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䞭井英倫 『月蝕領映画通』「䞭井英倫党集12」  反䞖界からの映画批評

    幎間読曞人

    曞評『䞭井英倫党集12月蝕領映画通』創元ラむブラリ・2006幎

    『月蝕領映画通』は、1984幎に倧和曞房から初版単行本が刊行されたものの、その埌、再刊や文庫化もなく、䞭井英倫の䞻だった䜜品著曞を収めた第二次「䞭井英倫䜜品集」䞉䞀曞房・党10巻別巻にも収録されないたただったのが、「創元ラむブラリ」版「䞭井英倫党集」においお初めお収録され、いわば「文庫化」も成った著䜜であるなお、䞉䞀曞房は、1969幎に巻本の『䞭井英倫䜜品集』を刊行しおいるので、こちらが「第䞀次」ずいうこずになる。

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    さお、先日、幎来の悲願であった、ず蚀うず倧袈裟にすぎるが、長らく気になっおいた映画、ロベルト・ノィヌネ監督の『カリガリ博士』1920幎・ドむツ映画を芖るこずが叶った。

    そのレビュヌにも曞いたこずなのだが、この『䞭井英倫12月蝕領映画通』には、付録の月報゚ッセむずしお、「眠り男の迷宮・迷宮の倢」ず題した拙皿田䞭幞䞀名矩が収録されおおり、本曞は盎接的な瞁のある、私には特別な䞀曞である。

    だが、にもかかわらず私は、この『月蝕領映画通』を、今日に至るたで読んではいなかった。今回、読んでみお「やっぱり、読んでいなかった」ず確認する、䜓たらくだったのだ。

    無論、党集の月報に文曞を曞かせおもらうほどのファンなのだから、早くから䞭井英倫の著曞はすべお所蔵しおいたのだが、すべお読んでいたわけではなかった。あくたでも私は、小説家ずしおの䞭井英倫のファンだったし、自分なりの䞭井英倫論を確立するたでは、小説䜜品の裏面を語る資料ずなる「日蚘」の類いはあたり読みたくないずいう意識があっお、避けおきた郚分が確かにあったのだ。
    ただ、本曞『月蝕領映画通』に぀いおは、単玔に、圓時の私が映画ファンではなく、本曞で語られおいる映画の倚くを芳おいなかったため、それであたり興味を持おなかったずいうのが倧きかったず思う。

    ちなみに、私は「眠り男の迷宮・迷宮の倢」を『月蝕領映画通』の巻に収録されるものずわかっおいお曞いたわけではない。結果ずした、この巻に収められただけで、そうだずわかっおいれば、さすがに私だっお、その圓時に読んだのではないかず思う。たぶん、ではあるけれども。

    ずもあれ、䞀昚幎に退職しお以来、映画を趣味的に芋るようになり、それたで芳たこずもなかったフランス映画や叀兞的な名䜜映画たで芳るようになったずいうのず、たたたた今回、本曞『䞭井英倫12月蝕領映画通』を叀本で再入手したので、この機䌚に読むこずにしたずいう次第であった。

     ○ ○ ○

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    本曞カバヌの背面や、本曞の版元である東京創元瀟のりェブペヌゞなどには、本巻に぀いおの次のような内容玹介文が掲茉されおいる。

    『圱だけが劖しく壁を䌝い、眠りだけがすべおを宰領する月蝕領映画通。「街があり映画通があり、䞭に映画があり銀幕がありスタアがいるずいう“埀き”の手続き、あるいはその逆ずいう“還り”の手続きなしに映画だけの話をする぀もりはない」――昔語り、批評、苊蚀、がやき、小蚀、悪態  そしお耒詞が少々。独断ず偏芋、蚘憶ず回想に圩られた、月蝕領領䞻の偏愛的映画論集。解説束山巖』

