
【連続短編小説】医療事務・佐倉さんはほっておけない(#8『10月の確認、引けない理由(わけ)』)
あらすじ
派遣職員として病院を渡り歩くこと3年。
主人公は佐倉麻衣、29歳。
転職活動の末にようやく手にした ” 病院の正規職員 ” という切符を胸に、2月の朝、地域に根ざした小さな急性期病院の門をくぐった。
医事課では、毎日色んな事が目まぐるしく起こる。
怒鳴り込む患者、現場との板挟み、人財育成に診療報酬改定の波。
窓口の向こうには、いつも誰かの人生がある。
ほっておけばいいのに、ほっておけない。
そんな佐倉さんの入職からの日常を描いた”普段は垣間見ることがない病院を下支えする”医療事務の成長を描いた奮闘記。
#1『2月の入職…桜までに1人前』
#2『4月の新顔、ほっとけない理由』
#3『5月の日直、はじめての本音』
#4『6月の雨、ようやく見つけた答え』
#5『7月の窓口、ここが誰かの帰る場所』
#6『8月の夏、玄関で座り込んだ日のこと』
#7『9月の空、黙って隣にいること』
秋の空気が漂う…第8話…
十月になると、外来に秋の空気が入り込んできた。
夏の繁忙期が遠い記憶になり、
患者の数も落ち着いてきた。
窓口のカーテンが、冷たくなり始めた風に
揺れている。
待合の椅子に余裕が生まれて、スタッフの動きにも少しだけ余裕が戻っていた。
麻衣はデスクに向かって、
レセプトの点検を進めていた。
月初めのこの時期、
医事課では先月分のレセプトを確認する
作業が始まる。一件一件、診察内容と請求内容を
照合していく。
地味で細かい作業だった。
でもこの作業が、" 正しい請求を守る最後の砦 "
だと、麻衣は思っていた。
画面を一つひとつ確認していたとき、
ふと手が止まった。
桐島先生の担当患者の一件だった。
請求されている処置の内容が、
カルテの記録と一致していない。
カルテには記録されていない処置が、
請求データに入っていた。
入力ミスなのか、それとも別の理由があるのか——
判断できなかった。
でも、このまま通すわけにはいかない。
『 確認しないといけない 』
麻衣はデスクを立って、田所のところへ向かった。
田所に報告すると、田所はカルテと請求データを
確認して、静かに言った。
「桐島先生に確認が必要ね」
「私も、そう思います」
「一緒に行く」
田所が立ち上がった。
麻衣も資料を手に取って、後に続いた。
桐島先生の診察室をノックしたのは、
昼前の外来が一段落したころだった。
「失礼します。医事課の田所です。少しよろしいでしょうか」
「なんだ」
桐島先生が顔を上げた。
五十代、白衣をきちんと着こなした体格のいい
男性だ。
腕は確かだと聞いていた。
でも気難しいとも聞いていた。
その両方が、今の表情に出ていた。
田所が丁寧に状況を説明した。
先月の請求データとカルテの記録に齟齬がある。
確認させていただきたい。
桐島が眉を寄せた。
「それは私の判断でやったことだ」
「はい。ただ、カルテへの記録との間に差異がございまして」
「診察内容については、私が責任を持っている。事務の方に指摘されるようなことではないと思うが」
声のトーンは穏やかだった。
怒鳴っているわけではない。
でもその言葉の奥に、明確な線引きがあった。
" 医師の領域に踏み込むな " という意思表示だった。
田所が「おっしゃる通りです」と一度受け止めてから、続けた。
「ただ、このままですと患者さんへの請求金額に影響が出る可能性がございます。確認させていただくことは、患者さんのためでもあると考えております」
桐島が少し間を置いた。
「……今は診察の合間だ。改めてにしてくれ」
「承知しました。改めてお時間をいただけますか」
「後で連絡する」
それだけ言って、桐島は次のカルテに視線を
落とした。
田所と麻衣は診察室を出た。
廊下に出ると、麻衣は小さく息を吐いた。
「……取り合ってもらえませんでしたね」
「今日はここまで」
田所が静かに言った。
