
【連続短編小説】医療事務・佐倉さんはほっておけない(#10『12月の面談、見ていてくれた人がいた』)
あらすじ
派遣職員として病院を渡り歩くこと3年。
主人公は佐倉麻衣、29歳。
転職活動の末にようやく手にした ” 病院の正規職員 ” という切符を胸に、2月の朝、地域に根ざした小さな急性期病院の門をくぐった。
医事課では、毎日色んな事が目まぐるしく起こる。
怒鳴り込む患者、現場との板挟み、人財育成に診療報酬改定の波。
窓口の向こうには、いつも誰かの人生がある。
ほっておけばいいのに、ほっておけない。
そんな佐倉さんの入職からの日常を描いた
”普段は垣間見ることがない病院を下支えする”
医療事務の成長を描いた奮闘記。
#1『2月の入職…桜までに1人前』
#2『4月の新顔、ほっとけない理由』
#3『5月の日直、はじめての本音』
#4『6月の雨、ようやく見つけた答え』
#5『7月の窓口、ここが誰かの帰る場所』
#6『8月の夏、玄関で座り込んだ日のこと』
#7『9月の空、黙って隣にいること』
#8『10月の確認、引けない理由(わけ)』
#9『十一月の実習、伝えるということ』
冬そして新年へ向けての…第10話…
十二月に入ると、病院の空気が少し変わった。
外来の受付カウンターに
「年末年始の診療についてのご案内」という張り紙が出た。
窓口に来る患者が「今年もお世話になりました」と
言いながら帰っていく。
待合のテレビから、
年末の特番の音が流れてくる。
街はもうクリスマスの飾りで溢れているのに、
病院の中だけは、
いつもと変わらない日常が続いていた。
麻衣は会計データの確認を進めながら、
ふと窓の外を見た。
十二月の空が、低く灰色に広がっている。
「佐倉さん、もうすぐ一年ですね」
美咲が自分のデスクで次月のシフト表を
確認しながら、ぽつりと言った。
「そうだね」
麻衣は画面に視線を戻しながら答えた。
『 一年 』
あの二月の朝のことを思い出した。
ロータリーで白い息を吐いて、
コートのポケットに採用通知書を忍ばせて、
自動ドアの音にびくりとしていた自分。
あの朝から、もうすぐ一年が経つ。
「早かったですね」
美咲が続けた。
「早かったね」
麻衣が答えると、
美咲が「色々ありましたね」と笑った。
「色々あったね」
本当に、色々あった。
泣きそうになった夜も、
手が震えた朝も、
胸が熱くなった瞬間も。
一つひとつを思い返すと、
一年という時間が、思ったより重かった。
「来年も、よろしくお願いします」
美咲が頭を下げた。麻衣が「こちらこそ」と答えた。
その日の昼休み、田所が珍しく医事課に残っていた。
スタッフが次々と休憩に出ていく中、
田所だけがデスクに向かって書類を見ていた。
麻衣がお弁当を持って戻ってくると、
田所が顔を上げた。
「ちょっといい?」
「はい」
田所が書類を置いた。
麻衣は向かいの椅子に座った。
「来年から、少し役割が変わる」
麻衣は黙って聞いた。
「医事課長補佐を受けることにした」
「……そうですか」
それだけ言った。
驚いていないわけではなかった。
でも、なぜか腑に落ちる感じがあった。
あの九月の夜、田所が遠くを見ていた。
「私は窓口が好きなんだと思う」と言っていた。
麻衣が黙って隣に座っていた。
田所が「帰っていいよ」と言って、
麻衣が「もう少し」と答えた。
あの夜から、田所の中で何かが動いていた
のかもしれない。
「窓口、離れるのは嫌じゃないですか」
麻衣が聞くと、田所が少し間を置いた。
「嫌だよ」
正直な答えだった。
「でも、やってみる。やってみなければわからない」
田所が窓の外を見た。
十二月の空が、低く広がっていた。
「佐倉さんみたいな人がいるから、現場は大丈夫だと思って」
麻衣は何も言えなかった。
田所が「お弁当、冷めるよ」と言って、
自分のデスクに向き直った。
それだけだった。
深く掘り下げない。
必要なことだけを言って、あとは黙っている。
それが" 田所凛のやり方 " だった。
麻衣はお弁当を開けながら、
胸の中に温かいものを感じた。
田所が決断した。
窓口が好きだと言いながら、
それでも次のステージへ進むことを選んだ。
その決断の奥に、麻衣への信頼があった。
田所さんがいてくれたから、私はここにいる。
あの夜、田所に伝えた言葉が、
今度は別の形で返ってきた気がした。
業務終わりのことだった。
スタッフが帰り支度を始めたころ、
中島課長が医事課のドアを開けて顔を出した。
「佐倉さん、少しいいか」
麻衣は顔を上げた。
中島課長が課長室の方に目をやった。
「今、大丈夫?」
「はい」
麻衣は立ち上がって、
課長室へ向かった。
課長室のドアを開けると、
中島課長が「どうぞ」と言って椅子を示した。
麻衣は椅子に座った。
課長室に入るのは、入職の初日以来だった。
あのとき中島課長は「今日からよろしく」と言って、
田所を呼んでくれた。あれからもうすぐ一年が経つ。
「緊張しなくていいよ」
中島課長が穏やかに笑った。
「はい」
笑いながらも答えた麻衣の声が、少し上ずっていた。
中島課長が「じゃあ始めようか」と言って、
手元の書類に目を落とした。
