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䞭野矎代子 『西遊蚘の秘密 タオず煉䞹術のシンボリズム』  楜しく果おしない「孊問」

    幎間読曞人

    曞評䞭野矎代子『西遊蚘の秘密 タオず煉䞹術のシンボリズム』犏歊文庫・岩波珟代文庫ほか

    䞭囜文孊者・䞭野矎代子は、私の倧奜きな䜜家だ。
    翻蚳曞や共著を陀くず、40冊にも及ぶ著䜜を持぀䜜家だが、たぶん私は、そのすべおを所蔵しおいる。しかしながら、そのうちで読んだものは、ごく限られおいる。
    䞀䞀ずいう話は、䞭野の小説集『契䞹䌝奇集』に぀いおのレビュヌで、2幎匱前にも曞いおいる。

    『䞭野矎代子の著䜜は、翻蚳曞や共著を陀くず40冊ほどになるが、たぶん、私はそのすべおを所蔵しおいる。䞀䞀所蔵しおいるのだが、読んだものはごく䞀郚だった。
    昔の読曞ノヌトによるず、前蚘『カニバリズム論』の他に『孫悟空の誕生』『南半球綺想曲』『耀倉』『䞭囜人の思考様匏 - 小説の䞖界から』の冊だけ。これに今回の『契䞹䌝奇集』を加えおも、わずか冊他に、匟子の歊田雅哉ずの共線曞『䞭囜怪談集』も読んではいる。
    昔読んだ冊の䞭で、はっきりず印象に残っおいるのは、最初の『カニバリズム論』ず、久生十蘭のパスティヌシュ長線小説『南半球綺想曲』だった。本文庫『契䞹䌝奇集』所収の『耀倉』は、初版の響文瀟の単行本叀本で読んでいるのだが、内容をほずんど蚘憶しおいなかった。圓時の私にはあたり楜しめなかったずいうこずであろう。』

    さお、そんなわけで、今回は『孫悟空の誕生』に続く、『西遊蚘』研究の冊目にあたる本曞を読むこずになった。

    䞊にも蚘したずおり、『孫悟空の誕生』は、さほど楜しめなかったずいうよりは、内容がたったく蚘憶に残っおいない。読曞ノヌトを぀けおいたから読んだずいうのは、確認しおわかったが、でなければ、読んだかどうかすら蚘憶に残らなかっただろう。

    ちなみに、『西遊蚘の誕生』を読んだのは、平成元幎1989幎の月で、元号が倉わった盎埌。すでに30幎以䞊前のこずで、私も二十代埌半で若かった。
    だが、だからこそ、圓時は楜しめなかったものでも、今なら楜しめるのではないかずいう自信が少なからずある。なにしろ、圓時ず今ずでは、教逊が違うのだ。

    圓時の私が、この私の文章を読めば腹を立おるのかも知れないが、私も䌊達に、あれから30幎以䞊生きおきたわけではないので、圓時の私が、今の私ず互角に枡り合うこずなど、所詮、無理な話なのである。「たあ、今埌も、しっかりず本を読みたたえよ」おなもんである。

    ただたあ、本曞を楜しみにしおいたのは、䜕も私に教逊が぀いたずいうだけが理由ではない。
    本曞『西遊蚘の秘密』のサブタむトルは「タオず煉䞹術のシンボリズム」で、もずもず私の奜きな「オカルティズム」や「䞭華幻想」を扱った䜜品であり、しかも30数幎前ずは違っお今の私は、柁柀韍圊的な「趣味のオカルティズム」に興味があるだけではなく、その埌に、キリスト教を䞭心ずした「宗教」を、関連曞でかなり孊んだので、「文孊趣味」的な偎面だけではなく、「人間孊」的な偎面においおも、本曞を楜しむこずができるはずだず、そう考えたのだ。

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    西欧においおキリスト教が広く信じられ、日本では仏教や神道が広く信じられたのず同様、䞭囜では仏教ず同時に「道教」が庶民の生掻に深く溶け蟌んで、倧きな圱響を今も残しおいる。

    そうした点で、『西遊蚘』に秘められた、「タオ道」を䞭心的抂念ずした「道教」、そしおそこに含たれる長呜術ずしお始たった「錬䞹術」の錬金術的神秘思想の圱響を読み解こうずする本曞は、ある意味では、人間に普遍的な「神秘指向」や「アナロゞヌ思考」を剔抉するものずしお、『西遊蚘』や「䞭囜文孊」ずいった話に限定されない、人間孊的な深みを持った研究曞なのである。
    単に「䞭囜人は、倉なこずを考えるなあ」ずいっお楜しむだけではなく、しかし、そこには私たちが今なお持っおいる「根源的発想」が、圢匏を倉えたかたちで衚れおいるのだ。

    だから、「道教」であれ「錬䞹術」であれ、それ自䜓ずしおは、私を含む倚くの日本人には銎染みのないものだが、だからこそ興味深いのず同時に、しかし、その「粟神誌」的なものたで読み蟌むならば、それは、「キリスト教」や「キリスト教神秘䞻矩」や、あるいは「仏教」や「神道」ずその「密教」的なものにたで通じおいき、それらに秘められた「人間的な本質」を探るこずも可胜なのである。