    斯くあるずおりで、本曞の特城は、肝心の「映画分析」など無いに等しく、むしろ「昔語り、苊蚀、がやき、小蚀、悪態」ずいったこずの方が倚い、ずいう点にあろう。「解説」の束山巖も、次のように指摘しおいる。

    『 読みはじめるずわかるが、『月蝕領映画通』には小蚀が倚い。映画そのもの以前に、映画通の怅子が硬かったり、汚れおいれば怒る。予告をだらだらず芳せられれば腹を立おる。案内係の䞍芪切さや芳客の心ない振る舞いには傷぀き、音響装眮があたりに粗末であれば䞍満を挏らす。そういったこずは映画鑑賞の愉しみを奪うからである。
     映画そのものも同様で、ナニヌクな発想でワクワクさせおくれれば手攟しで誉めるし、たずえ評䟡が高い䜜品であっおも、圌の審矎県に合わなければ蟛蟣に叩く。』P213

     私の堎合も、本曞を読み始めお最初の感想は、映画そのものに察するよりも、「映画通」に察するこだわりの方が匷い、ずいうようなこずだった。だから本曞を、前蚘の内容玹介文のように『映画論』ず評するのは、あたり正確ずは蚀えないなずも思った。束山巖も、

    『話題は自圚に展開しおいく。思い぀くたたの気楜な゚ッセヌである。しかしそれだけに圌のこだわりや奜みが文章の端々から顔を出し、䜜家䞭井英倫の人ずなりを語る䞊では芋逃すこずはできない。』P212

    ず曞いおいるずおりで、本曞に぀いおは、垞識的には「映画゚ッセむ集」ず呌ぶのが適切であろう。

    ただし、束山の蚀う『気楜な゚ッセヌ』ずいう評䟡は、あくたでも圢匏䞊の話であっお、䞭身のこずではない。
    䞭井英倫は、本曞で「映画䜜品そのもの」をほずんど論じなかったかわりに、別のこずを論じおおり、そっちの方がよほど「重い」ずいうか「気鬱」なものだずいうのは、この「映画をめぐる゚ッセむ集」に「昔語り、苊蚀、がやき、小蚀、悪態」が倚く、芁は「圓時の今」に察する「批刀」が倚いずいうこずだず、そう解するべきだろう。

    ぀たり、䞭井英倫は、「映画奜き」ではあっおも「映画オタク」ではないので、「映画」ず「この䞖界・この時代」を切り離しお、「映画だけ」を論じおいるわけではない、ずいうこずなのだ。

    だから、本曞を「映画論」だず思い蟌んで読むならば、実際には「映画䜜品そのもの」に぀いおの突っ蟌んだ議論をしおいないのだから、物足りないずいうこずにもなろう。前述のずおり、本曞における「映画評」には、「分析」などずいう「評論らしい属性」は、皆無に等しいのである。
    だが、重芁なのはそこではない。䞭井は「映画」を通しお「この䞖界・この時代」を語っおいるのだず考えれば間違いないし、䞭井英倫にずっおは、「映画」もたた、そういうものだずいうこずなのである。「昔語り、苊蚀、がやき、小蚀、悪態」は、「脱線」などではなく、「批評」の「構成芁玠」そのものず芋るべきなのだ。
    蚀い換えればそれは、「映画批評ずいう既成のレヌル」に、易々ずは乗っおしたわない、それは、「反䞖界」に所圚する「月蝕領」の領䞻たる者の「非凡さの蚌し」なのだずも蚀えよう。

    したがっお、読み終えおもただ本曞を、䞖間䞊みの「映画評論」ずしか芋おいなかったのだずしたら、その読者は、本曞を党く読めおいなかったずいうこずになる。

    本曞には「昔語り、苊蚀、がやき、小蚀、悪態」が倚い。なぜかず蚀えば、「今珟状」が嘆かわしいものず感じられるからであり、そうした評䟡は、すでに通垞の「映画評論」の枠になど収たらないものだからである。

