
【連続短編小説】医療事務・佐倉さんはほっておけない(#5『7月の窓口、ここが誰かの帰る場所』)
あらすじ
派遣職員として病院を渡り歩くこと3年。
主人公は佐倉麻衣、29歳。
転職活動の末にようやく手にした ” 病院の正規職員 ” という切符を胸に、2月の朝、地域に根ざした小さな急性期病院の門をくぐった。
医事課では、毎日色んな事が目まぐるしく起こる。
怒鳴り込む患者、現場との板挟み、人財育成に診療報酬改定の波。
窓口の向こうには、いつも誰かの人生がある。
ほっておけばいいのに、ほっておけない。
そんな佐倉さんの入職からの日常を描いた”普段は垣間見ることがない病院を下支えする”医療事務の成長を描いた奮闘記。
夏が始まる匂いがする 第5話…
#1『2月の入職…桜までに1人前』
#2『4月の新顔、ほっとけない理由』
#3『5月の日直、はじめての本音』
#4『6月の雨、ようやく見つけた答え』
七月になると、病院の空気が変わった。
梅雨が明けて、外来の自動ドアが開くたびに
夏の熱気が流れ込んでくる。
傘立てはいつの間にか片付けられ、
代わりに冷房の風が窓口のカーテンを
揺らしていた。
患者の服装も、厚手のコートから薄手のシャツへと変わっている。
季節が、確実に動いていた。
麻衣は会計データを確認しながら、ふと手を止めた。
『 村田さん、今月もまだ来ていない 』
六月も来なかった。
七月に入っても、窓口に村田さんの顔はない。
毎月必ず来ていた常連患者が、いつの間にか来なくなっていた。
気になった。
正直に言えば、心配だった。
でも調べることはできない。
患者の情報を業務外で確認することは、
許されていない。
ただ窓口に立って、次の患者を迎えるだけだ。
『 元気にしているといいけれど 』
思っても、どうにもならない。
それが窓口という場所の現実だった。
保険証を差し出す次の患者が近づいてくる
麻衣は気持ちを切り替えて、画面に向き直った。
「少々お待ちください」
窓口の外、夏の空が青く広がっていた。
それは、七月も半ばを過ぎたころだった。
午前の外来も残りわずかになったころ、
自動ドアが開いた。
麻衣は画面から顔を上げて、
次の患者を迎えようとした。
そして、手が止まった。
村田さんだった。
少し痩せていた。杖をついている。
歩く速さも、以前より少しゆっくりになっていた。
でも、その顔は穏やかだった。
両脇に、四十代とおぼしき男性と女性が寄り添っている。
息子と娘だろうか。
二人とも、村田さんの歩調に合わせて、ゆっくりと歩いていた。
「お久しぶりですね」
麻衣が声をかけると、村田さんが顔を上げた。
目が細くなった。
「ああ、佐倉さん。久しぶりだねえ」
名前を覚えていてくれた。
麻衣は少し驚いて
でもそれを表に出さないようにしながら、
「お体の具合はいかがですか」と聞いた。
「入院してたんですよ。二ヶ月ほど」
「そうでしたか。それは大変でしたね」
「もう退院しましたよ。ほら、子どもたちが付き添ってくれて」
村田さんが息子と娘に目をやった。
息子が「父がいつもお世話になっております」と頭を下げた。
娘も「退院してすぐに来たいって言って聞かなくて」と苦笑いしながら続けた。
「先生や看護師さんへの挨拶より先に、ここに来たんですよ、この人」
麻衣は思わず村田さんを見た。
村田さんが「まあね」と言って、少し照れたように視線を外した。
「書類の手続きもあるし、ついでに顔も見たかったし」
ついでに、という言葉が、妙に温かかった。
麻衣は保険証を受け取り、手続きを進めた。
退院後の手続きは、書類の種類が多い。
一つひとつ丁寧に確認しながら、必要な説明を加えていく。
息子が「これはどういう書類ですか」と聞くたびに、麻衣は噛み砕いて説明した。
娘が「わかりやすい説明ありがとうございます」と言った。
村田さんはその間、椅子に腰掛けて待っていた。
時折、窓口の麻衣を見ていた。
手続きが一段落して、麻衣が「以上でございます」と告げると
息子と娘が立ち上がった。