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    本曞で探求されるのは、『西遊蚘』に秘められた「道教」のシンボリズムずいったこずであり、それは「今の日本の倧孊」では「圹に立たない金儲けにならない孊問」ずしお退けられがちなものなのしれないが、しかしながら、䞀芋「無駄」ず思える「文化研究」を通しお、その奥にある、人間の「普遍性」を探るずいう意味では、実のずころ本曞は「孊問らしい孊問」の粟華であり、今どき珍しい「莅沢な孊問」だず蚀えよう。だから、これを楜したない手はないのである。

     ○ ○ ○

    それにしおも、本曞を読んで、たず「面癜い」ず感じたのは、䞭野矎代子の「人柄」である。

    じ぀のずころ、私はこれたで、䞭野矎代子ずいう人が、よく分かっおいなった。
    前蚘『契䞹䌝奇集』のレビュヌに、

    『高山宏が、本文庫『契䞹䌝奇集』に収められた、本曞単行本刊行時に寄せた曞評「『契䞹䌝奇集』をめぐっお 奇譚を口実にポップ・マニ゚リスム」で『ポスト柁柀韍圊の䞀番手ず目されおいる䞭囜文化史家、䞭野矎代子氏』ず曞いおいるずおりで、私は、倧奜きな柁柀韍圊呚蟺の文孊者ずしお䞭野矎代子に泚目し、その著䜜を片っ端から蒐めだしたのだった。』

    ず曞いたように、私にずっおの䞭野矎代子は、たず「柁柀韍圊呚蟺の人」ずいう認識だったのだが、ある時、䞭野が、ゞャヌナリスト「本倚勝䞀」に関する研究曞『本倚勝䞀を解説する』晩声瀟 1992幎の、線者代衚を務めおいるずいう「意倖な事実」を知った。

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    「本倚勝䞀」のこずを知っおいる人なら、この人が「柁柀韍圊」ずはおよそ瞁遠い䞖界の䜏人だずいうのを、容易にご理解いただけよう。

    『1963幎の朝日新聞連茉『カナダ・゚スキモヌ』が泚目を集め、぀づいお1964幎には『ニュヌギニア高地人』を連茉、反響を呌んだ。本倚はベトナム戊争の取材に取り組みたかったが、䞀連の連茉が奜評を博したため、1965幎には『アラビア遊牧民』を連茉。これらのルポルタヌゞュは「極限の民族」䞉郚䜜ずされ、文化人類孊にむンパクトを䞎えた。1964幎に菊池寛賞を受賞。
    1967幎にはベトナム戊争が苛烈を極める南ベトナムを1幎にわたっお珟地取材、翌1968幎には北ベトナムを取材し、ルポルタヌゞュを連茉。1968幎に第11回JCJ賞および第22回毎日出版文化賞を受賞、1969幎にボヌン・䞊田蚘念囜際蚘者賞を受賞。
    1969幎にはアメリカ合州囜を半幎にわたっお取材。
    日䞭囜亀正垞化前の1971幎には䞭囜における戊争䞭の日本軍の行動を䞭囜偎の芖点から掘り起こした『䞭囜の旅』を連茉。本曞は南京事件論争の倧きなきっかけずなった。
    1982幎には『日本語の䜜文技術』を発刊し、自身最倧のベストセラヌずなる。
    朝日新聞線集委員を長らく務め、1991幎に定幎退職。
    『朝日ゞャヌナル』の最終号ずなった1992幎5月29日号の連茉コラム「貧困なる粟神」においお有志による日刊新聞の発行構想を発衚した。
    『噂の真盞』1993幎2月号のむンタビュヌで日刊玙に先行しお週刊誌の創刊を予定しおいるこずを公衚。1993幎7月から4号発行された月刊金曜日の線集委員ずなり、「創刊の蚀葉」の原案を起草。1993幎11月の週刊金曜日発刊埌も線集委員を務める。1994幎5月から1997幎3月たで線集長を務めた。』

    Wikipedia「本倚勝䞀」

    ぀たり、激動の70幎代、朝日新聞蚘者ずしお、䞖界の「珟堎」に赎いお、生々しいルポルタヌゞュを曞いお評刀ずなり、それたでは䞀般に知られなかった「南京倧虐殺」の問題を「被害者である䞭囜の偎殺される偎」の芖点から初めお日本に玹介し、今に続く論争をたき起こしお、巊翌リベラルのスタヌず呌んで良い存圚ずなった人である。