    しかしながら、䞭井英倫の堎合、それは䜕も「映画」に限った話ではない。
    䞭井の著䜜に『ケンタりロスの嘆き』ずいう文芞論集があっお、これは盟友・䞉島由玀倫を論じた同曞収録゚ッセむを衚題䜜ずしたものなのだが、芁は、䞉島もたた「半人半獣」の人だったずいう話ではなかったかず蚘憶する。぀たり、そんな人だったからこそ、䞉島は、「この䞖界・この時代」に銎染みきるこずのできなかった、぀ねに違和感を抱えおいた「異圢」であったず、そういう話だ。
    䞀䞀芁は、「文孊者論」にしおからが、そうしたものだったのだ。

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    䞉島由玀倫ず䞭井英倫。䞭井の奥は柁柀韍圊

    それはたた、䞭井英倫自身のこずであったずいうのも、論を埅぀たい。
    むしろ、䞉島由玀倫を評する蚀葉ずしお、仮に適切性を欠いおいたずしおも、䞭井自身を語る蚀葉ずしおなら、完党に適切だったず蚀えるだろう。少なくずも、䞭井本人は、そのように感じおいたのは、間違いないこずなのだ。

    では、そんな「異圢」だの「異星人」だのが、地球人のものたる「この䞖界・この時代」を論じお嘆くこずに「䜕の意味があろう。我々はこれで満足しおいるのだから、䜙蚈な差し出ぐちは無甚だ」ずいうのは、正しい考え方なのだろうか
    無論、そんなこずはない。

    䞭井英倫ずは瞁もゆかりもない、およそ察極的ずも思えるタむプのノヌム・チョムスキヌが、しばしば「仮に、宇宙人が人類を芳察した堎合、その目に、人類の行いはどのように映るだろうか」ず問うおいるこずからも分かるように、「圓事者がいちばんよく承知しおいる」などずいうこずは、金茪際ないのだ。
    むしろ宇宙人から芋れば、人類ずいうのは「なんず愚かな生物なのだ」ずなるのは、容易に想像できるずころなのである。

    だから、「半人半獣」぀たり「人倖」である䞭井英倫が、その立堎から「この䞖界・この時代」を論じるこずは、決しお「郚倖者による、䜙蚈な差し出ぐち」などではなく、むしろ貎重な「客芳的助蚀」だず捉えるべきなのだ。
    「圓事者」性に埋没しおしたわない「人倖」なればこそ芋えるものがあるはずだし、圓事者ではないからこそ、平然ず「映画批評ずいう既成のレヌル」を疑い、そこから倖れるこずも蟞さなかったのである。

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    圓然、䞭井英倫の堎合、「昔語り」が倚いからずいっお、「昔は良かった」匏のこずを蚀いたいわけではない。
    それは、次のような「批刀」にも衚れおいる。

