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ゞャン・コクトヌ 『コクトヌ詩集』  『僕』を 圌岞ぞ

    曞評堀口倧孞蚳『コクトヌ詩集』新朮文庫

     私の耳は貝の殻
     海の響きをな぀かしむ

     P25

    ゞャン・コクトヌの詩ずいうず、真っ先にこの「耳」を挙げる人が倚いようだ。
    たしかに、これなら「詩オンチ」の私でも、玠盎に「いいなあ」ず思える。

    だが、詩オンチな私の感じた、この「いいなあ」ずは、果たしお、正しい鑑賞による「正しい感受」なのであろうか

    「詩を楜しむのに、正しいも間違いもない。良いず思えば、それは正しく鑑賞したっおこずなんだよ」ずいうご意芋もあろう。私もそれが間違いだずは思わないのだが、しかし、ではその反察に「぀たらないなあ」「党然わからないなあ」ず感じた時、それは「䜜品」が䞍出来だから、぀たらなかったり、理解䞍胜だったりするのだず、その「責め」を、党面的に「䜜品」や「䜜者」に抌し぀けお良いものなのだろうか

    こう問えば、やはり倚くの人は「それは行きすぎでしょう。読者の読解力、鑑賞力が足りないせいで、䜜品の魅力がわからないずいうのは、圓たり前にあるこずです」ずおっしゃるのではないだろうか。

    しかし、だずすれば、コクトヌの名䜜「耳」を「いいなあ」ず感じた、その鑑賞は、果たしお「正しい鑑賞」だず蚀えるのだろうか。もしかするず、「奜意的な誀読」ずいうこずもありうるのではないだろうか。

    こずに、コクトヌのほかの詩の倚くに぀いお「むマむチだ」ずか「よくわからない」ずいった堎合、その人は「耳」だけを正しく鑑賞しおいたずいうこずになるのだろうか。それずも、「耳」を「奜意的な誀読」をしおいただけなのだろうか。あるいは、「耳」が飛び抜けお「よくできた䜜品」だったずいう話なのだろうか。

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    このあたりの刀断が぀きかねるので、私は、コクトヌの詩が「理解できない」ず思うのだ。「これはいい」「わかった」ず思う䜜品であっおも、その理解が「正しい」ずいう自信が持おないのである。
    それにもたしお、「詩」䜜品の倚くに぀いお、このあたりの刀断が぀かないから、私は、自身を「詩オンチ」なのだろうず考えるのだ。

    蚀い換えれば、「小説」や「゚ッセむ」や「論文」ずいった散文䜜品に぀いおは、こうした「面癜いが、私はわかっおいないのではないか」あるいは「぀たらないが、私がわかっおいないだけなのではないか」ずいう疑問が、ほずんど起こらない。それらに぀いおは「぀たらないのは、これこれの理由があるからだ」ず、説明が぀くからである。
    ぀たり「䜜品に、これこれの欠点があるから」ずか「読者である私に、これこれの匱点があるから」だず、そうした説明ができるのである。

    ずころが、詩䜜品の倚くに぀いおは、これができない。だから、私は自身を「詩オンチ」に違いないず思うのである。

    今回読んだ、堀口倧孞蚳の『コクトヌ詩集』新朮文庫には、次のような、コクトヌによる「序」文が付されおいる。

    『   序

     詩人が自分のチャンスを詊めす皮類の詩がある、他の堎合、圌はチャンスを延長しおいるに過ぎない。チャンスの詩は由来皀だ。これは霊媒の口から现胞原圢質゚クトプラズムが流れだすように詩人の手先から流れだす。詩人は片目で眠りながら降䞋を管制する。

     深所の石像、曌陀矅華はこうしお生れる。たた醜悪だったりするこの皮の詩を集めたり、カットしたり、補匷したりする仕事は、ずかく埒劎に終り易い。理由は読者ずいうものが再認識を愛するからであり、新しい認識は読者を疲劎させるからである、読者が或る詩の新味を玩味しおくれる堎合は極めお皀だ。』

    私は、この「序」文の意味であれば、完党に理解できるずいう自信がある。芁は、事実がどうあれ、コクトヌが䜕を蚀いたかったのかを、正しく理解できたずいう自信が持おる、ずいうこずだ。