    したがっお、「サド裁刀」で、囜家に楯突いたこずもある反䜓制掟ではあれ、「䞖事」や「政治」ずは䞀線を画した柁柀韍圊ずはほずんど亀わるこずのない、「䞖俗瀟䌚の政治問題」の䞖界で掻躍したのが本倚勝䞀なのだが、そんな本倚を、䞭囜文孊の研究者であり「柁柀韍圊呚蟺の人物」で、芁は「ブッキッシュ曞物的」な䞖界に生きおいる人だず、私がそう思い蟌んでいた䞭野が、ほずんど「畑違い」ずいう印象のある本倚勝䞀に぀いおの、肯定的な評論集の「線者代衚」だず知った時には、流石にこれは「同名異人」だろうずさえ疑ったほどだったのである。

    ずころが、本曞を読んでみるず、䞭野が「本倚勝䞀」を支持するずいうのは、「十分あり埗る」こずだずいうのがわかった。
    どういうずころかずいうず、䞭野矎代子ずいう人は、䞀蚀でいうず「男前な性栌」の女性なのである喩えお蚀えば、むメヌゞずしお、女優の倩海祐垌みたいな人だず蚀えば、わかりやすいだろうか。
    ぀たり、良いこずは良い、ダメなこずはダメだず、キッパリず蚀い切っお臆するずころのない、さっぱりした性栌の人なのである。だからこそ、基本的には「反暩嚁」であり「反䜓制」掟だ。

    それに、先日読んだ、柁柀韍圊の評䌝『韍圊芪王航海蚘』磯厎玔䞀によるず、䞭野は柁柀に盎接䌚ったこずがないそうだ。
    柁柀の方が䞭野の著䜜『カニバリズム論』を評䟡した立堎なのだから、䞭野にその気があれば、柁柀ず「お近づきになる」こずは、容易だったはずだ。だが、そういう「有名人の取り巻き」的な䞖俗的関係を必芁ずしなかったのが、䞭野矎代子ずいう人なのであろう。本曞を読めば、䞭野矎代子ずいう人の「孊問愛」がひしひしず䌝わっおきお、柁柀の「文孊的ディレッタンティズム」ずは、質的に違うものが感じられるはずである。

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    そしおそんな「孊者」であるからこそ、誠実な研究に察しおは、誰よりも「敬意」を忘れない人なのだが、その䞀方で䞭野は、違うものは違うず蚀い切っおそれを実行し、やはり、孊者瀟䌚の序列的なものに劥協しお銎れ合うような人ではなかった。

    䟋えば、次のような、幟぀もの箇所匕甚箇所に、䞭野のそうした性栌が、ずおもよく衚れおいるはずである。※ なお、原文傍点郚分はゎシックで衚蚘し、ルビはあずカッコで蚘した。ペヌゞ数は、犏歊文庫のものである

    『断っおおくが、『西遊蚘』の䞻人公たちを五行や八半、さらには錬䞹術の第䞀質料プリマ・マテリアなどにあおはめるのは、もちろん、こじ぀けである。ずはいえ、くりかえし匷調しおいるように、こじ぀けにも䞀貫した論理が必芁である。』P147

    「こじ぀け」に傍点が付されおいるように、䞭野にずっおは『五行や八半、さらには錬䞹術』ずいったものは、「信じるもの」でも「真に受けるもの」ものでもなく、「倚くの人庶民が信じたもの」ずしおの「事実」であった、ずいうこずだ。だから、肝心なのは「圌らの信じたこずを信じる」のではなく「圌らはどのように信じたのか」ずいう事実を探るこずなのである。
    圌らが信じたこずは「非合理」の「非珟実」ではあったけれども、圌ら自身は、それを無理にでも「合理的な珟実法則」を語るものずしお信じおいたのであり、そこに「人間ずいうものの䞍思議」があるからである。

    『 䞭囜の叀兞に登堎する聖数ずしおは36ず72がもっずも頻床が高いであろう。そこで、近幎はこれらの数字に぀いお論じる孊者も少しず぀あらわれおきた䞭略。しかし、その議論は、事䟋を列挙し、それぞれが実際の数であるか抂数であるかを文献的にたしかめお終わるにずどたっお、数字そのものの神秘性やその論理には立ち入らないのがふ぀うである。せっかくのおいしい玠材をたずく調理するのは、䞭囜孊䞀般に共通する傟向であるが、数字に぀いおも同断であるこず、嘆いおおいおよいのであろう。』P198〜199

    孊問が「厳密」でなければならないずいうのは、圓然の話である。しかし「厳密」であるこずず「しか぀めらしい」こずは、決しお同じではない。
    「厳密」なればこそ、深く「楜しめる」ずいうこずがあるし、逆に、真面目そうな顔で、ルヌチンを退屈にこなしおいるだけの研究者ずいうのも少なくない。

    そしお、「孊問」の䞖界では、時に「䞭身の真面目さ」よりも「芋かけ䞊の真面目さ」が重芖されたりする。「退屈な事実の矅列だから、真面目な研究だ」などず評䟡されおしたうこずが、案倖少なくない特に「象牙の塔」の時代は。
    なぜそうなるのかずいえば、そうした「䞭身質」を問わない、「芋掛け圢匏」の方が、誰にでも評䟡が容易だからであるし、物事の本質を問わない分、䞊の人には「扱いやすい」からである。

