
【連続短編小説】医療事務・佐倉さんはほっておけない(#2『4月の新顔、ほっとけない理由』)
あらすじ
派遣職員として病院を渡り歩くこと3年。
主人公は佐倉麻衣、29歳。
転職活動の末にようやく手にした ” 病院の正規職員 ” という切符を胸に、2月の朝、地域に根ざした小さな急性期病院の門をくぐった。
医事課では、毎日色んな事が目まぐるしく起こる。
怒鳴り込む患者、現場との板挟み、人財育成に診療報酬改定の波。窓口の向こうには、いつも誰かの人生がある。ほっておけばいいのに、ほっておけない。そんな佐倉さんの入職からの日常を描いた”普段は垣間見ることがない病院を下支えする”医療事務の成長を描いた奮闘記。
サクラサク 第2話…
四月になると、病院の空気が少し変わった。
外来待合の窓から見える桜が満開になった朝、
医事課に新しい顔が現れた。
紺色の制服をぴしりと着こなしているが、
その表情はどこか固い。
視線が定まらず、挨拶のたびに深々と頭を下げる。
「木下美咲です。今日からよろしくお願いします」
声が少し上ずっていた。
麻衣は自分のデスクからその様子を眺めながら、
思わず口元が緩んだ。
『 ああ、2ヶ月前の自分だ 』
あのロータリーで白い息を吐いていた朝のことが、
するりと蘇った。
採用通知書をお守り代わりにポケットへ忍ばせ、
自動ドアの音にびくりとしていた自分。
美咲の固い背筋と、定まらない視線が、
あの頃の自分と重なった。
指導担当は田所凛。
中島課長からそう告げられると、
美咲は「よろしくお願いします」と田所に向かって
再び深々と頭を下げた。
田所は「よろしく」とだけ答えて、さっそく業務の説明を始めた。
いつもの、無駄のないペースで。
『 大丈夫かな 』
麻衣は視線を自分の画面に戻した。
自分には関係ない。
指導担当は田所だ。
余計な口を挟む必要はない。
そう思っていた。この時点では、まだ。
最初の一週間。
美咲は田所の隣に張りついて受付業務を
覚えていた。
メモを取る手が追いつかないのか、
田所の動きを目で追いながら何度もペンを
走らせている。
その姿は麻衣にはよく見えた。
2ヶ月前、同じように必死にメモを
取っていた自分が、そこにいるようだった。
問題が起きたのは、二週目に入ってからだった。
美咲が初めて窓口に立った日の午前中、
麻衣は少し離れたデスクで会計データを
確認しながら、横目で様子を窺っていた。
患者が窓口に近づくたびに、美咲の背中がぴんと
固まるのがわかった。
保険証を受け取る。画面を開く。
そこで指が止まる。
「有効期限、確認した?」
田所の声が飛ぶ。美咲がはっとして
画面に視線を戻す。
次の確認へ進もうとした瞬間、
また別の指摘が来る。
「自己負担割合は?」
美咲の肩が、小さく跳ねた。
患者が去ったあと、
美咲はうつむいたまましばらく動かなかった。
田所はすでに次の業務に移っている。
フォローはない。
いつもの田所のやり方だ。麻衣にはわかる。
でも美咲には、まだわからない。
『 声をかけようか 』
麻衣は一瞬迷って、画面に視線を戻した。
余計なことはしない。田所のやり方を信じる。
そう決めた。
昼休みのことだった。
休憩室にお茶を取りに行くと、
窓際の椅子に美咲が一人で座っていた。
お弁当箱は開いているが、箸が止まっている。
うつむいた頬が、かすかに赤い。
『 泣いてる? 』
麻衣は一瞬、踵を返しかけた。
関係ない。自分には関係ない。
でも足が止まった。
「……お弁当、冷めちゃうよ」
気づいたら、声をかけていた。
美咲がぱっと顔を上げる。目が赤い。やっぱり泣いていた。
「す、すみません。佐倉さん……」
「謝らなくていいよ」
麻衣は向かいの椅子を引いて、腰を下ろした。
自分でも少し驚いていた。
座るつもりなんてなかったのに。
「田所さんの指摘、怖くて。頭が真っ白になっちゃって」
美咲が絞り出すように言った。
声が震えている。
「窓口に立つたびに、次は何を間違えるんだろうって考えちゃって。そうしたらもう、何も見えなくなって」
麻衣は黙って聞いた。
怖い。
頭が真っ白になる。
次のミスが怖い。
全部、わかった。
2ヶ月前の自分が、そのまま言葉になって
目の前に座っていた。
「……ご飯、食べながら聞くね」
麻衣はそう言って、自分のお弁当箱を開けた。
美咲が小さく頷いて、箸を取った。
休憩室に、二人分の箸の音だけが静かに響いた。
それから、休憩室での昼休みが続いた。
最初は一度きりのつもりだった。
でも翌日も美咲は休憩室の窓際に一人でいて、
