
【連続短編小説】医療事務・佐倉さんはほっておけない(#6『8月の夏、玄関で座り込んだ日のこと』)
あらすじ
派遣職員として病院を渡り歩くこと3年。
主人公は佐倉麻衣、29歳。
転職活動の末にようやく手にした ” 病院の正規職員 ” という切符を胸に、2月の朝、地域に根ざした小さな急性期病院の門をくぐった。
医事課では、毎日色んな事が目まぐるしく起こる。
怒鳴り込む患者、現場との板挟み、人財育成に診療報酬改定の波。
窓口の向こうには、いつも誰かの人生がある。
ほっておけばいいのに、ほっておけない。
そんな佐倉さんの入職からの日常を描いた”普段は垣間見ることが
ない病院を下支えする”医療事務の成長を描いた奮闘記。
#1『2月の入職…桜までに1人前』
#2『4月の新顔、ほっとけない理由』
#3『5月の日直、はじめての本音』
#4『6月の雨、ようやく見つけた答え』
#5『7月の窓口、ここが誰かの帰る場所』
夏本番、灼熱の中の第6話…
七月の穏やかな日々が、終わろうとしていた。
八月になると、外来の混み具合が変わった。
夏休みで受診が集中する。
子どもを連れた親
普段は仕事で来られないサラリーマン
遠方から帰省ついでに来る患者。
待合の椅子が埋まる時間帯が、
普段より早くなっていた。
美咲は、そんな八月の外来をひとりで
こなしていた。
四月に入職してから五ヶ月。
最初は田所の隣に張りついて
一つひとつの手順を確認しながら動いていた美咲が
今では窓口に一人で立っている。
保険証の確認も、会計の案内も、収納の説明も
止まらずに動けるようになっていた。
『 ずいぶん変わったな 』
麻衣は自分のデスクから、
美咲の背中を横目で見ていた。
あの四月の休憩室で泣いていた美咲とは
別人のようだった。
問題が起き始めたのは、
八月も半ばを過ぎたころだった。
最初は小さなミスだった。
会計の打ち出しを一件飛ばしてしまった。
患者への説明が不十分で、
田所に補足してもらった。
保険証の返却を忘れて、患者に呼び止められた。
一つひとつは些細なことだった。
でも、それが続いた。
「最近、確認が抜けることが増えてる」
田所が美咲に静かに言ったのは
三日連続でミスが出た日の業務終わりだった。
美咲が「すみません」と頭を下げた。
田所はそれ以上は言わなかった。
でも麻衣には、田所が何を心配しているのか
わかった。
” 慣れてきた ”
それが、今の美咲の問題だった。
最初のころは、
一つひとつの手順を丁寧に確認していた。
でも今は体が覚えてしまっている。
流れで動けるようになった分、
確認が甘くなっていた。
そして、八月の最終週。
午前の外来が混んでいた。
窓口に列ができていた。
美咲が次々と患者を捌いていく。
テンポよく、止まらずに。
でもその日に限って、
六十代の女性患者の保険証の種別確認を誤った。
国民健康保険と社会保険の自己負担割合を
取り違えて、会計金額が違っていた。
「ちょっと待って。金額がおかしくないですか」
女性が領収書を見て、窓口に戻ってきた。
美咲が画面を確認して、顔色が変わった。
田所がすぐに割り込んで対応に入った。
丁寧に説明して、謝罪して、
正しい金額で再計算した。
女性は「もうちゃんとしてください」と言い残して
去っていった。
美咲はその間、一言も言えなかった。
田所が「木下さん、あとで話しましょう」と静かに言った。
美咲が小さく頷いた。
麻衣は遠くから、その背中を見ていた。
『 また、この景色だ 』
でも今日の美咲の背中は、四月のときとは違った。
四月は不安で固まっていた。
今日は ” 折れそう ” だった。
昼休み、麻衣は休憩室に向かった。
扉を開けると、美咲が窓際の椅子に座っていた。
お弁当箱は鞄の中に入ったままだった。
食べる気にもなれないのだろう。
うつむいたまま、膝の上で手を握りしめていた。
『 今日は、いつもと違う 』