    䟋えば、ミステリヌ小説でもSF小説でもいいが、䜜品䞭のトリックやアむデアに぀いお「これは、前䟋のあるトリックアむデアだ」ずいう指摘なら、「オタク」にだっおできる。
    しかし「この䜜品におけるこの䜜者における、このアむデアの必然性ずは䜕か」ずいった本質的な問いは、知識が豊富なだけの「オタク」的な孊者には䞍可胜だ、ずいうのず同じこずであり、たた、暩嚁に盲埓せず「本質を問う」者は、䜓制偎には危険な存圚なのだ。

    『ここでもたた、実圚する北斗ず南斗からのアナロゞヌで、東斗・西斗・䞭斗をでっちあげる芳念的操䜜が芋られ、それは、錬䞹術におけるあの隠秘䞻矩オカルティズムの根底をなす粟神であった。このこずは、道教に぀いお述べる倚くの曞物が看過しおいるので、ここで改めお匷調しおおきたい。』P212〜213

    ここで語られおいるこずは、キリスト教で蚀うならば、「䞉䜍䞀䜓論」ず同じこずだず蚀えるだろう。
    ぀たり「もっずもらしい䜓裁」を敎えるために、埌付けで、いろんな抂念を「でっちあげ」おいるだけなのだが、衚面的なずころで魅惑されおいる人には、「でっちあげの非事実」でさえ「深い神秘」だず感じられおしたうずいうこずだ。

    そしお、そのこずは、䜕も䞭囜人やキリスト教埒に限られる話ではない。
    倚くの日本人もたた同様に、「原始人」的なのである。

    『䜍業ずは、いわばピラルヒヌのこずであるから、この『䜍業図』を読めば、道教神の䜓系がすっきりわかるかずいえば、そうはいかない。たた、いたの堎合、道教神すべおに぀いおそんなにくわしく知る必芁もないし、興味もない。たあ、このあたりは専門家にたかせおおこう。』P234

    『䜍業図』には、道教神のピラルヒヌが、わかりやすく衚珟されおいる。しかし、だからそれで『すっきりわかるかずいえば、そうはいかない。』。
    なぜなら、「道教神」ずいうのは、そもそも実圚しない「フィクション」だからで、人によっお、いろいろな䜍眮付け配列がなされおおり、そのピラルヒヌに「正解」など、もずから存圚しないためである。

    したがっお、そんなものをいくら深く研究しおも、「道教神のピラルヒヌ」に関しおは、決しお「正解」は埗られない。埗られるのは「人間っお、存圚しないものに、ここたで執着できる、䞍思議な生き物なのだなあ」ずいう、事実の重さである。

    しかしたた、そうした研究も、それはそれで孊問的には意味がある。「䞍毛な事実」を培底的に研究するからこそ、その「䞍毛さ」の重さを深く感じずるこずもできる。
    けれどもたた、「䞍毛さの研究」ずいうのは、よほど奜きな人にしかできないものだずいうのも、蚀うたでもない事実なのだ。

    『※ 『雲笈䞃籀』にはやたらに最高神ばかり出おきたが、どれがいったい本圓の「最高神」なのかずいうず、䟝然ずしおわからないのである。そこで、珟代の台湟ず銙枯における実際の道教儀瀌や、今䞖玀はじめの枅末から民囜初にかけおの「倩地䞉界十八仏諞神」絵図などでながめたほうが、おっずりばやいであろう。』P235

    『最高神ばかり出お』くるのは、そもそも「神」が実圚しないから「どうずでも衚珟できる」ずいうこずに他ならないのだが、だからこそ、いくら文献に圓たっおも、「どの説が、䞀般的なものなのか」は分かりにくいので、実際に今も庶民の䞭に残っおいる儀瀌を確認した方がよほど分かりやすい、ずいう話である。

    『 ※ 『西遊蚘』の䜜䞭に登堎するこの皮の道士たちの詮玢は、倧しおおもしろいものではないが、小説のなかのかれらのピラルヒヌを厳密に远求しおいけば、『西遊蚘』の成立に最終的にあずかった人物の道教における立堎に぀いおのヒントが埗られるかもしれない。しかし、私の手にはあたるので攟棄した。』P242

    『西遊蚘』䜜䞭の道士たちのピラルヒヌを詳しく分析するこずで、「道教」に぀いおどのような考え方の持ち䞻が、『西遊蚘』に決定的な圢匏を䞎えたのかが掚枬できるはずだずいう話だが、いうたでもなく「道士」や「道教」の研究は、それ自䜓、生涯を賭けおも完党な解読の䞍可胜なものなのだから、『西遊蚘』の研究ずいう本来の目的に立おば、いくら面癜そうでも、脇道をそこたで深く探究しおいる暇はない、ずいうこずだ。

    そしおここで倧切なのは、䞭野矎代子が繰り返し「自分の知らないこずは知らない」ず明蚘しおいる点である。
    ずいうのも、二流の孊者にかぎっお「呚蟺諞孊にも通じおいたすよ」みたいな顔をしたがるからであり、たたそうしたこずに、ころりず隙されおしたう「玠人読者」が少なくない、ずいう事実があるからである。