    詊しに、その意味するずころを、わかりやすく解説すれば、次のようになる。

    「 詩人には、自分の詩人ずしおの独自性を瀺す類いの詩を皀に曞けるこずがあっお、それ以倖の堎合は、圌詩人は、そのチャンスを先送りにしながら、無難に詩䜜しおいるに過ぎない。滅倚に曞けない自分独自の詩ずいうのは、昔から皀なものであり、蚀い換えれば、倧半の䜜品は凡庞でしかありえない。そうした意味で、自身の独自性を発揮した皀なる詩ずいうのは、霊媒の口から゚クトプラズムが流れ出るようにしお、詩人の手先から自然に流れ出す類いのもので、詩人は半芚醒の䞭でその詩を曞きながらも、しかし半分は理性によっお、その生み出され぀぀ある詩を統埡する。その意味で、独自性のある詩ずいうのは、神がかりの䞭で偶然に生み出されるような類いのものずいうわけでもない。

     滅倚に手にするこずのできない詩䜜品ずいうのは、このようにしお生れる。それは、かなり倚くの堎合に読者に醜悪な印象さえ䞎えるもので、この皮の新しい蚀葉を拟い集めたり、カットしたり、補匷したりする掚敲䜜業は、ずかく埒劎に終わるこずが倚い。なぜなら、読者ずいうものは、知っおいるもの、芋銎れたものを喜ぶもので、新しいもの、未知のものに接するずいうのは、それらがスッず自分の䞭に入っおこないものだから、それを呑み䞋すのに苊劎を匷いられ、疲れさせられるからだ。したがっお、読者が、ある詩䜜品の新味を深く味わっおくれる堎合は、極めお皀なのだ。」

    䞀䞀だずすればだ、倚くの人が「コクトヌの代衚䜜」のようにしお愛する「耳」は、果たしお「新味が無いから理解しやすい、玠人読者向きの凡䜜」なのだろうか
    コクトヌ自身は、この「耳」を、他人がいうほど良くできた䜜品だずは思っおいなかったのだろうか。䞀䞀それずも、読者の倧半が、この䜜品に蟌められた「新味」に気づかないたた、衚面的な郚分だけを芋お、『再確認』の快楜に耜っおしたっおいるだけなのか。぀たり、この䜜品を「誀読」しおいるのだろうか。

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    今の日本のご時䞖であれば「詩は、どう読んでもいいんだよ」ずいう、「物分かりの良い正論」で終わっおしたうのだろうが、しかし、そのような、䜜品「鑑賞」行為に぀いおの甘やかしが、今の日本の読者の「幌皚化」を促進しおいる、ひず぀の芁因だずは蚀えたいか。

    人間だれしも、自身の「胜力䞍足」やその「限界」に盎面するのは、぀らいものだ。いくら頑匵っおも、才胜がなければ、優れたアスリヌトや音楜家にはなれない。
    それは、文孊における「創䜜」は無論、「鑑賞」においおすら同じで、ある䜜品を鑑賞しお「面癜かった・面癜くなかった」「感動した・感動しなかった」ずいうような「鑑賞」しかできない読者ず、その䜜品の「衚珟したもの」を正確か぀詳现に語るこずのできる優れた「文芞評論家」ずでは、明らかに「鑑賞胜力」に差があるず蚀えるだろう。

    したがっお、「䜜家」には胜力的優劣はあっおも、「読者」には優劣はない、などずいう「気䌑めの甘やかし」は、事実関係からしお、本来は通甚しない。
    ぀たり、「面癜くなかった」「感動しなかった」のは、必ずしも「䜜品」や「䜜者」のせいではなく、単に「読者」の偎の「読解無胜力」のせいである堎合が少なくないず考えるべきなのだ。

    だが、こうした「぀らい珟実認識」は、必ずしも、その「読者」にずっおの、マむナス芁因ではない。
    なぜなら、自身の「匱点」を自芚するこずは、誀った自信自信過剰による倱敗を回避させる「知恵」にもなるからである。
    「己を知り敵を知れば、癟戊危うからず」ずは、そうしたこずを指しおいう蚀葉なのだ。

    無論、「匱点」を自芚したなら、そこを補匷する努力は必芁であろう。しかし、匱点を自芚しお、その点に぀いおどんなに努力したずころで、才胜がなければ、優れたアスリヌトや音楜家にはなれないのず同様、文孊鑑賞においおも、努力しおも、もずもず理解力のある人には及ばないずいう珟実は、厳然ずしおある、ず考えるべきだろう。

    ならば、私たち読者は、いたずらに「わからないこずの存圚」を嘆くのではなく、「わからないこずを知っおいる」こずに満足しお、未緎がたしい自己過信による誀ちを犯さない賢明さを持぀べきではないだろうか。そうしお、限定された範囲においおさえ、人にできるこずは無限にあるのだ。

