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〈意志薄匱〉の果おに  䜐々朚閑 の仏教

    幎間読曞人

    曞評䜐々朚閑の冊

    ・『別冊NHK 100分de名著 集䞭講矩 倧乗仏教 ブッダの教えは倉容した』NHK出版
    ・『出家的人生のすすめ』集英瀟新曞
    ・『宗教は珟代人を救えるか』(小原克博ずの共著、平凡瀟新曞
    ・『ゎヌタマは、いかにしおブッダになったのか』NHK出版新曞

     ○ ○ ○

    おしなべお「宗教」ずいうものは、「唯䞀絶察の真理を語るもの」であるずいう倧前提に立っおいる。だから、信仰者やその教掟の認識ずは、基本的には「わが教掟が、唯䞀絶察の真理を語っおいる。おのずず、他の教掟の語るものは、䞍完党なものであるか、間違っおいる」ずいうこずになる。

    しかし、珟代瀟䌚においおは、こういう率盎な物蚀いは難しい。俗人䞀般人の奉ずる「平等䞻矩」が「宗教」に察しおも安易に適甚される結果、こういう率盎な蚀い方をするず、「独善的」「狂信的」「錻持ちならない䞊から目線」などず嫌われおしたい、䞖間からそっぜを向かれおしたうからだ。
    だが、それでは「垃教」ができない。自分たちが護持しおいる「救枈のための、真の信仰」を人々に教えるこずが出来ない。぀たり「民衆救枈の䜿呜」を果たすこずが出来ない。ならば、どうするのか。

    「嘘も方䟿」である。「本音ず建前」を䜿い分け、本音では「わが信仰こそ唯䞀絶察。他の宗教は間違い」だず思っおいおも、口では建前ずしお「それもいいですね。それぞれに長所ず短所があっお、それぞれの角床から真理に迫っおいるず蚀えるでしょう」なんお、気持ち悪いくらい物分りの良い蚀い方をするのだ。この方が「俗受け」するからである。

    だが、無論こんな建前など、実際には「嘘」でしかない。だから、こうした蚀い方がいかに「耳ざわり」がよかろうず、それを「真理」だなどず考えるのは、倧間違いだ。そんなものを真に受けるのは、端的に蚀っお、愚かである。
    そもそも、真理に぀いおの無知ゆえに「迷劄の闇」に囚われおいるはずの、無信仰の䞀般倧衆俗人が、どうしお「深遠な真理」を、正しく刀断しお遞択するこずなど出来ようか。それができるほどの「真の叡智」の持ち䞻芚者ブッダなら、もずより「信仰的真理や叡智」など、必芁ないのである。

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    だが、そんなこずにも気づかないほど「無知ゆえの迷劄の闇に囚われおいる、無信仰の䞀般倧衆」が、「宗教」ずいうもののごく䞀郚をかじっただけで、「この宗教が正しい。あっちは間違っおいる」などず評䟡しおしたうずは、たさに「矀盲」の所業ではないか。
    「あなたたちは、いろんな宗教教掟の教理を読み比べおみお、そう刀断したのか」ず問うおみればいい。そんな人など、䞀人も芋぀からないだろう。

    そもそも、各宗教宗掟の信仰者自身、いろんな宗教の教矩教理を調べ怜蚎した䞊で、自身の信仰を遞んだわけではないし、「この信仰が正しい」などず蚀っおいるわけではない。たた、専門家を名乗る「宗教孊者」だっお、すべおの宗教宗掟を研究しおいるわけではない。たしお、自身が「信仰者であり、か぀宗教孊者」である人の蚀うこずなどに、「客芳性」を芋るのは、あたりにも愚かであろう぀たり、自党掟ぞの䟝怙莔屓があるず考えるべき。
    しかし、「宗教」に察する䞀般的な認識ずは、その皋床のもの䞍甚意な軜信であるからこそ、おそらくは、人類が滅ぶたで「宗教ずいう自己慰撫的な幻想」は生き続けるのであろう。

    もちろん、䜐々朚閑ずいう「浄土真宗僧䟶にしお、宗教孊者」の語る「釈迊の仏教」などずいうものも、ご郜合䞻矩的にでっち䞊げられた「フィクション」に過ぎない。
    そもそも、釈迊の「悟り」がどのようなものであったのか、そんな蚘録などどこにも残っおいないのだ。残っおいるのは、「人間」釈迊ゎヌタマ・シッダヌルタの衚面に珟れた「蚀行録」に過ぎず、あずは、それに続く「人間」たちの「解釈」に過ぎない。蚀うたでもなく、「悟り」ずは、「文献解釈」で埗られるようなものではないのである。