    䟋えば、私がいた読み始めたばかりの、カトリック神孊者カヌル・ラヌナヌの著曞『キリスト教ずは䜕か 珟代カトリック神孊基瀎論』邊蚳・1981幎で、ラヌナヌは「必芁だから、あるいは、知っおおくべきだからずいっお、そうした呚蟺孊問たで収めるこずは、ひずりの人間には䞍可胜だ。キリスト教神孊ずいう孊問䞀぀をずっおみおも、今やそれは倚岐にわたっおおり、そのすべおを知っおいる神孊者など、䞀人もいない。だから、すべおを知る必芁などはないけれども、少なくずも、その知りうるずころに誠実であるこずにおいお、その探究は、決しお無意味ではない」ずいう趣旚のこずを、開巻早々わざわざ断っおいる。
    こういうこずは、ラヌナヌほどの節実な神孊者だからこそ蚀えるのであっお、䞖俗向けの著曞だけは倚い、知ったかぶり日本の神孊者などには、爪の垢を飲たせたいほどの「謙虚さ」であり、本物の「確信」だず蚀えるだろう。

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    同様に、䞭野矎代子も、「知らないこずは知らない」ず包み隠さずに蚀えるほど、自分にできる粟䞀杯の努力をしおいる、ずいうこずである。
    人䞊み以䞊の地道な研究の裏付けがあっおこそ「私はただただ無知だ」ず平気で蚀えるのであり、たた「孊問を楜しんでみせる自信も持おる」のである。

    『挔劇の定矩はいろいろあろうが、なにはずもあれ、玄束された空間わけおも玄束された虚構の空間すなわち舞台が、物理的にも心理的にも確立なりなければ、挔劇は成りたたない。たずえば、芳客は実生掻の堎の延長である芳客垭にいるが、すぐ目の前の舞台を、珟実から隔離された玄束された空間であり、その舞台の䞊で展開される時間の流れや事件も、珟実ずは別個の、ある玄束ごずに支配されたりされたものであるこずを認識しなければ、挔劇は成りたたなくなる。劇䞭の殺人犯を、芳客のなかの刑事が舞台にのがっおいっお逮捕するのはこっけいであるこず論を埅たないが、しかし、囜家暩力はしばしば、このような玄束ごずの原理、ないし虚構の原理を螏みにじる。
     䞭囜人がこのような虚構の原理にきわめお冷淡であったこず、私はすでにいく床か指摘した。䟋ずしおあげたのは、ペヌロッパ人のナヌトピアに察する桃源境、物語における自己完結性の欠劂、絵画における額瞁の意味などであったが、挔劇の発生が異垞におそかったこずもたた、有力な䟋ずしおあげるこずができるであろう。぀たり、䞭囜の物語や小説の本質を考えるためには、䞭囜挔劇史の空癜の郚分が、思玢䞊のおもしろい材料ずなるわけである。』P279

    『劇䞭の殺人犯を、芳客のなかの刑事が舞台にのがっおいっお逮捕するのはこっけいであるこず論を埅たないが、しかし、囜家暩力はしばしば、このような玄束ごずの原理、ないし虚構の原理を螏みにじる。』䞀䞀ずいう郚分に、容易に、䞭野矎代子の反䜓制的な意気を感じるこずができよう。

    ただ、『䞭囜人がこのような虚構の原理にきわめお冷淡であった』云々の郚分は、私個人の「特性」ずも関わっおくるので、この点に぀いおは、埌で別に論じたいず思う。

    『なお、䜙談であるが、䞭囜人のなかにも、※䞭囜の孊䌚においお通説ずなっおいた呉承恩䜜者説に匷く反察する孊者もいる。『西遊蚘釈矩』を曞いた台湟の陳敊甫で、かれはこれを邱凊機の䜜ずするこずをに固執するあたり、呉承恩説を吊定するのであるが、邱凊機の䜜であるずいう誀った倧前提を陀けば、呉承恩説ぞの批刀の筆法はなかなかに正鵠を射おいる郚分もある。ただし、逆に、邱凊機説をずなえる論法は、呉承恩説をずなえる孊者たちの論法ず、なんら逕庭もない。にもかかわらず、私が陳敊甫の邱凊機説を䞀笑に付するこずをあえおしないのは、䞖の呉承恩説信奉者たちの、みずからの誀れるを前提には少しも懐疑的にならぬたた、他の誀れる前提を笑うこずの愚に、倚少の皮肉たじりの埮笑を送りたいからである。ミむラずりは、い぀でもミむラになりうるが、みずからもその蜍を螏たぬように、陳敊甫氏を顕揚しおおくこず、決しおわるいこずではあるたい。』P302

    䟋えば、私は先日、ミステリ䜜家でカトリック信者である枅涌院流氎の著曞『どろどろのキリスト教』のレビュヌで、正統掟カトリックが、グノヌシス掟の「神解釈」を「異端」の説だずしお吊定するのは、所詮『目糞錻糞の類い』だず、わかりやすく断じおおいた。
    ここで䞭野矎代子が語っおいるのは、それずたったく同じこずなのである。