    『 「ダカヌポ」ずいう情報誌で「映画芞術」が八䞀幎のベストテンずずもにワヌストテンを遞んでいるこずを知った。のぞいおみるずこれがなかなかきびしく、日本映画のワヌスト順䜍は、「駅・連合艊隊・癜日倢・ええじゃないか・悪霊島・マノン・謀殺䞋山事件・なんずなくクリスタル・ラブレタヌ・蔵の䞭」ず続く。評刀の「泥の河」も「遠雷」も二十䜍以内に入り、しかもその拒吊理由がそれぞれすさたじい。珟圚の映画状況のなかで、いわば犯眪的にダメな䜜品山根貞男ずか、いたこの時、存圚するこず自䜓が蚱せない䜜品矀䌊䞹皓二ずかの蚀葉が飛び亀い、四方田犬圊は、「泥の河・長江・駅」の䞉本に察し、必然性を欠いた生真面目においお・傲慢においお・冗長な感傷趣味においお、ず理由づけた䞊で、真に悪質ず匟効する。そんなにも苛立぀ほどの状況ずは䜕か、この回答からもう少し具䜓的に浮かびあがるずいいのだが。
     結局このワヌストの点数を差し匕いた結果のベストテンは、「陜炎座・嗚呌おんなたち 猥歌・遠雷・泥の河・スロヌなブギにしおくれ・狂った果実・ガキ垝囜・炎のごずく・セヌラヌ服ず機関銃・の・ようなもの」ずなるが、こうした催しでいささか気がかりなのは、詊写もただそこそこの映画をあげる人もいるこずで、あくたでも䞀般封切埌に限らなければ意味はなく、さらにただ芋おいない䜜品には特定の印を぀けるずいった配慮も欲しい。批評の先行ず芳客ずのズレは、い぀どんな裂に育぀か知れないのだから。
     映画の芳客数は䞀昚幎よりさらに萜ち蟌んで䞀億五千䞇人を割ったずいうが、䞀方では日本映画の豊䜜が讃えられおいる。それももっぱら新人監督の擡頭によるずいうこずで、読売新聞では石井聰亙から埌藀俊倫たでの十人を'82シネマ・ニュヌりェヌブずしお玹介した。小栗康平が入っおいないので蚊くず、いろいろ賞はもらっおいるが「泥の河」はもう叀い映画なんですずいう返事だった。たった䞀本を撮っただけで叀株扱いされるのでは、「陜炎座」をワヌストワンにあげ、墓堎の陰からし぀こく顔を出す枅順にはうんざりした犏島垂男などず、およそ芋圓違いな気焔をあげる手合が珟われるのも圓然であろう。』P98〜99

    ぀たり、平たく蚀えば「若くお将来有望な皆さんは、奜きに批刀しおもいいですよ」ずいった甘やかされた状況にある時には、たるで自分がそうした特暩的な立堎䞀般公開前に、ご招埅で䜜品を芳るこずができるような、特別埅遇的立堎にあるのが圓然のこずででもあるかのように偉そうな態床で、ろくな根拠提瀺もせず、䜜品を頭ごなしに貶しおむキがる、そんな䜎脳な茩の「毒舌」ずは、「批評」でもなければ「批刀」でもなく、「毒の抜けた毒舌もどきのむしろ冗舌」に過ぎない、ずいうこずだ。

    こんなこずが蚱されたのは、映画業界がただ倧繁盛しお、䜙裕のあった圓時だからでしかなく、䞭井が正しく危惧したように、

    『映画の芳客数は䞀昚幎よりさらに萜ち蟌んで䞀億五千䞇人を割った』

    ずいう事実の先にある、今日のような映画産業の䞍振䞀郚の嚯楜䜜品だけが、銬鹿みたいにヒットしお、䜜品の倚様性がほずんど倱われおいる状況になるず、こういう「お座敷芞ずしお毒舌」を売りにしおいるような茩は、みんなそそくさず「幇間倪錓持ち」ぞず転職しおしたうか、良くお沈黙したたた消えおしたうずいったこずにもなろう。そうなるしかないのだ。

    したがっお、たしかに昔は「今よりは、映画批評が生きおいた」ずは蚀えるだろうが、それは「割のクズ」に玛れお「映画批評」ず呌ぶに倀するものもあったずいう話であっお、「昔は良かった」ずいう話ではない。

    たしかに「ゎミ評論家」でも「食えた」時代を「昔は良かった」ず評するこずができるのなら、それはそういう手合いには良かったのかもしれないが、そんなものがどれだけ映画のためになったのかは極めお疑わしいし、総じお蚀えば、昔も今も「割はクズ」であり、映画が危機的な状況にあるずいう点に、本質的な違いはない。

    映画に限らず、小説でも絵画でも䜕でもそうだが、およそ芞術ずいうものは、い぀だっお危機的な状況にあるのであっお、そのこずを知らせる「炭鉱のカナリア」が、映画界にあっおは、映画批評家であるべきだったのである。
    ぀たり、䞭井英倫の「映画に関する批評」ずは、そうした異次元のものであり、その意味で、圓時の「業界にどっぷり浞かった」映画オタクたちずは、䞀線を画するものだったのだ。

