
Pluto-教授と、彼の恋人と、私。①
①星が見えない
東京では、星が見えない。
少なくとも、私のベランダからは。
夜になると見えるのは、向かいのマンションの明かりと、コンビニの看板、それから運がよければ飛行機の点滅くらいだ。
それでも私は、毎晩ベランダへ出る。
手すりにもたれて、三十秒だけ空を見上げる。
習慣というより、癖に近い。
星を探しているわけではない。
今日も空を見た。
それだけで、一日が終わる。
部屋へ戻る。
バッグを床に置く。
スマホをテーブルへ放る。
ジャケットだけ脱いで、ソファへ倒れ込む。
しばらく動けない。
教師という仕事は、思っているより体力を使う。
授業をして、生徒の話を聞いて、保護者へ返信をして、会議で頷いて、明日の授業を考えながら帰る。
家に着く頃には、私は教師ではなく、ただの電池切れだ。
冷蔵庫を開ける。
ほとんど空っぽ。
豆腐だけはある。
あれは食材じゃない。
「今日はもう頑張れません」
という日のためのお守りみたいなものだ。
豆腐のパッケージをあけ、電子レンジで1分加熱。それ以上だと爆発するので、気を付ける。仕上がったら醤油をかけて食べる。
薬味を刻む元気はない。
テレビはつけない。
静かな部屋で、豆腐を食べる。私の神聖な儀式だ。
その音だけが、小さく響く。
このマンションは、離婚するときに元夫が譲ってくれた。
彼はインテリアデザイナーだった。
ペンキで塗られた白い壁も。
グレーがかった木の床も。
水色で揃えられた北欧のおしゃれな家具も。
全部、彼が選んだ。
初めて来る人は決まって言う。
「素敵なお部屋ですね。」
私は笑って答える。
「元夫の趣味なんです。」
すると相手は少し困った顔をする。
その顔を見るのが、少しだけ好きだった。
十年近く暮らしても、この部屋にはまだ彼の気配がして重い。
ソファに座るたび、
「ちゃんとクッションを戻して!」
と、もうここにはいない彼に言われる気がする。
まあ、でも、いっか。
引っ越す元気も、時間も、お金もない。これでいい。
シャワーを浴びてベッドに入ると、私はいつものように星の運行表を開く。
もう何十年も続いている習慣だ。
きっかけは、高校時代の友人だった。
星を読むのが好きな子で、「今日は月がね」「今は木星がね」と楽しそうに話す姿を見ているうちに、私まで空を見るようになった。
占いを信じているわけではない。
明日の運勢を気にしているわけでもない。
でも、「この世界で起こることは、全部星の動きで説明できる。」
そんな途方もない考え方は、少し好きだった。
画面を指でなぞる。
今日は月がここ。
木星はここ。
火星は──。
そして、冥王星。
私は昔から冥王星が好きだった。
惑星じゃなくなってしまった星。
そう言われることが多いけれど、私はその言い方が好きじゃない。
冥王星は、何も変わっていない。
変わったのは、人間がつけた名前だけだ。
それなのに、急に仲間ではなくなったことにされてしまった。
なんだか理不尽だ。
だから私は、冥王星を見るたびに少しだけ応援したくなる。
「私はちゃんと知ってるよ。」
そんな気持ちになる。
もちろん、冥王星に聞こえるはずなんてない。
でも、星を見るというのは、案外そういうことなのかもしれない。
スマホを閉じようとしたとき、一通のメールが届いていることに気づいた。
件名は短かった。
「全教員対象 生成AI研修のお知らせ」
私はしばらく画面を見つめた。
また、研修か。
小さく息をついてスマホを伏せた。
ベッドサイドの窓の向こうには、今日も星は見えなかった。
はじめに https://note.com/pluto369/n/nd9a991f49352
1 https://note.com/pluto369/n/n70ff91570b14
2 https://note.com/pluto369/n/na487963d6b1b
3 https://note.com/pluto369/n/n7fc35833181c