    䟋えば、私は、長らく「詩オンチ」であるずの自芚においお、コクトヌの詩に接するこずをしなかった。どうせわからないだろうず思っおきたのだ。
    だが、先日、コクトヌの映画をいく぀か芳る機䌚があったので、そちらからコクトヌにアプロヌチするこずなら可胜ではないかず考えた。「詩」は十党に理解できなくおも、「映画」ならなんずかなるかも知れないず考えたのである。

    そしお、これは半ば目論芋どおりに成功したず思う。

    私は、コクトヌの映画を通しお、コクトヌずいう䜜家を「ふにゃふにゃした肉質をそぎ萜ずしお軜快になった貝殻のように、癜く硬質なものを垌求する䜜家でありながら、しかし、その反面、圌の䞭には、その反察物である、重く暗い肉質を求める郚分があったのではないか。぀たり、圌の愛人であるゞャン・マレヌに象城されるようなものに惹かれる、床し難いホモセクシャルな欲望である」ずいった具合に「理解」し埗たのだ。

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    コクトヌの映画『矎女ず野獣』のゞャン・マレヌ

    そしお、今回、コクトヌの詩集を読んでみようず思ったのは、「映画」で、ある皋床の圓たりを぀けた分、党然わからないずいうこずもないのではないか、ず考えたからである。䞀䞀で、その刀断は間違っおいなかった。

    しかしたた、だからずいっお、コクトヌの詩が「楜しめた」ずいうこずではない。そうではなく、「わからない」が、「わかりはした」に倉わったのだ。
    わかりはしたが、楜しめたわけではない。わかりはしたが、十党に鑑賞できたわかったわけではない、ずいうこずだが、この「わかる」ずいうこずの違いが、おわかりいただけるだろうか 芁は、「知解」はできたが「感受」しきれなかった、ずいうほどの意味である。

    ずもあれ、「知解」のレベルにおいおは、コクトヌずいう「人」を理解するこずはできた。

    私は、先のレビュヌで、

    『コクトヌは、自身が「硬質な軜さ」を求める人間であるこずを承知しながら、しかしその䞀方で、『オルフェ』に描かれたような「冥界」に惹かれ、『矎女ず野獣』で描かれた「毛むくじゃらの野獣」にも惹かれおいたはずだ。぀たり、「癜」ではなく、「黒」にも惹かれた。』

    ず曞いたのだけれど、果たせるかな、この『コクトヌ詩集』では、「黒奎くろんが」ずいう蚀葉を、䜕床も目にするこずになる。

    「黒奎くろんが」ずいう蚀葉は、今の日本語では「差別語」的な扱いを受けおいお、䜿いづらい蚀葉になっおいるが、これを「黒人」などず蚀い換えるこずはできないだろう。なぜなら、コクトヌがフランス語の「黒人」に圓たる蚀葉を䜿った際に、その蚀葉にはたぶん、黒人を癜人より䞋に芋る「気分」が倚少なりずも含たれおいたはずだからだ。

    だから、堀口倧孞が「黒奎くろんが」ず蚳した、この日本語にも、若干の蔑芖的なニュアンスが含たれおいたずしおも、それはむしろ、正確な翻蚳だずいうこずになるだろう。コクトヌの原文が持っおいた、そうしたニュアンスを「脱色」しお、無難な日本語にしおしたったならば、それこそ改倉的翻蚳になっおしたうからである。

    しかし、私はここで、コクトヌの「黒人」に察する蔑芖を、批刀したいのではない。

    そうではなく、コクトヌは「黒人」を、「癜人のような矎しさ」には欠けるものだず思いながらも、それに惹かれおいる自身を自芚しおいた、ずいう点が重芁なのだ。

    ぀たり、「癜人・黒人」ずいう意味ではなく、もっず原理的な意味での「癜ず黒」。「癜が象城するもの」ず「黒が象城するもの」ずいうレベルにおいお、コクトヌは「癜が象城するものを垌求しながらも、どうしようもなく黒が象城するものに惹かれおいた」ずいう事実が、コクトヌずいう人の、耇雑な本質を理解する䞊で重芁なのである。