    そしお、䞭井英倫のこうした「狷介」さは、蚀うたでもなく、その匷すぎるたでの「愛」から出たものである。無論、この堎合だず「映画愛」だ。

    解説者の束山巖は、䞭井の「たのしい映画」を求める、わけ隔おない「映画愛」を、次のように語っおいる。

    『『圌方より』のこの蚘述は、䞭井の垌みをよく衚わしおいる。「芞術に必芁なものは、それが生々ずしおたのしいこずだ」。誰にでもわかる、この映画の芳方はほが四十幎埌に曞かれた『月蝕領映画通』でも倉るこずはない。それどころか、「生々ずしおたのしいこず」ぞの逓えは四十幎前より匷たっおいる。぀たりはなかなか「生々ずしおたのしい」映画に出遇えず、䞭井は過去の映画をしばしば思い出す。
     片岡千恵蔵の第䞀䜜トヌキヌ『旅は青空』を思い出しおは、ノヌテンキな䞻題歌を口ずさむ。アニメ映画や魔術映画も動物映画も芳に出かけるのだが、結局はアニメ映画ずいえば、ディズニヌの『癜雪姫』や『ファンタゞア』、魔術映画なら『魔術の女王』や『䞖玀は笑う』ず戊前の映画に蚀及せざるを埗ない。それにしおも䞭井英倫は「たのしいこず」にはじ぀に貪欲である。』P216

    ぀たり、䞭井英倫自身、むかし芳たものの方が楜しく感じられるこずを承知の䞊で、しかし、「新䜜」を頭から銬鹿にしたり、ゞャンルで䜜品を差別したりはしない。
    結果ずしお、悪口を䞊べるこずになったずしおも、それは䜕らかの期埅を持っお芳に行ったからに他ならないのだ。

    䞭井が最も奜きなのは、若い頃に芳た「フランス映画」のようだが、しかし、そんな䞭井が、CG映画の嚆矢である『トロン』を楜しんだり、『宇宙戊艊ダマト』以来の「束本零士アニメ」ブヌムに乗っお䜜られ倧ヒットした劇堎甚アニメ『1000幎女王』1982幎・明比正行監督を芳に行ったり、䜓調䞍良で芳に行けなかった、招埅状の届いた䜜品の䞀぀ずしお『六神合䜓ゎッドマヌズ』1982幎の劇堎版・今沢哲男監督の名たで挙げおいる埋儀さは、敬服に倀するものだ。

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    もちろん、『1000幎女王』を「束本零士の䜜品」ずしお吊定的に評䟡しおいるずころなどは、アニメファンの私に蚀わせれば「わかっおないなあ」ずいう感じではある。
    アニメだっお、肝心なのは「監督」を䞭心にしたアニメの制䜜スタッフなのであっお、ほずんど「原䜜者」の問題ではないからだ。

    しかし、そうした「無知」や「匱点」は、誰にだっおある。だが、それを隠しお「埗意ゞャンル」ばかりを蚳知り顔で語りたがるのが、ほずんどの映画評論家の珟実だろう。
    䟋えば、「フランス映画」を埗意ずする映画評論家で、アニメをきちんず論じられるものなどいないに等しいのだが、䞭井は「専門家・マニア」ぶりたいがために、無難に埗意ゞャンルのこずしか語らないし、觊れようずもしないなどずいう、保身的な態床は採らない。
    知らないこずは知らないなりに、可胜な範囲でそれを理解しようずしお、その時点での理解を隠すこずなく語るのである。

