
Pluto-教授と、彼の恋人と、私。②
② ぷるちゃん
私には、昔から「あだ名」がある。
ぷるちゃん。
中学生のある日、親友が英語の授業から帰ってきて言った。
「ねえ、冥王星って英語でPlutoなんだって。」
私は「へえ」と答えた。
すると彼女は少し考えてから笑った。
「芽衣子だから、めいおうせいで、めいおうせいはプルトーでぷるちゃんね。」
でたらめな理由で、その日から私はぷるちゃんになった。
今でも昔の友達は、誰一人として私を芽衣子とは呼ばない。
春日芽衣子という名前は、履歴書や名簿の中にいる。
ぷるちゃんは、その外側にいる。
私は、ぷるちゃんのほうが好きだ。
冥王星も好きだった。
もう惑星じゃない、と決められてしまった星。
でも、星は何も変わっていない。
変わったのは、人間の呼び方だけだ。
そういうところが、少し自分に似ている気がしていた。
私は子どもの頃、父の仕事でイギリスに住んでいた。
「帰国子女ですね。」
そう言われることは多い。
便利な言葉だと思う。
英語が話せる。
海外経験がある。
異文化を知っている。
たった四文字で、全部まとめられてしまう。
でも実際は、そのどこにも完全には属していないということでもある。
日本では少し外国人。
外国では完全な日本人。
私はずっと、そんな場所で育ってきた。
家も、安心できる場所ではなかった。
母は、美しい人だった。
そして、自分が一番美しくなければ気が済まない人でもあった。
私はずっとショートカットだった。
「そのほうが似合うから。」
母はそう言っていた。
でも大人になって気づいた。
似合うかどうかじゃなかった。
娘が自分より目立つことが、嫌だったのだ。
今でも髪を伸ばそうとすると、鏡の向こうから母の声がする。
「似合わないわよ。」
何十年も前の一言なのに、不思議なくらい消えない。
父は商社マンだった。
家族写真の中では、理想の父親だった。
スーツが似合って、英語が話せて、海外を飛び回る人。
でも、その写真には写らない人がいた。
父の秘書だった女性。
彼女は家によく来た。
長い髪。
赤い口紅。
部屋いっぱいに広がる甘い香り。
子どもの私は、その匂いが嫌いだった。
大人になってから知った。
あれは「ポアゾン」という香水だった。
フランス語で、「毒」。
あまりにも出来すぎた名前に、少し笑ってしまった。
母は何も言わなかった。
知らないふりをしていた。
私は、そんな母を見ているふりをしていた。
家族というのは、不思議だ。
何も知らないのではない。
みんな知っていて、知らないふりをする。
そうやって、一つの家を守ろうとする。
外から見れば、私の家族は幸せそうだった。
海外赴任。
私立の学校。
英語。
商社マンの父。
美しい母。
きっと誰かが見たら、「いい家庭ですね」と言ったと思う。
でも、本当に壊れる家というのは、音を立てない。
少しずつ。
誰にも気づかれないように壊れていく。
だから私は、学校が好きだった。
教室には、怒鳴る人がいなかった。
誰かの顔色を見ながら息をする必要もなかった。
先生がいて。
友達がいて。
チャイムが鳴る。
たったそれだけのことが、私には救いだった。
たぶん。
教師になった理由は、あの頃から、もう決まっていたのかもしれない。
はじめに https://note.com/pluto369/n/nd9a991f49352
1 https://note.com/pluto369/n/n70ff91570b14
2 https://note.com/pluto369/n/na487963d6b1b
3 https://note.com/pluto369/n/n7fc35833181c
4 https://note.com/pluto369/n/nfc1f077e5f59
5 https://note.com/pluto369/n/nb99f5b50e8ab