    『はっきり蚀っおしたえば、「父なる神むェホバ」ずか「神の子む゚ス」ずか「埩掻」ずか「神の囜」ずか蚀っおいる段階で、「キリスト教」ずは「宗教」ずいう名の「珟実逃避のためのフィクション」にすぎないし、そもそもが「実態のないフィクション」なのに、その䞭※ それを前提ずしお信じる者の内郚で「こちらは真実であり、あちらは間違いだ」などず蚀っおいるのは、実のない「目糞錻糞を笑う」の類いでしかないのである。』

    『 本曞のあちこちに曞き散らしたこずだが、䞀芋いかにも荒唐無皜、でたらめだらけであるかのごずき小説『西遊蚘』は、じ぀は、䞖界を解釈しようずいうメタフィゞックな欲求にずり぀かれた人びずがでっちあげた、壮倧なるテクストなのであった。しかし、そのテクストは、タオず錬䞹術のシンボリズムず隠語クリプトロゞヌに満ち満ちた、すこぶる硬掟な、そしお䞀方、すこぶる軟掟なものであるらしいのだが、本曞が解読できた郚分は、そのほんの䞀郚にすぎない。
     思えば、私の『西遊蚘』ぞの接近は、文孊アカデミズムの領域の倖であっお、子䟛ず同じような奜奇心から出発したずいえるであろう。なぜサルが飛行するのか、しかもなぜ、ひずッ飛び十䞇八千里なのか䞀䞀などずいった子䟛の玠朎な疑問を積み重ねおいくず、疑問そのものが、この小説のでっちあげにあずかった人びずの、䞖界解釈の欲求に䌌おいる。』P340

    『䞖界を解釈しようずいうメタフィゞックな欲求にずり぀かれ』るずは、どういうこずか。

    それは「意味のないずころに、無理矢理にでも、深い意味を芋出したいずいう欲望に、ずり憑かれるこず」である。
    䟋えば、墓堎で「幜霊」を芋た、ず思った。確認しおみるず「枯れ尟花」であるこずがわかった。しかし、『䞖界を解釈しようずいうメタフィゞックな欲求にずり぀かれた人びず』ずいうのは、枯れ尟花を幜霊ず芋間違えおしたうこず自䜓に「意味」を芋出そうずしおしたう。
    䟋えば「枯れ尟花は、霊的な憑代ずなる特性を持った怍物であり、それは䞭囜叀兞のこれこれにも曞かれおいるずおりであっお、決しお、芋間違いで枈たされるような、単玔な話ではない。そうではなく、人間の盎芳が、枯れ尟花に隠された、䞖界の神秘の䞀端を明かしおいるず、そう考えるべきなのだ」ずいった具合である。

    こんな圌らには「む゚スが、死埌䞉日目に埩掻した、なんおあり埗ない話だろう。それは神話だよ」ずいう説明は、決しお通甚しない。なぜなら、そんな「無味也燥な䞖界」には堪えられないず、圌らはそう感じおいるからである。

    10『 それにしおも、本曞の末尟が「おずなしい斉倩倧聖」になったずは、我ながらおどろいおいる。前著『䞭囜の劖怪』が、「囜家のなかの劖怪」をもっお「むすび」ずしたずきも、思わぬ方向ぞず、しかも、必然的に筆が走っおいくのにおどろいたが、孫悟空ずおも劖怪である以䞊、囜家暩力ずの関係においお、芏範的な存圚でなければならぬ道理だ。しおみれば、自分でおどろくほうがおかしいのであり、私は、い぀なんどきでも、「囜家のなかの孫悟空」を芋すえる肝っ玉だけは、もっおいなければならないであろう。』P341

    このあたりは、䞭野の「反䜓制」䜓質が、分かりやすく出おいる郚分であろう。

    『孫悟空ずおも劖怪である以䞊、囜家暩力ずの関係においお、芏範的な存圚でなければならぬ道理だ。』ずは、どういう意味かずいうず、芁は、「劖怪」ずいうのは、囜家暩力によっお懐柔され利甚される存圚でもある、ずいうこずだ䟋えば、方䜍を叞る、青韍・朱雀・癜虎・玄歊の「四聖獣」なども、その䞀皮。

    ぀たり、倩界に登っお暎れたわる、おそれを知らぬ狌藉者の孫悟空ずいうのは、共産䞻矩革呜の時代の䞭囜では、ヒヌロヌずしお、囜家的にも持ち䞊げられた。ずころが、囜家が安定しおくるず、「反䜓制掟ずしおの孫悟空」は「おずなしい斉倩倧聖」になっおしたう。

    画像
    1960幎䜜品・東映の劇堎甚アニメ『西遊蚘』

    だから、孫悟空や『西遊蚘』を考える堎合にも、単玔に「庶民」の䞭のそれずしおだけではなく、「暩力」によっお䜜られるそれずしお考えるこずをも忘れおはならない、ずいうこずだ。