    こうした、䞭井英倫の「正盎さ」ずいうのは、䟋えば、むングリッド・バヌグマンの評䟡にもよく衚れおいる。
    『カサブランカ』1942幎、『誰が為に鐘は鳎る』1943幎、『ガス燈』1944幎、『汚名』1946幎などの䜜品で知られる、もはや䌝説的な矎人女優で、䞭井の奜きな女優の䞀人なのだが、それでも䞭井は、バヌグマンが「倧女優」かずいうず、そう呌ぶには「人間的すぎる」ずいうような泚文を぀けおいる。
    ぀たり、「倧女優」ず呌ぶに倀するのは、グレタ・ガルボやマリヌネ・ディヌトリッヒのような、いっしゅ近寄りがたいオヌラを攟぀、人間離れした存圚にこそ盞応しく、それに比べるず、バヌグマンは「人間的」な郚分を残しおおり、芪しみやすさはあっおも「倧女優」ずは呌び難いず、そう蚀うのだ。

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    むングリッド・バヌグマン

    もちろん、これは「倧女優」ずいうものの定矩によりけりの話だから、バヌグマンを「倧女優」だず評䟡する人がいるのは圓然で、それは䞭井英倫だっお吊定しはしないだろう。だが、䞭井がここで語りたかったのは「スタヌの存圚䟡倀」ずは䜕なのかずいうこずであり、それは「芳る者を、日垞空間から攫っお、倩高く飛翔するような存圚だ」ずいった、䞭井の「スタヌ芳」を語るためなのだ。
    映画オタクによくある「こっちが凄いずか、あっちが䞊だ」などずいう幌皚玠朎な「奜み」の話ずは、そもそも次元の違う議論なのである。

    で、それでも䞭井英倫の「正盎さ」であり「かわいらしさ」は、そのような「スタヌ芳」を語り、「バヌグマンは、倧スタヌずは呌び難い」などず客芳的評䟡を語りながらも、しかし個人的にバヌグマンに惹かれるのは「きっず、圌女に、母性的なものを感じるからだろう」ず、そんなふうに正盎に曞いおしたうずころだ。
    䞭井英倫ファンなら呚知の事実だが、䞭井は倧倉な母芪っ子、お姉さんっ子だったのである。

    だから、バヌグマンの蚃報に接した際には、半分冗談めかしながらも、圌女を「倧女優ではない」ず語ったこずに぀いおの埌悔を語っおいるし、テレビでの远悌特集だけではなく、映画通でもそれをやらないのかず泚文を぀けおいる。
    そしおここで、アニメファンの私が面癜いず思ったのは、テレビの远悌特集でバヌグマンの代衚䜜が攟映される際、圓然のこずながら「吹き替え」版の攟送ずなったのだが、その声を圓おたのが、声優の池田昌子であり、そのこずに觊れお䞭井は「池田昌子の吹き替えは、たあ良いずしお」、吹き替えではなく本人の声でやる字幕でやるこずくらいできなかったのか、ず泚文を぀けおいる点である。
    ひずたず、もっずもな泚文ではあれ、いちいち泚文を぀けるずころは、いかにも䞭井英倫らしいのだが、私が泚目したのはそこではなく、「池田昌子による吹き替え」自䜓には泚文を぀けなかった点だ。

    ずいうのも、たぶん䞭井自身はハッキリずは意識しおいなかったのであろうが、池田昌子の声ずは、凛ずしおいながらも、「母性」のある、お姉さん・お母さん声なのだ。そしおその兞型的な䟋が、『銀河鉄道999』の「メヌテル」圹である。
    「メヌテル」ずは、蚀うたでもなく「マザヌ」のドむツ語読みであり、メヌテルは、䞻人公・星野鉄郎の母芪「生たれ倉わり」だずいう「隠し蚭定」のあるキャラクタヌなのだ。぀たりメヌテルずは、氞遠の呜の象城たる「機械の䜓」を求めお旅する少幎・鉄郎を、芋守る「母性」の象城なのである。だから、鉄郎が、機械の䜓などいらないず気づき、䞀人の男ぞず成長した暁には、圌の恋愛察象ずなるこずはできず、別れなければならなかったのだ。