村田さんも、ゆっくりと立ち上がる。
「またここに来られてよかった」
村田さんがぽつりと言った。
麻衣が「またいつでもいらしてください」と
答えると村田さんが小さく頷いた。
「次は一人で来ますよ。まだそのくらいは歩けるから」
息子が「無理しないでよ」と苦笑いした。
娘が麻衣に向かって、深々と頭を下げた。
三人が連れ立って、自動ドアへと向かっていく。
村田さんの背中が、息子と娘に挟まれながら、
ゆっくりと遠ざかっていった。
麻衣はその背中が見えなくなるまで、
深々と頭を下げていた。
村田さん一家が自動ドアの向こうへ消えたあと、
麻衣はしばらく窓口に立ったまま動けなかった。
次の患者が来るまでの、ほんのわずかな時間。
『 退院してから、まずここに来た 』
娘の言葉が、頭の中で繰り返された。
先生でも看護師でもなく、医事課の窓口に。
保険証を受け取って、会計を案内して、
「お大事に」と頭を下げるだけの場所に。
なぜだろう、と思った。
しばらくして、田所が麻衣の隣に来た。
別の業務の書類を持ちながら、さりげなく言った。
「村田さん、退院したんだね」
「ご存知でしたか」
「毎月来てたから、気になってた」
田所が書類に視線を落としたまま続けた。
「元気そうだった?」
「はい。息子さんと娘さんと一緒に来られて」
「そう」
それだけだった。
田所はまた自分の業務に戻った。
でも麻衣は、田所も村田さんのことを気にしていたんだとわかった。
言葉にしないだけで、窓口に立つ人間はみんな、
患者のことをどこかで気にしている。
" そういうものなんだ、この仕事は "
昼休みが終わり、午後の外来が始まった。
麻衣は休憩室から戻りながら、
村田さんの顔を思い出していた。
少し痩せていた。でも目が穏やかだった。
杖をつきながらも、「次は一人で来ますよ」と
言っていた。
窓口に立ちながら
村田さんの言葉がまた蘇った。
手続きが終わったあと
帰り際にぽつりと言っていた一言。
「またここに来られてよかった」
あのとき麻衣は「またいつでもいらしてください」と答えるだけ
で精一杯だった。
でも今、窓口に立ちながら思い返すと、
その言葉の重さがじわじわと伝わってきた。
なぜ、まずここに来たかったのか。
窓口でしか言葉を交わしたことがない。
名前も、入院前まで知らなかった。
毎月、保険証を受け取って
画面を確認し「お大事に」と頭を下げる。
それだけの関係だった。
でも村田さんにとって
それだけの場所ではなかった。
退院してから真っ先に来たかった場所。
それがここだった。
どうして、だろう。
答えはわからなかった。
でもふと、あの梅雨の日に気づいたことが蘇った。
誰かにほっておかれた経験があるから、
ほっておけない。
そのほっておけない姿勢が、窓口での一つひとつの対応になっていた。
丁寧に、確認して、声をかけて、頭を下げる。
意識してやっていたわけじゃない。
ただ、体が覚えていることをやっていただけだ。
それが、村田さんの記憶に残っていた。
窓口は、" 医療の入口 " だ。
患者が病院に来て、最初に言葉を交わす場所。
そして退院して、また日常に戻っていく場所でも
あるのかもしれない。
この窓口に立っていて、よかった。
まだ言葉にはならなかった。
でも胸の中で、何かがゆっくりと
形になり始めていた。
患者が次々とやってくる。
保険証を受け取り、画面を確認し、
会計を案内する。
いつもと同じ午後だった。
でも今日は、一つひとつの動作が
少し違って見えた。
最初の患者は、三十代とおぼしき女性だった。
小さな子どもを連れている。
子どもが「ママ、いつ終わる?」と裾を引っ張っている。
女性が「もうすぐだから」となだめながら、
保険証を差し出した。
麻衣は素早く確認して、手続きを進めた。
「お子さん、おとなしく待っていてくれましたね」
思わず声をかけると、子どもが麻衣を見上げた。
女性が「ありがとうございます、助かります」と
少し表情を緩めた。
ほっとした顔だ。
病院に子どもを連れてくるのは、大変だ。