麻衣は背筋を伸ばして、正面を向いた。
「佐倉さんが入職してから、もうすぐ一年になるね」
中島課長が書類を見ながら言った。
「はい」
「早かった?」
「早かったです。でも、長かったとも思います」
中島課長が「そうだね」と言って、顔を上げた。
「一年間、よく頑張ってくれた」
麻衣は黙って聞いた。
「窓口での患者対応、田所さんとの連携、木下さんへのフォロー。全部、見ていたよ」
" 全部、見ていた "
その言葉が、じわりと胸に広がった。
田所に指摘されて、
美咲に声をかけて、
桐島先生と向き合って。
誰かに見せるためにやっていたわけじゃなかった。
ただ、ほっておけなかっただけだ。
でもそれを、中島課長は見ていた。
「桐島先生の件も聞いたよ」
麻衣が少し緊張した。
「田所さんから報告があった。佐倉さんが患者さんのためにと、真っ直ぐに伝えたって」
「……出過ぎたことをしたかと思っていました」
「出過ぎてない」
中島課長が静かに言った。
「医事課の仕事は、正しい請求を守ることだ。それをきちんとやってくれた。それでいい」
田所の「それでいい」と同じ言葉だった。
でも中島課長の口から出ると
、また違う重さがあった。
麻衣は「ありがとうございます」と頭を下げた。
「それから、田所さんのことだけど」
中島課長が続けた。
「医事課長補佐を受けてくれることになった」
「はい、聞きました」
「田所さんが決断してくれたのはね」
中島課長が少し間を置いた。
「佐倉さんみたいな人が育ってきたからだと、私は思っている」
麻衣は言葉を失った。
「田所さんは自分では言わないけどね。でも私には、わかる。佐倉さんが入ってきて、田所さんが少し変わった。現場を任せられると思えたんじゃないかな」
麻衣はしばらく何も言えなかった。
田所が「佐倉さんみたいな人がいるから、現場は大丈夫だと思って」と言っていた。その言葉の奥に、こういう意味があったのか。田所は自分では言わなかった。でも中島課長には、伝わっていた。
「佐倉さん」
中島課長が麻衣を見た。
「来年は、新しいことに挑戦してほしい」
「新しいこと、ですか」
「今は言えないけど、来年の早いうちに話をしたいと思っている。心の準備だけしておいてほしい」
麻衣は「はい」と答えた。
心の準備、という言葉が頭の中で繰り返された。
何が来るのだろう。良いことなのか、それとも——。
「不安そうだね」
中島課長が穏やかに笑った。
「大丈夫。佐倉さんならできる」
それだけだった。
深く掘り下げない。
でも必要なことだけを、ちゃんと言う。
麻衣は「ありがとうございます」と頭を下げた。
「面談は以上だ。お疲れ様」
中島課長が立ち上がった。
「お疲れ様でした」
麻衣も立ち上がって、頭を下げた。
課長室を出ると、
廊下に冷たい空気が流れていた。
麻衣はドアを閉めてから、しばらくそこに立っていた。
" 全部、見ていてくれた人がいた "
田所が見ていた。
中島課長が見ていた。
美咲が見ていた。
村田さんが来てくれた。
桐島先生が「患者のために、か」と言った。
安枝さんが「そういう子なんだよね」と笑った。
窓口に立っていた一年間、
麻衣はずっと誰かをほっておけなかった。
でも同時に、誰かにほっておいてもらっていた。
『 ほっておけない性格で、よかった 』
今まで思ったことのなかった言葉が、
胸の中からすとんと出てきた。
麻衣は廊下を歩き出した。
廊下に出ると、田所が壁際に立っていた。
書類を持って、
画面を確認するふりをしていた。
でも麻衣には、わかった。待っていたのだ。
「どうだった」
田所が聞いた。
いつもの、短い言葉だった。
「色々と」
麻衣が答えると、田所が「そうか」と言った。
それ以上は聞かなかった。
二人で並んで、廊下を歩き出した。
更衣室へ向かう廊下は、
業務終わりの静けさに包まれていた。
他のスタッフはもう帰っている。
二人分の足音だけが、廊下に響いていた。
麻衣は歩きながら、思った。
田所が待っていてくれた。
聞くつもりはなかったのかもしれない。
でも、廊下にいてくれた。
それだけで、十分だった。
「田所さん」
麻衣が歩きながら言った。
「うん」
「来年も、よろしくお願いします」
田所が少し間を置いた。
「こちらこそ」
それだけだった。田所が前を向いたまま、静かに答えた。
麻衣は前を向いて、歩き続けた。
更衣室の前で、二人は別れた。
田所が「お疲れ」と言って、先に入っていった。
麻衣はドアの前で少し立ち止まった。
廊下の窓の外、十二月の夜空に星がいくつか見えた。
冷たい空気の中で、街灯がぼんやりと輝いている。
来月には、この病院に来て一年になる。
中島課長が「心の準備だけしておいてほしい」と
言っていた。
何が来るのかはわからない。でも、怖くはなかった。
『 怖くないよ。一緒にやろう 』
美咲が向井さんに言った言葉が、
ふと頭に浮かんだ。
あの言葉は、今の自分にも言えるかもしれない。
麻衣は更衣室のドアを開けた。
十二月の夜が、病院のロータリーを静かに包んでいた。
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