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    映画『銀河鉄道999』のポスタヌ

    ずもあれ、声優・池田昌子の声ずは、そういう特性を持っおいた。それを䞭井英倫は、きっず無意識のうちに正しく感じ取っおいたから、「吹き替え」は奜たしくないず思いながらも、「たあ、池田昌子のによる吹き替えはかたわないか」ずいう、いっしゅ曖昧な態床を採ったのだ。
    䞭井は「吹き替え反察掟」的な「むデオロギヌ」ずしお、䞀貫した態床に固執するのではなく、自分の「実感」に沿っお、正盎に語る人だったからこそ、こうしたこずも意図せず、自然に可胜だったのである。

    そんなわけで、『月蝕領映画通』ずいう「映画゚ッセむ集」を、「゚ッセむ集」だからずいう理由で、声高に「映画監督論」や「䜜品論」を謳ったような「評論曞」ず比范しお、軜く芋たり䜎く芋たりするのは、蚀うたでもなく間違いである。
    そんなふうに考える者ずは、そもそも「文章」そのものが読めないからこそ、「看板」頌りの分類評䟡しかできないのだ。ものの「本質」を芋るこずができないのである。

    䟋えば束山巖は、䞭井が、戊埌の「゜連映画」に぀いお「日蚘」に蚘しおいたこずに正しく泚目しお、次のように指摘しおいる。

    『 詊みに、䞭井の戊時䞭および戊埌の日蚘『圌方より』から、若い䞭井が圓時の映画や芝居、挔奏䌚をどのように芳おいたのか、匕いおみよう。
    「幕間11の埌で環女史あらはれ、挚拶をのべおいはく、私は昔ロンドンに行぀お歌劇をやりチョむず圧倒しおきた、それからアメリカでたたみんなのしおきた。かういふ勝぀お垰぀た先䟋があるんですから、皆さん私のやうに幎ずらずし぀かりおやんなさいだの、アンナ・パノロワずシャリアピンず私ず䞉人はちょ぀ず倉぀おゐるずいはれたものだ、それは私が心に倧和魂を持぀おゐたすからだの、錓の音に涙を流した日本瀌讃をやる口調は、倖人が日本を賞めるのを聞くやうな、みえすいた浅薄さだ。」䞀九四䞉幎十月十二日
    「『ペむコ』ずいふ軍囜䞻矩時代の蚀葉が未だ甚ひられおゐる。これ䜍おし぀けがたしい、欺瞞性のあふれた蚀葉は珍しいだらう。略曟お私はそのペむコたちが、孊校を軍隊匏に『自治』しおゐる映画を芋せられた。即ち圌らは銃の代りに棒切れか䜕かを持぀お門前に衛兵を蚭け、先生ず芋るや「敬瀌』ず叫んで立䞊るのである。歩哚も出おゐお、その亀代も棒切れを「担ぞ銃』しお『歩哚亀代ニ来マシタ』ずいふ、そんな文化映画だ぀た。」䞀九四五幎十䞀月二十六日
    「゜連映画『スポヌツパレヌド』を吟郎ず芳た。東京䞭倮劇堎。若い䞖代、たずぞば私にしおからがさうだが、『党線』や『静かなるドン』などの名に憧れはしながら、゜ビ゚ト映画ずいっお先日封切られた『陜気な連䞭』ずこれで二本目だ。略それにしおもこの矎は、た぀たく敎列し、集団化され、機械化され、調和された矎であ぀た。だがそれこそナチス独逞の粟鋭が、軍囜日本の皇兵がも぀ずも埗意ずするものではなか぀たか。今ここに゜ビ゚トが、䜕のゆえあっおその統制ずその人圢化ず、䞀蚀にいぞば非人間的な集団矎を誇るのか。」䞀九四六幎十䞀月八日
    「昚日、地球座で「旅路の果」をみた。兵隊にゆく前、どうか封切぀おはくれないだらうか、あれを芳おから兵隊にゆきたいず、さう願぀おゐた䜜品だが、やはり倱望した。䞀寞デュノィノィ゚ず思ぞぬくらゐ、ぎくしやく人間の動きが぀た぀お、そのぎこちなさが流れる情感をはばんでゐる。」䞀九四八幎四月二十䞃日
     戊時䞋では映画を自由に芳る機䌚は少ない。映画鑑賞の蚘述がないので、䞉浊環の独唱䌚の感想を匕甚したが、浅薄なナショナリズムに察する反撥を虚食なく蚘しおいる。この反感は、戊争が終った埌も䞀貫しおいる。戊埌、゜連の囜家䜓制は日本ではいわゆる民䞻䞻矩陣営から、支持された。しかし䞭井は䞀本の゜連映画を芳ただけで、圓時は未だ倚くの人が気づかなかったスタヌリニズムの匂いを感じずり、ナチズムや日本の軍囜䞻矩ず結局は同じではないかず断じおいる。圌が芋぀め、怖れたのは、映画であれ、芝居であれ、音楜であれ、文化が政治の道具ずなり、倉質し、矮小化されるこずであった。』P214〜215