怒っていない。
焦ってもいない。
ただ、淡々としていた。
「でも引かないんですよね」
麻衣が聞くと、田所が少し麻衣を見た。
「引けない」
即答だった。
その一言が、廊下にすとんと落ちた。
麻衣は田所の横顔を見ながら、
背中に何かが通った気がした。
そうだ。" 引けない理由 " がある。
医事課に戻ると、美咲が「どうでしたか」と
声をかけてきた。
「今日は難しかった」
田所が簡潔に答えて、デスクに座った。
美咲が「そうですか」と言って、
自分の業務に戻った。
麻衣も席についたが、
画面を開く気になれなかった。
桐島先生の「診察内容については、
私が責任を持っている」
という言葉が、頭の中に残っていた。
『 やっぱり、引くべきだったのかな 』
医師と医事課では、立場が違う。
診察内容に口を出すのは、
越権行為に見えるかもしれない。
波風を立てずに、このまま通してしまった方が、
職場の空気は穏やかになる。
でも——。
麻衣はレセプトの画面を開いた。
該当の患者データを呼び出す。
カルテの記録と、請求データ。
その差異を改めて見た。
これが通ってしまったら、
患者さんが余分に払うことになる。
それだけのことだった。
それだけのことが、麻衣には引けない理由だった。
しばらくして、田所が麻衣のデスクの前に来た。
「もう一度、データを整理しよう」
「はい」
二人でカルテと請求データを並べて、
照合し直した。
差異がある箇所を一つひとつ確認して、
資料としてまとめていく。
田所の作業は正確で速かった。
麻衣は田所の手元を見ながら、
必要な書類を準備した。
「これだけの資料があれば、もう一度話せる」
田所が言った。
「桐島先生、聞いてくれますかね」
麻衣が聞くと、田所が少し間を置いた。
「わからない。でも、やるしかない」
麻衣は頷いた。
「中島課長にも報告しておく」
田所が立ち上がって、課長室へ向かった。
麻衣は手元の資料を見つめながら、思った。
田所が「引けない」と言った。
麻衣も引けないと思っている。
その理由は同じだ。
患者さんが正しく払えるように。
窓口の向こうにいる人を、ちゃんと見ていたい。
レセプトの数字の向こうにも、誰かの人生がある。
ほっておけない。
やっぱり、ほっておけない。
しばらくして田所が戻ってきた。
「課長の承認が取れた。明日、改めて桐島先生のところへ行く」
「わかりました」
麻衣は資料をまとめながら、明日のことを考えた。
うまくいくかどうかはわからない。
でも、やるしかない。それだけだった。
窓の外、十月の空に薄い雲が広がっていた。秋が、深まっていた。
翌朝、田所と麻衣は整理した資料を持って、
桐島先生の診察室へ向かった。
前日と同じように、外来の合間を見計らってノックした。
「失礼します。昨日お時間をいただけるとのことでしたので、改めてお伺いしました」
田所が丁寧に言うと、
桐島先生が「ああ」と言って手を止めた。
昨日より、表情が少し柔らかかった。
一晩あったことで、気持ちの整理がついたのかも
しれない。
「どうぞ」
田所と麻衣が中に入った。
麻衣が資料を桐島先生のデスクに置いた。
「昨日ご説明した件について、資料をまとめてまいりました。ご確認いただけますか」
桐島先生が資料に目を落とした。
カルテの記録と請求データを並べた一覧表だった。
差異がある箇所に、丁寧に印をつけてある。
しばらく、桐島先生が資料を見ていた。
田所も麻衣も、黙って待った。
「この処置なんだが」
桐島先生が口を開いた。
「実施はしている。ただカルテへの記載が漏れていた可能性がある」
田所が「そうでしたか」と静かに答えた。
「記載漏れであれば、カルテに追記していただくことは可能でしょうか。実施された処置を正確に記録していただければ、請求内容との整合性が取れます」
桐島が少し考えた。
「追記、か」
「はい。もし実施された処置であれば、正確に記録していただく方が、患者さんにとっても、先生にとっても、後々の確認がしやすくなります」