麻衣は向かいの椅子を引いて、腰を下ろした。
お弁当を開けながら、美咲の様子を窺った。
泣いていなかった。
でも、泣けないでいる顔だった。
しばらく沈黙が続いた。
「田所さんに、叱られました」
美咲が口を開いたのは、麻衣がお弁当を半分ほど
食べたころだった。
「怒鳴られたわけじゃないです。でも…今まで一番、きつかった」
「何を言われたの」
「慣れた頃が一番危ない、って。確認を省いているのか、それとも確認の意味がわかっていないのか、自分で考えてみて…って」
田所らしい言葉だと思った。
責めていない。
でも核心を突いている。
「……自分で考えてみた?」
「考えました」美咲が膝の上の手をぎゅっと握った。
「慣れたから、省いてたんだと思います。
わかってるのに、できてなかった。それが一番、情けなくて」
麻衣は黙って聞いた。
「患者さんに迷惑をかけて、田所さんにフォローしてもらって、自分は何もできなくて。最初のころの方が、まだ丁寧だったんだと思うと……」
美咲の声が、少し揺れた。
「…辞めたいです…」
静かな一言だった。
麻衣は箸を止めた。
これまでの「落ち込んでも翌日には立ち直る」
美咲とは、明らかに違った。
半年間、何度も「辞めたい」と思いかけながら
踏みとどまってきた美咲が、初めて本気でその
言葉を口にしていた。
「今日だけじゃないんです。最近ずっと、来るのが怖くて。窓口に立つたびに、また何かやらかすんじゃないかって。そう思ったら、もう…」
美咲が言葉を飲み込んだ。
麻衣は自分のお弁当箱を静かに閉めた。
「……うん」
それだけ言った。
励ますつもりはなかった。
否定するつもりもなかった。
ただ、聞いた。
休憩室に、二人分の沈黙が広がった。
夏の日差しが、窓の外で白く輝いていた。
しばらく、二人とも黙っていた。
休憩室の窓から、夏の空が見えた。
入道雲が白く盛り上がっている。
こんなに晴れているのに、なんだか遠い景色のように見えた。
麻衣は閉じたお弁当箱を見つめながら、
言葉を探していた。
励ますつもりはない。
「頑張れ」とも「辞めないで」とも言えない。
でも、黙ったままでもいられなかった。
「私も、一回全部やめたことがある」
美咲が顔を上げた。
「前の仕事の話。医療事務じゃなくて、その前」
「……はい」
「普通の会社に就職してたんだけど、仕事は好きだったんだよね。やりがいもあったし、認めてももらえてたし。でも忙しくて。毎日残業で、休日も仕事のことが頭から離れなくて」
麻衣は窓の外を見た。
「最初は平気だった。若かったし、体力もあったからね。でも気づいたら、朝起きるのがつらくなってて。食欲もなくて、夜も眠れなくて」
「……」
「誰かに言えばよかったんだけど、言えなくて。
上司は忙しそうだし、同僚に心配かけたくないし。一人で抱えてたら、どんどん重くなって」
美咲が黙って聞いていた。
「ある朝、起き上がれなかった。
目は覚めてるのに、体が動かなくなって。
それでも出勤しなきゃって思って、なんとかベッドから出て、普段着に着替えて、鞄を持って玄関まで行ったんだけど」
麻衣は少し間を置いた。
「そこで座り込んじゃって。靴も履けなくて。ただ玄関に座って、どのくらいそうしてたのかわからなくて」
「……佐倉さんが」
「うん。結局その日は行けなくて。
そのまま病院に行って、しばらく休んで、それから退職した」
美咲の目が、わずかに潤んでいた。
「誰にも、言えなかったんですか」
「言えなかった。言ったら負けな気がして。
それに、なんて言えばいいかわからなくて。
ただ ” 限界 ” だって、それだけしかわからなかった」
麻衣はお弁当箱を手に取りながら、続けた。
「だから美咲ちゃんが辞めたいって気持ち、否定できないんだ。辞めることが悪いとは思ってないし、限界なら休んだ方がいいとも思う」
「……」
「でも一個だけ聞いていい?」
美咲が小さく頷いた。
「今の美咲ちゃんは、限界?