待ち時間も長い。子どもは飽きる。
それだけで、来るだけで疲れてしまう人もいる。
窓口での一言が、その疲れを少しだけ和らげることができるかもしれない。
次の患者は、五十代とおぼしき男性だった。
仕事の合間に来たのか、スーツ姿で少し急いでいる様子だった。
「手術の同意書、ここで出せますか」
「はい、承ります」
書類を受け取り、内容を確認する。
記入漏れが一箇所あった。
「こちらの欄、ご記入いただけますか」
「あ、すみません」
男性が慌ててペンを取る。
書きながら「手術、来週なんですよ」と
ぽつりと言った。
「そうでしたか」
「緊張してて、いろいろ確認漏れがあって」
麻衣は書類を受け取りながら、男性の顔を見た。
笑っているが、目が少し硬い。
「大丈夫ですよ。書類のことはこちらで確認しますので、安心していらしてください」
男性が「ありがとうございます」と言って、
少しだけ肩の力が抜けた気がした。
この一言が、誰かの緊張を少しだけほぐすことが
できる。
窓口でできることは、限られている。
病気を治せるわけではない。
手術はできない。
看護もできない。
診断もできない。
麻衣にできることは
保険証を受け取り、書類を確認し、会計を案内し、「お大事に」と頭を下げることだけだ。
でも…。
子どもを連れた女性のほっとした顔。
手術前の男性の、少し緩んだ肩。
そして今朝の村田さんの
「退院してから、まずここに来たかった」と
いう言葉。
窓口は、” 医療の入口であり、出口でもある "
患者が病院に来て、最初に言葉を交わす場所。
検査の結果を受け取りに来る場所。
退院して、また日常に戻っていく場所。
その入口と出口に、毎日立っている。
" それが、この仕事だ "
華やかではない。目立たない。
でも誰かが病院に来るたびに、必ずここを通る。
その場所に立つ人間が丁寧であることの意味を
今日の村田さんが教えてくれた気がした。
『 窓口の向こうには、いつも誰かの人生がある 』
言葉にしたのは初めてだった。
でもずっと、どこかで感じていたことだった。
次の患者が窓口に近づいてくる。
麻衣は顔を上げた。
保険証を受け取る手が、いつも通り動いた。
止まらない。迷わない。それでいい。
帰り道、麻衣はいつもより少し足取りが軽かった。
実家の玄関を開けると
台所から夕食の匂いがした。
エプロン姿の母が顔を出す。
「おかえり。今日は顔が明るいね」
「そう?」
鞄を置きながら、麻衣はふと思った。
今日のことを、誰かに話したい。
食卓についてしばらくしてから、
麻衣は箸を置いた。
「ねえ、お母さん」
「なに?」
「今日、いいことがあった」
母が「珍しい」と言って、お茶を注ぎながら向かいに座った。
麻衣は今日のことを話した。
「毎月来ていた常連の患者さんが、しばらく来なくなって。今日、息子さんと娘さんと一緒に退院後に来てくれてさ。『退院してから、まずここに来たかった』と言ってくれて」
母が黙って聞いていた。
「ただ保険証を受け取って、会計を案内して、お大事にって頭を下げるだけなんだけどね」
「それだけって言うけど」
母が湯呑みを両手で包みながら、
ゆっくりと言った。
「病院って、怖いじゃない。私だって、行くたびにどきどきするもの。そういうとき、窓口の人が丁寧にしてくれると、ほっとするのよ」
麻衣は黙って聞いた。
「あんたが丁寧にしてたから、その人は来てくれたんでしょ。それだけのことじゃないと思うけど」
麻衣は何も言えなかった。
母は「ご飯、冷めるよ」と言って立ち上がった。
それだけだった。深く掘り下げない。
でも必要なことだけを、ちゃんと言う。
母親というのは、こういうものかもしれない。
食事を終えて自分の部屋に戻りながら、麻衣はふと思った。
『 この仕事で、よかった 』
言葉にしたのは初めてだった。
胸の中に、静かな確信があった。
窓の外、夏の夜空に星がいくつか見えた。
随時執筆中です。
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