではない。ただ、続きを待っている。

    麻衣は缶コーヒーを両手で包んだ。

    「派遣のころの話です。緊急入院の対応で、限度額認定証の確認を後回しにして。あとで患者さんのご家族に何度も確認の電話をかける羽目になって」

    「それで?」

    「誰にも言えなかったんです」

    言葉が、すとんと落ちた。

    「上の人に報告すればよかったのに、できなくて。派遣だから、また次の契約に響くかもって思って。ずっと引きずってました。正規職員になってからも」

    田所は何も言わなかった。でも聞いていた。
    缶コーヒーを一口飲んで、静かに待っていた。

    「だから今日、手が止まったとき……また同じことをするんじゃないかって。一瞬、怖くなりました」

    「でも止まらなかった」

    田所の言葉は、確認でも慰めでもなかった。
    ただ、事実を置いた。

    「……はい」

    「それでいい」

    それだけだった。
    田所はまた缶コーヒーに視線を戻した。

    麻衣は黙って聞いた。
    ” それでいい ”
    たった五文字だった。
    でも不思議と、胸の中にすとんと落ちた。
    長いあいだ引きずってきた何かが、少しだけ軽くなった気がした。

    しばらく沈黙が続いた。

    今度は麻衣が口を開いた。

    「田所さんも、割り切れなかったことがあるって言ってましたよね」

    田所の指が、一瞬止まった。

    「言ったね」

    「聞いてもいいですか」

    田所が缶コーヒーを置いた。少し間があった。

    「この病院が開いたばかりのころ、まだ何もなかった。マニュアルも、手順書も。自分で全部考えてやるしかなかった」

    「はい」

    「そのころ、入院受付で書類の不備を見落として。患者さんの退院が一日延びた」

    麻衣は黙って聞いた。

    「報告して、謝って、再発防止策を作った。それで終わりにした。でも…」

    田所が少し間を置いた。

    「その患者さんの顔は、今でも覚えてる」

    麻衣は何も言えなかった。
    田所凛が、こういう話をする人だとは思っていなかった。
    いつも淡々としていて、感情を見せない。
    でも今、この人も同じように何かを引きずってきたことが
    わかった。

    「それが、割り切れなかったこと?」

    「うん。割り切ったふりをしてた、の方が正確かもしれない」

    田所が缶コーヒーを飲み干して、静かに置いた。

    「佐倉さんが誰にも言えなかった気持ち、わからなくはない」

    麻衣の目の奥が、じわりと熱くなった。
    堪えた。堪えたが、完全にはどうにもならなかった。

    「……ありがとうございます」

    声が、少し震えた。
    田所は気づいているのかいないのか、立ち上がって棚に空き缶を
    置いた。

    「昼、食べてないでしょ。何か買ってくる」

    それだけ言って、田所は医事課を出ていった。

    麻衣は一人取り残されたまま、しばらく動けなかった。

    『 田所さんって、こういう人だったんだ 』

    言葉にならない感情が、胸の中でゆっくりと広がっていた。


    田所が戻ってきたのは、十分ほどしてからだった。

    コンビニの袋を二つ、デスクに置いた。
    おにぎりとお茶。それだけだった。

    「どうぞ」

    「……ありがとうございます」

    麻衣は受け取りながら、なんだかおかしくなった。
    患対応あり、本音の告白あり、で今度はコンビニのおにぎりだ。
    田所凛という人は、本当に不思議な人だと思った。

    二人で並んで、黙って食べた。
    会話はなかった。でもそれでよかった。
    午前の沈黙とは、少し種類が違った。


    日直が終わったのは、夕方五時を回ったころだった。

    戸締まりを確認して、消灯して、二人で病院を出た。
    連休中の夕暮れの街は、どこかのんびりしていた。
    行き交う人の顔が、普段より穏やかに見える。

    病院の前のロータリーで、田所が立ち止まった。

    「お疲れ様でした」

    麻衣が頭を下げると、田所が「うん」とだけ答えた。
    それから少し間があって、田所がぽつりと言った。

    「今日のこと、よく覚えておいて」

    「はい?」

    「初めての日直。何が来て、どう動いたか。それが次につながる」

    麻衣は黙って頷いた。
    田所らしい言葉だと思った。
    感情ではなく、次への糧として今日を捉える。
    でも今の麻衣には、それが素直に届いた。

    「……はい。覚えておきます」

    田所が「じゃあ」と言って、先に歩き出した。
    その背中が、夕暮れの中に遠ざかっていく。

    麻衣はしばらくその場に立ったまま、今日一日を思い返した。
    急患対応の混乱、田所の「今は?」という三文字。
    「誰にも言えなかった」という言葉がようやく誰かに届いた瞬間。

    『 今日、田所さんに話してよかった 』

    ロータリーを横切りながら、麻衣は空を見上げた。
    五月の夕暮れが、街をやわらかく染めていた。


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    UZ

     
     
    UZ(ユズ)です。 医療系情報発信等が中心です。 2026年4月から執筆活動に挑戦。 #医療事務・佐倉さんはほっておけない  noteで公開中 #端正謹厳 一期一会の結び  TALESで公開中

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