それとも、しんどいけどまだいける?」
美咲が黙った。窓の外で、セミの声が遠く聞こえた。
しばらくして、美咲がぽつりと言った。
「……わからないです」
「わからない、か」
「限界かどうか、自分でもよくわからなくて。
でも今日、窓口に立つのが怖かったのは本当で。
またミスするんじゃないかって、ずっと思ってて」
麻衣は頷いた。
「じゃあ今日だけは、もう少しだけ考えてみて。答えは今すぐ出さなくていい」
「……はい」
「辞めるにしても、続けるにしても、美咲ちゃんが決めたことなら、それでいいと思う。ただ…」
麻衣は少し間を置いた。
「私がそうだったように、玄関で座り込む前に、誰かに言ってほしい。私でも、家族でも、誰でもいいから」
美咲が「はい」と答えた。
今度は、少しだけはっきりした声だった。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
二人で立ち上がりながら、麻衣は美咲の顔を見た。
まだ晴れていない。でも、さっきより少しだけ、
肩の力が抜けた気がした。
午後の外来が始まる。
麻衣は休憩室のドアを開けた。
夏の廊下に、冷房の冷たい空気が流れていた。
翌朝、美咲が来なかった。
始業のチャイムが鳴っても、
美咲のデスクは空のままだった。連絡もない。
田所が医事課の状況を確認しながら、
中島課長に一言報告した。
中島課長が「わかった」と頷いて、
そのまま業務が始まった。
誰も、大げさに騒がなかった。
田所が麻衣に「今日は二人で回す」と言った。
麻衣が「はい」と答えて、窓口に立った。
美咲の分まで、動くしかない。
午前の外来は忙しかった。
夏の繁忙期はまだ続いていた。
患者が次々とやってくる。
保険証を受け取り、画面を確認し、
会計を案内する。
手を止める暇がなかった。
でも麻衣の頭の中には、
ずっと美咲のことがあった。
『 今、どこにいるんだろう 』
昨日の昼休みの美咲の顔が蘇った。
泣けないでいる顔。膝の上で握りしめた手。
「わからないです」という言葉。
あのあと、美咲は午後の業務をこなして、
いつも通り帰っていった。
麻衣も特に引き止めなかった。
「今日だけ、もう少し考えてみて」と言ったのに、
もう少しが翌朝の無断欠勤になってしまった。
『 私の言い方が、まずかったのかな 』
でも後悔しても仕方ない。
今できることをやるだけだ。
昼休み、麻衣は休憩室でスマートフォンを
取り出した。
美咲のトーク画面を開く。
最後のやりとりは先月の業務に関する
短いメッセージだった。
何を書けばいいか、少し考えた。
「大丈夫?」は違う。
大丈夫じゃないから来なかったんだ。
「早く戻ってきて」も違う。
それは麻衣の都合だ。
「心配してるよ」も…なんか違う。
麻衣は画面を見つめながら、言葉を探した。
励ましでも、責めでも、心配でもない言葉。
ただ、事実だけを伝える言葉。
『 そうか。田所さんみたいにすればいい 』
麻衣は短いメッセージを打った。
「明日、待ってます」
送信した。
返信はなかった。
既読もつかなかった。
でも麻衣は、それでいいと思った。
届いていればいい。
届いていなくても、打ったことに意味がある。
午後の外来が終わったあと、
田所が麻衣のデスクの前に立った。
「木下さんに連絡した?」
「はい。昼休みに」
「そう」
田所はそれだけ言って、自分のデスクに戻った。
怒っていない。責めていない。
ただ、確認した。それだけだった。
麻衣は画面を見た。
美咲からの返信は、まだなかった。
窓の外、夏の日が傾いていた。
病院のロータリーに、夕暮れの影が伸びていた。
『 明日、来るといいな 』
それだけを思いながら、
麻衣はデスクの片付けを始めた。
翌々日の朝、医事課のドアが開いた。
麻衣は画面から顔を上げた。
美咲だった。
少し顔色が悪い。
目の下にうっすらと隈がある。
昨日一日、どんな気持ちで過ごしていたのかは
わからない。
でも今朝、自分でここに来ることを選んだ。
それだけは、確かだった。
「……おはようございます」
美咲が小さな声で言った。
視線が少し泳いでいる。
田所のデスクをちらりと見て、
中島課長のデスクをちらりと見て、
それから麻衣を見た。
田所が画面から顔を上げた。
「おはよう」
それだけだった。
怒らない。責めない。昨日のことには触れない
ただいつも通りの、田所凛の朝の挨拶だった。
中島課長も「おはよう、木下さん」と言って、
書類に視線を戻した。
美咲の肩が、わずかに下がった。
麻衣も「おはよう」と言って、画面に向き直った。
それ以上は何も言わなかった。
言わなくていいと思った。
美咲が自分のデスクに座って、ログインした。
いつも通りの動作だった。
手が少し震えているのが、遠目にもわかった。
でも、動いていた。
始業のチャイムが鳴った。
田所が「木下さん、今日は私の隣で受付やって」と言った。
美咲が「はい」と答えた。
一から出直す、という意味でも、守る、という意味でもなく——
ただ今日の体制として、さりげなく隣に置く。
それが田所凛のやり方だった。
外来の受付が始まった。
窓口に、田所と美咲が並んで立った。
少し離れたデスクから、麻衣はその背中を見た。
『 よかった 』
それだけだった。
ただ、それだけで十分だった。
窓の外、夏の空が青く広がっていた。
入道雲がもくもくと湧き上がっている。
八月の病院は、今日も動いていた。
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