    11『 本曞もたた、倚くの先孊のすぐれた業瞟なしには成皿はおが぀かなかった。わけおも、わが倪田蟰倫先生の膚倧なご業瞟は、䞀刻も早く䞀本にたずめ、䞖界䞭の埌孊が容易に参看できるようになるのを切望しおいたずころ、本幎六月、『西遊蚘の研究』ず題しお、研文出版より刊行されたのは、たこずに喜ばしいこずである。ただし、この『西遊蚘の研究』は、先生既発衚の二十数篇の関係論文こずごずくを収めた論文集ではなく、䞻芁論文を増補し敎理したかたちになっおいる。そのこずに぀いおの私芋の䞀郚は、曞評ずいうかたちで、東方曞店刊『東方』十月号に執筆した。本曞成皿埌の刊行であるので、倪田先生が『西遊蚘の研究』においお、新たに展開された刺激的な孊説を本曞が吞収できなかったこずは残念である。しかし、ずもあれ、倪田先生のご業瞟が、たたたた本曞に先立っおたずめられたこず、だれよりもうれしく思っおいる。
     オヌストラリア囜立倧孊名誉教授柳存仁博士のご業瞟も、本曞でかなり利甚させおいただいた。䞀九六五幎から六䞃幎たで同倧孊に勀務しおいた私は、孊郚はちがったけれども柳博士のご指導を受け、たた博士が䞻任教授であった䞭囜孊科での授業も担圓させおいただいた。垰囜にあたっお、たた垰囜埌に頂戎したご著曞は、本曞で総動員したかたちであり、最近も貎重な資料を拝借するなど、枝わらぬご指導を仰いでいる。
     英囜の碩孊、ゞョセフ・ニヌダム博士の気の遠くなるような倧著『䞭囜の科孊ず文明』もたた、本曞では欠くこずのできない参考文献であった。ずくに、邊蚳の出おいない第五巻五分冊は、䞭囜錬䞹術に぀いおの空前絶埌の著䜜であり、読みはじめたらやめられないずいう、気のあせる執筆に没頭しおいる身にずっおは、たこずに困った曞物であった。
     倪田蟰倫先生、柳存仁博士、そしお、ゞョセフ・ニヌダム博士、この偉倧なる䞉先孊に心から畏敬ず感謝の念を捧げたいず思う。』P342〜343

    芋おのずおり、「儀瀌的圢匏」を超えた「謝蟞」であるこずは、䞀目瞭然であろう。

    これは、䞭野矎代子自身が、「孊問」を心から愛しおいるからであり、このあたりが、「文孊的趣味人ディレッタント」であり、それゆえに、「野暮になる」からず「元ネタ」をわざず明蚘しなかった柁柀韍圊ずの、䜓質の違いだず蚀えるだろう。どちらが「正しい」ずいう話ではなく、「趣味の違いが、衚珟の違いずしお衚れおいる」ずいうこずである。

     ○ ○ ○

    さお、では最埌に、先送りしおいた、の郚分の問題を論じおみたい。

    『䞭囜人がこのような虚構の原理にきわめお冷淡であったこず、私はすでにいく床か指摘した。䟋ずしおあげたのは、ペヌロッパ人のナヌトピアに察する桃源境、物語における自己完結性の欠劂、絵画における額瞁の意味などであったが、挔劇の発生が異垞におそかったこずもたた、有力な䟋ずしおあげるこずができるであろう。』

    これは、どういうこずを語っおいるのだろうか

    芁は、西欧の堎合は、「珟実ず虚構」がキッパリず切り分けられおおり、それぞれに「自己完結」しおいるのだが、䞭囜の堎合には、その䞡者が「メビりスの茪」のごずきかたちで、䞍思議に連続しおいる、ずいうこずである。

    䟋えば、キリスト教の倩囜や地獄は、この䞖ずは別のずころにあっお、歩いおいけるような堎所ではない。
    ずころが、䞭囜における「桃源郷」ずいうのは、日垞生掻からの延長䞊にある「山の䞭」「海の圌方」のどこかに存圚しおいる、ず考えられおいる。「壺䞭倩」なんおものも、日垞生掻の䞭にある壺ず「別倩地」が隣接しおいる感芚を衚珟したものだず蚀えるだろう。
    そしお、こうした「䞭囜的な連続性」の感芚は、日本にも流れ蟌んできおおり、それが「山䞭の異界」ずか「竜宮城」ずか「補陀萜」ずかいったものになっおいるのである。

    画像
    桃源郷の図

    で、私などもやはり、この「連続性」のリアリズムを持っおいお、「異界」は、この珟実ず切れたずころにあるずは「感じお」いない。だからこそ、「異界探蚪」ものの小説やマンガを奜むのであろう。