    『   攟 列

    倪陜よ、僕は君を厇る、
    野蛮人のように、海岞に腹ばっお。

    倪陜よ、君は自分の䞉色版クロモに、
    自分の果物籠に、自分の動物たちに、光沢぀やを぀ける。

    僕の肉䜓を鞣しおくれ、塩挬にしおくれ、
    僕の倧きな苊悩を远い出しおくれ。

    歯の光るあの黒奎くろんがは、
    倖偎は黒く、内偎ばら色だ。

    僕は内偎が黒く、倖偎がばら色だ、
    逆にしおくれ。

    僕の䜓臭を、肌いろに倉えおくれ、
    ヒダシンスを君が花に倉えた流儀で。

    蝉の束の朚のおっぺんで怒鳎らせ、
    僕にパン窯の匂いを぀けおくれ。

    正午たひる、倜で䞀ぱいな立朚は
    倕暮、倜をあたりにこがす。

    倪陜よ、アダムずむブの蟒蛇うわばみよ、
    僕に自分の悪倢をこがさせおくれ。

    僕を少しは慣らしおくれ、
    可愛そうな友人ゞャンが殺されおしたったこずに。

    富籀くじよ、賞品を陳列しろ、
    花瓶だの、球だの、庖䞁だの。

    お前は自分のがらくたを、
    野獣の䞊に、西むンド諞島アンチヌナの䞊におっぎろげる。

    圓地では、最䞊等の品物を出しおくれ、
    僕らの県が悪くなっおは困るから。

    倧口女の芋䞖物小屋、びろうどず
    鏡ずアルペゞオ造りの曲銬通。

    黄金車駆る藪医者奎、
    荒療治、僕の悩みを抜いおくれ。

    ああ、暑い 正午だからさ。
    自分でももう蚀う事の意味が解らぬ。

    倪陜よ 月々の動物園よ、
    僕の圱はすでに僕の呚囲にないぞ、

    倪陜よ、バファロヌ・ビルよ、バヌノムよ、
    阿片以䞊にお前は酔わせる。

    お前は道化だ、闘牛士だ、
    お前の時蚈の鎖は金だ。

    お前は、赀道を、圌岞を盞手に
    拳闘する青い黒奎くろんがだ。

    倪陜よ、僕はお前のパンチを怺える、
    僕の銖ぞのお前の匷打。

    そのくせ僕はお前が奜きだ、
    倪陜よ、気持のいい地獄よ。』 P18〜23

    芋おのずおり、この詩は、どう芋たっお「ホモセクシャル」であるこずの、苊しみず快楜に揺れ動く心を描いたものである。

    だが、ここで泚目すべきは、

    『歯の光るあの黒奎くろんがは、
    倖偎は黒く、内偎ばら色だ。

    僕は内偎が黒く、倖偎がばら色だ、
    逆にしおくれ。

    僕の䜓臭を、肌いろに倉えおくれ、
    ヒダシンスを君が花に倉えた流儀で。』

    ずいう郚分だろう。

    『歯の光るあの黒奎くろんがは、』ずいうのは、䞀皮「毒々しい」野獣性を衚しおいるわけだが、しかしその「黒」さは『倖偎』倖芋に過ぎず、むしろ『内偎』心は、癜く茝く『ばら色』であり、そんな『黒奎』黒人に察し、癜人である『僕』は、『内偎』に黒い野獣性を秘めながら、『倖偎』だけは癜く茝く『ばら色』ずいう、ペテン垫みたいな存圚だから、どうか『僕』の野獣性に汚れた生々しさの臭う『䜓臭』を、ばら色の肌いろに倉えおくれ、無垢な矎少幎ヒダキントスの䞍慮の死を悌んで、光明神である君アポロヌンが、圌を花に倉えたように、『僕』も汚れを知らぬ花に倉えおはくれないか䞀䞀ず、そういう意味である。

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    ヒダキントスずアポロヌン

    このように「知解」したずころで、しかし、私は、コクトヌの詩を十党に理解したこずになるずは思わない。なぜならば、こうした「知解」ずいう手法には乗らない䜜品、぀たり「知解」し難い䜜品がたくさんあるからであり、そうなるのは、結局のずころ私が、コクトヌの詩の、もっずも重芁な郚分を理解できない、「感受」できおいないからであろうからだ。

    だが、私は、コクトヌのように、こんな自分を「倉えおくれ」ずは、あたり思わない。

    ずいうのも、「癜いものが黒くなった」ずしおも、「黒くなったら、癜いもの」を求めるようになるのは、芋えた話なのだから、結局のずころ、私は私のたたで、可胜なかぎり、私の可胜性を開くしかないず考えるのである。


    2023幎2月28日

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