責めていない。
指摘しているわけでもない。
ただ、正確な記録という共通の目的に向かって話している。
麻衣はそう感じながら、田所の言葉を聞いていた。
「一つ聞いていいか」
桐島が田所を見た。
「なぜそこまでこだわるんだ。事務の仕事は、入力して請求するだけじゃないのか」
麻衣の胸が、少し跳ねた。
田所が答える前に、麻衣は口を開いていた。
「患者さんが正しく支払えるよう、確認させていただきたいんです」
桐島が麻衣を見た。
「私たちが確認しないと、患者さんが余分に払うことになるかもしれない。それはほっておけなくて」
言葉が、自然に出ていた。
" ほっておけない "
それだけだった。
桐島先生がしばらく麻衣を見ていた。
何かを考えているようだった。
「……そうか」
低い声だった。
責めているわけでも、認めているわけでもない。
でもその一言の奥に、何かが変わった気配があった。
桐島先生がカルテを開いた。
「確認する。少し時間をくれ」
「ありがとうございます」
田所が頭を下げた。
麻衣も続いて頭を下げた。
十分ほどして、桐島先生から内線が入った。
田所が取ると、短いやりとりのあとで
「わかりました」と答えて受話器を置いた。
「カルテの記載漏れが確認できたそうだ。追記してくださるって」
麻衣は思わず「よかった」と言って、
それから少し恥ずかしくなった。
田所が「よかったね」と言って、珍しく口元を緩めた。
しばらくして、桐島が医事課に顔を出した。
「追記した。確認してくれ」
田所が「ありがとうございます」と答えた。
桐島が帰り際、麻衣を見た。
「さっきの話、覚えておく。" 患者のために " …か」
それだけ言って、桐島は廊下へ出ていった。
麻衣は桐島の背中を見送りながら、
胸の中に静かな温かさを感じた。
強引に押したわけじゃない。
ただ、患者さんのためという同じ方向を向いて、
話した。
それだけで、通じた。
医師も、患者さんのために働いている。
当たり前のことだった。
でも今日、それを改めて感じた。
桐島先生が医事課を出ていったあと、
しばらく静かな時間が続いた。
美咲が「解決したんですか」と聞いてきた。
田所が「うん」とだけ答えた。
美咲が「よかったです」と言って、
また自分の業務に戻った。
麻衣はデスクに座って、
追記されたデータを確認した。
カルテへの追記が反映されて、
請求内容との整合性が取れていた。
これで、患者さんへの請求は正しくなる。
『 よかった 』
それだけだった。
派手な解決ではなかった。怒鳴り合いもなかった。
ただ、正しいことに向かって話し合って、通じた。
それだけのことだった。
田所が「お疲れ」と言った。
「田所さんが引けないと言ってくれたから、私も引けませんでした」
麻衣が言うと、田所が少し間を置いた。
「佐倉さんも引かなかった」
「でも最初は迷いました。波風を立てない方がいいかなって」
「迷っていい」
田所が静かに言った。
「迷いながらも引かなかった。それでいい」
麻衣は田所の言葉を聞きながら、
胸の中で何かがすとんと落ちた。
迷うことは弱さじゃない。
迷いながらも、引けない理由がある方を選んだ。
それが今日の自分だった。
窓口の向こうには、いつも誰かの人生がある。
それはレセプトの数字の向こうにも、
同じようにある。
医師も、看護師も、医事課も——
みんな、その人生を支えるために働いている。
立場は違っても、向いている方向は同じだ。
今日、桐島先生とぶつかりながら、
それを改めて感じた。
『 この仕事で、よかった 』
あの七月の朝と同じ言葉だった。
でも今日は、窓口の向こうだけじゃなく、
数字の向こうにも誰かの人生があると知った上で、そう思えた。
窓の外、十月の空に夕暮れが広がっていた。
秋の雲が、薄いオレンジに染まっていた。
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