    戊埌、日本の知識人の倚くは、「アメリカ垝囜䞻矩米垝」に反発し、その反察物ずしおの「゜ビ゚ト共産䞻矩」の「理想」に共感しお、これを支持したのだが、圌らには、その「゜ビ゚ト共産䞻矩」の隠された実態たる「スタヌリニズム」が党く芋えおおらず、のちに、その惚状が䌝えられるようになっお、やっず、おのれの浅薄さず、その「偏芋色県鏡」を恥じなければならなかったのだが、䞭井英倫は「ナチスドむツによる人間のロボット化は悪だが、゜連匏の集団䞻矩的調和は玠晎らしいなどずいう、日本の知識人の小理屈など、所詮は愚かな、むデオロギヌ的自己欺瞞でしかない」ず、映画䞀本芳ただけで看砎しおいたずいう話である。

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    「劎働者階玚の囜」であるずアピヌルする、゜連のプロパガンダポスタヌ

    そしお、これは「吹き替えは奜たしくないが、池田昌子の声は悪くはない」ずいった、䞀芋したずころ「矛盟」に芋えお、実は矛盟でも䜕でもない、䞭井英倫の「非むデオロギヌ」的な「曇りなき目」の蚌明ずもなっおいるのだ。

    そしおたた、こうした問題は、䜕も「戊䞭」や「戊埌」に限った話ではない。

    「倧東亜共栄圏」だの「八玘䞀宇」だのずいった「綺麗事のプロパガンダ」を真に受けるのず、「商業䞻矩的な倧宣䌝」によっお、あっさり掗脳されおしたう、今どきの「私の批評県個人ずしおの䞻䜓的な県」の無さは、結局のずころ同じこずなのだ。
    「倧本営発衚」を真に受けるのず、「芳客動員数」だの「興行収益ランキング」だのを「傑䜜」であるこずを瀺すものだず思い蟌んでしたうような幌皚な「数字信仰」も、本質は同じ。いずれも、「私の県」の無さの蚌明でしかないのである。

    ぀たり、䞭井英倫が本曞で語っおいるのは、昔の話ではなく、たさに私たちの「今」の問題であり、「今の映画」の話なのだ。

    こうした批評は、近幎の「新自由䞻矩垂堎経枈」的な「ヒットしたもの勝ち」の「あさたしさ」にどっぷりず浞かっおいるような、映画制䜜者や映画評論家や映画ファンには、語りようもないこずである。

    だからこそ、本曞『月蝕領映画通』は、今こそ読たれるべき「映画曞」であるし、私も、曞くのであれば、䞭井英倫的な「映画評論」を曞きたいず思う。

    その意味で、私もたた「人倖」である。

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    2024幎2月14日

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