    たた、私が「トリックスタヌ」を自称するのも、同じ感芚からだ。
    「トリックスタヌ」は「珟実ず虚構を埀還する存圚」であり、事実私は、

    『「ネトりペ」ばかりではなく「巊翌」ずお同じこずで、倚数掟であるこずにあぐらをかいお「信念」を振り回すばかりの者が少なくなかったから、私はやがお、この論争を「小説仕立お」の「メタ・論争」圢匏にしおいったのだ。぀たり、「論争をやっおいる私」ず「その論争を読んで、批評する私」の「二重化」を、その論争の䞭で行なっお、芁は、議論にならない盞手を、ひずたずめにしお揶揄いはじめたのである。』

    では、このように「異界」を「身近に感じ」たがる切り離したがらない私が、どうしお、キリスト教や仏教の語る「倩囜や地獄」あるいは「極楜浄土」ずいったものをたったく信じず、むしろきわめお批刀的なのかずいうず、それはこれらのものが、『自己完結』的に「この䞖の珟実」から切り離されお考えられおいる、からではないかず思う。

    ぀たり、私は「この䞖のリアリズム」に立脚しお「そんなもん、あり埗ない。あるずいうのなら、ここで芋せおくれ、觊らせおくれ」ずいう「連続性」の感芚を匷く持っおいるからなのであろう。
    蚀い換えれば、私にずっおは「この䞖珟実」ず「異界」ずは「連続的」なものであり、それぞれに『自己完結』しお「切り離された、別々のもの」ではない、ずいうこずなのだ。

    だから私は「本圓にあるずいうのなら、ここで芋せおくれ」ず芁求するのだが、宗教信者にずっおは「それずこれずは、別次元の話」だから、そんなこずは䞍可胜だ、で枈たせおしたうのである。キリスト教的に蚀えば、

    『「神の囜は、芋える圢では来ない。 『ここにある』『あそこにある』ず蚀えるものでもない。実に、神の囜はあなたがたの間にあるのだ。」 』

    「ルカのよる犏音曞」17:21

    ずいうような、「絶劙か぀、すり替え的」でもある話になるのであろう。
    芁は、それは「この䞖」からは「自己完結的に独立した存圚」であるから「具䜓的珟䞖的には瀺せない」ものだずいう、蚀い分だ。

    だが、私は、こういう「それはそれ、これはこれ」ずいう「区別」など認められない実感を持おないから、「瀺せないものが存圚するなんおいうのは誀魔化しであり、それは、信じるに足る具䜓的な根拠がない、ずいうこずだ。信じるに足る根拠があるずいうのなら、ここで瀺しお芋せろよ」ず芁求しお、「それはここでは瀺せないけれども別にある」ず信じおいる人たちを困らせるのである。

    このように考えおいくず、『自己完結性』の匷いキリスト教ずいうのは、きわめお「抜象的芳念的」なものであり、だからこそ「孊問」も生たれおくれば、「挔劇」も発達したのかもしれない。
    「それはそれ、これはこれ」ず割り切っお考えられるから、それらを「珟実そのもの生掻」ず切れたずころで、独立的な䟡倀ずしお重んじられるのである。

    ずころが、「䞭囜的・日本的な発想」である「連続性」においおは、それらは「生掻実甚性」ず぀ながっおおり、「玔粋な抜象芳念」ずいうものに、どこか䞍信感を持っおいるず蚀えるのではないだろうかこの感芚は、寺山修叞的ず蚀えるかもしれない。
    「いくらご高邁な理屈を語ったずころで、あなただっお矎女の前ではデレデレするんでしょ」みたいなリアリズムが、私たちにある。「マッチ擊る぀かのた海に霧ふかし身捚぀るほどの祖囜はありや」

    画像
    寺山修叞は、珟実ず虚構の垣根をゆるがせた

    そしおこれは、単に䞭囜や日本の話には止たらず、庶民ずは切れた「特暩階玚のリアリズム」が感じられなくなった珟代においおは、キリスト教圏ず蚀えども、「自己完結的な芳念」に、心底リアリティを感じるこずが出来なくなっおきおおり、その意味で、䌝統的なキリスト教が廃れる䞀方、感芚的で熱狂的な「ペンテコステ掟」が䞖界的に勢力を䌞ばしおいる、ずいったこずなのではないだろうか。

     ○ ○ ○

    そんなわけで、私は、単玔な「自己完結的な芳念䞻矩」を認めないし、その䞀方「自堕萜な感芚的連続䞻矩」も認めない。
    それらは、『孫悟空』がそうであったように、時代の䞭で「でっちあげられおいく」ものでしかなく、私たちは垞に「それは、䜕によっお生み出されたものなのか」ずいう問いを発し続けなければならないのではないだろうか。

    そうした意味でも、「孊問」ずは、必ず「果おしのないもの」であり、だからこそ「楜しい」ずも蚀えるのだから、安易な「結論」になど、貧乏くさく飛び぀きうべきではないのである。

    ずもあれ本曞は、そんな具合に、じっくりず味わうべき、「莅沢な䞀曞」なのだず蚀えよう。

    画像
    1967幎䜜品・テレビアニメ『悟空の倧冒険』より


    2023幎6月23日

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