麻衣はまた向かいに座った。
その次の日も、また次の日も。
気づけば二人で昼を食べるのが、
当たり前になっていた。
美咲はよく話した。
窓口でうまくいかなかったこと、
田所の指摘が怖いこと、
自分には向いていないんじゃないかということ。
麻衣はほとんど聞き役に回りながら、
時折相槌を打った。
「田所さんって、いつも怒ってるんですか?」
ある日、美咲が箸を止めて聞いた。
「怒ってないよ」
麻衣は即座に答えた。
「でも、すごく怖くて……」
「怖いのと、怒ってるのは違う」
麻衣はお弁当の卵焼きを口に運びながら、
言葉を選んだ。
「田所さんはね、ちゃんと見てるんだよ。美咲ちゃんのこと」
「見てる……?」
「指摘するってことは、気にかけてるってこと。無関心な人は何も言わない。放っておく」
言いながら、
麻衣は2ヶ月前のことを思い出していた。
矢継ぎ早に飛んでくる田所の指摘。
怒鳴らない、淡々としている、
でも確実に見ている視線。
あのころは怖いとしか思えなかった。
でも今ならわかる。
あれは田所なりの、不器用な気にかけ方だった。
「私も最初、同じこと思ってたよ」
美咲が目を丸くした。
「佐倉さんも怖かったんですか?」
「怖かった。昼休みにトイレで深呼吸してたこともある」
「え、佐倉さんが?」
「派遣で3年やってたのに、全然通用しなくて。大病院でのやり方が邪魔して、むしろ1から覚え直しだった」
美咲が少し考えるように視線を落とした。
「……私、専門学校で習ったことが全然役に立ってなくて。授業で勉強したのと、実際の窓口って全然違うんですね」
「そう、全然違う」
麻衣はきっぱりと頷いた。
「でもね、授業で習ったことが無駄かって言ったら、そうじゃない。今はまだ繋がって見えないだけで、絶対どこかで繋がる。私の場合は収納の週に急に繋がった」
「収納の週?」
「受付で覚えた保険証の知識が、収納で患者さんに説明するときに急に繋がったの。田所さんのローテーション、実はちゃんと設計されてたんだって気づいた瞬間があって」
美咲が「へえ」と言って、少し表情が和らいだ。
固まっていた肩が、ほんのわずかに下がった気がした。
「じゃあ、今は繋がってなくても……」
「うん。繋がる日が来る。必ず」
根拠のある言葉ではなかった。
でも麻衣は自分の経験から、そう確信していた。
美咲がお弁当の蓋を閉めながら、ぽつりと言った。
「佐倉さん、なんで私にそんなに優しくしてくれるんですか」
麻衣は少し面食らった。
「優しくしてるつもりはないよ。ただ……ほっとけないだけ」
「ほっとけない?」
「うん。なんかね、ほっとけないんだよ。困ってる人がいると」
我ながら不器用な答えだと思った。
でも美咲は「ふふ」と笑った。
入職してから初めて見る、力の抜けた笑顔だった。
「ありがとうございます、佐倉さん」
麻衣は照れくさくて、お茶を一口飲んだ。
昼休みが終わり、医事課に戻ると、
田所が麻衣のデスクのそばを通りかかった。
何も言わなかった。でも一瞬だけ、視線が交わった。
田所の表情は、いつも通り読めない。
『 気づいてるのかな 』
麻衣は何気ない顔で画面に向き直った。
休憩室での昼休みのことは、田所には言っていない。
指導担当は田所だ。
自分はただ、話を聞いているだけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう自分に言い聞かせながら、
どこかでわかっていた。
” もうとっくに、「それ以上」になっていた。”
そんな日々が続いた。
気づけば四月も終わりに差し掛かっていた。
それは、ある午前のことだった。
外来も残りわずかになったころ、
窓口に七十代とおぼしき男性がやってきた。
杖をつきながらゆっくりと近づいてくる。
美咲が「どうぞ」と声をかけて、
保険証を受け取った。
麻衣は少し離れたデスクで会計データを
確認しながら、横目で様子を窺った。
美咲の指が、画面の上で動いている。止まらない。
有効期限を確認して、自己負担割合を照合して、
公費の有無を確認する。
先週までは必ずどこかで詰まっていた手順が、
今日はひとつひとつ丁寧に進んでいた。
『 あれ? 』
麻衣は手を止めた。
受付を終えて「お待ちください」と男性に告げた
美咲の声が、いつもより落ち着いていた。
男性がゆっくりと待合の椅子に向かおうとしたとき、
美咲が一歩前に出た。
「足元、お気をつけください。椅子までご一緒しましょうか」
男性が「ありがとう」と言って、ゆっくりと頷いた。
美咲がカウンターから出て、男性の歩調に合わせて
そっと寄り添いながら椅子まで案内した。
田所は別の患者の対応中だった。見ていない。
でも麻衣は見ていた。
美咲が戻ってきて窓口に立つと、次の患者が近づいてきた。
さっきより少しだけ、背筋が伸びていた。
『 やるじゃないか 』
麻衣は口元が緩むのをこらえながら、画面に視線を戻した。
業務が終わり、スタッフが帰り支度を始めたころ、
麻衣は更衣室で美咲の隣に立った。
「今日の午前、よかったよ」
ロッカーを開けながら、さりげなく言った。
美咲がぽかんとした顔で振り返る。
「え? 何かありましたっけ」
「杖のおじいさん。椅子まで付き添ったでしょ」
「あ……あれ、ダメでしたか? 勝手に出てっちゃって」
「ダメじゃない。よかった」
麻衣はコートを手に取りながら続けた。
「マニュアルにないことを、自分で考えてやれたってこと。それができるようになったんだよ、美咲ちゃん」
美咲が黙った。
しばらく自分のロッカーを見つめてから、ぽつりと言った。
「佐倉さんがいてくれたから、だと思います」
「そんなことないよ」
「あります。休憩室で話してくれなかったら、私たぶんもう辞めてました」
麻衣は言葉に詰まった。
辞めてた、という言葉が思ったより重く響いた。
自分はただ、ほっとけなかっただけだ。
お節介を焼いていただけだ。
それが誰かの「辞めない理由」になっていたなんて、
考えたこともなかった。
あのころの自分には、誰もこうしてくれなかった。
だからかもしれない。
「……大げさだよ」
やっと出た言葉は、それだけだった。
美咲が「大げさじゃないです」と笑いながら首を横に振った。
「田所さんのこと、最初はただ怖いだけだと思ってました。でも佐倉さんに話を聞いてもらってから、なんか……ちゃんと見てもらえてるのかなって思えてきて。それから少し、楽になったんです」
麻衣は黙って聞いた。
田所は何も言わない。でも見ている。
それを美咲に伝えたのは、麻衣自身の言葉だった。
2ヶ月前に田所から受け取ったものを、
今度は自分が誰かに渡していた。
そのことに、今更気づいた。
「明日も頑張ってね」
麻衣はそれだけ言って、更衣室を出た。
廊下に出ると、夕方の外来が終わった病院は静かだった。
自分の足音だけが響く廊下を歩きながら、
麻衣は胸の中に妙な温かさを感じていた。
うまく言葉にはできない。
でも悪くない感覚だった。
四月の最終日、業務終わりに田所に呼び止められた。
「佐倉さん、ちょっといい?」
デスクの前に立つ田所の表情は、いつも通り読めない。
麻衣は「はい」と答えながら、内心で身構えた。
給湯室での昼休みのことが、頭をよぎった。
「木下さんのこと」
やっぱり気づいていた。麻衣は一瞬、言い訳を探した。
でも田所の次の言葉は、予想と違った。
「悪くなかったよ、佐倉さんのフォロー」
「……え」
「木下さん、最初の週より明らかに表情が変わった。田所が言うんだから間違いない」
田所が自分のことを三人称で言うのは、珍しかった。
麻衣は思わず噴き出しそうになって、こらえた。
「ただ」
田所が続けた。
「指導担当は私。佐倉さんは佐倉さんの業務がある。木下さんにかかりきりにはならないで」
「……はい」
反論はなかった。正論だった。
先輩としての田所の言葉は、怒っているわけでも、
責めているわけでもない。
ただ、線引きをしている。麻衣はそれを真っ直ぐ受け取った。
田所が踵を返しかけて、ふと足を止めた。
「あと、来月の話なんだけど」
「はい」
「五月の連休に日直当番が入ってる。私と佐倉さんの二人で担当だから」
麻衣は一瞬、言葉を失った。
日直。連休中の休日対応は麻衣にとっては初めてだった。
「……わかりました」
平静を装って答えたが、声が半音上がった。
田所がそれに気づいたのかどうか、いつも通りの無表情のまま
「よろしく」とだけ言って自分のデスクに戻っていった。
麻衣は一人取り残されたまま、しばらく動けなかった。
ほっておけない性格のせいで、
気づけば美咲の相談役になっていた四月。
来月は連休中の初の日直が待っている。
しかも相手は田所凛だ。
『正規職員一年目って、思ったより忙しい。』
苦笑いしながら、麻衣はコートを手に取った。
廊下の窓の外、青々と芽吹き始めた木々が夕風に揺れていた。
桜の季節が終わり、新緑が始まろうとしている。
四月が、終わろうとしていた。
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