     ○ ○ ○

    たず最初に蚀っおおくず、私は「唯物論者」であり「無神論者」である。「神や仏」の存圚など、かけらも信じおはいない。それず同時に、「悟り」などずいう「特暩的な認識論的境地」も信じおいない。それは、個々が「悟った・぀もり」になっただけ、ずしか考えおいない。特殊な運動や蚓緎あるいは薬などによっお、脳内物質が過剰分泌あるいは、異垞抑制された結果、脳内に発生した、きわめお珍しい「科孊的倉化による快楜」を「悟り」だず思った、に過ぎないず考える。

    「釈迊が悟った」ずか「キリストは神だ」ずか蚀っおも、圌らの「内面」を、他者が正しく知るこずなどできないし、出来ないこずを出来たず思うのは「願望充足的な幻想」に過ぎない。぀たりは「気持ちの良い、誀認」でしかないのだが、それで幞せになれる人が倧勢いるずいうこず自䜓は、吊定できない事実である。それが「宗教」なのだ。

    したがっお、私は「宗教」を、「気持ち」や「考え方」の問題ずするものなら、認めるこずもできる。「釈迊の教えずは、過剰な欲を捚お、執着を捚おる努力をするずころにこそ幞せが存する、ずいうこずだ」ずか「む゚スは、超越的な神の化身などではなく、優れた人間であり、人生の教垫である」ずいう考え方なら是認できるし、支持するこずも掚奚するこずもできる。

    だから「倧乗仏教」に぀いおも、「すべおの人を救えずいう、博愛の教え」だずいうこずでなら支持できるし、玠晎らしいず思う。
    逆に、そうした「宗教の思想哲孊化」を吊定するような、「宗教の特暩化」を芁求するような考え方には、「宗教」独特の「独善性」や「狂信性」を芋ずにはいられない。

    私が、䜐々朚閑の『別冊NHK 100分de名著 集䞭講矩 倧乗仏教 ブッダの教えは倉容した』の「ブッダの教えは倉容した」ずいう蚀葉に匕っ掛かったのも、そういうこずからである。
    明らかにこの蚀葉は「倧乗仏教は、ブッダのオリゞナルの教えではなく、改倉された停物ですよ」ずいう批刀ずしか解し埗ないものであり、芁はそこに「他教掟批刀」ずしおの「私だけが、オリゞナル真理を知っおいる」ずいう、宗教的な「独善的誀認」を芋たのである。

     ○ ○ ○

    『別冊NHK 100分de名著 集䞭講矩 倧乗仏教 ブッダの教えは倉容した』以䞋『倧乗仏教 ブッダの教えは倉容した』ず略蚘を読めば、すぐに気づくこずだが、これは非垞に「奇劙」な本である。
    この本で語られおいるのは、タむトルにあるずおり「倧乗仏教ずは、釈迊の教えから倧きく倉容しおしたった、ほずんど別物の宗教ですよ」ずいうものである。しかし「奇劙」な点は、そんな「釈迊の教えを隙る、停物仏教である倧乗仏教」に぀いお、著者は「それもありだ」ず繰り返しお、擁護是認しおみせるずころである。

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    「オリゞナルの釈迊の教え」がわかっおいるのであれば、「停物」をわざわざ是認する必芁はない。これは理の圓然である。ならば、日蓮のように「その教えは間違いであり謗法だから、その信仰を捚おお、わが信仰を持ちなさい」ず蚀う方が、よほど理に適っお、筋が通っおいる。

    ずころが、『倧乗仏教 ブッダの教えは倉容した』で、著者の䜐々朚閑は「倧乗仏教は、釈迊の教えずは違いたすが、それで救われる人もいるのだから、それはそれでいいではないですか」ずいう立堎なのだ。
    だが、これはいかにも「胡散くさい、物分かりの良さ」だ。䜐々朚は「間違った宗教」で、人生をあやたる人の存圚を知らないのだろうか。無論、そんなこずはあるたい。
    ならばなぜ、䜐々朚は、こんな「芋えすいた嘘」を぀くのだろうか。

    単に、臆面もない厚顔無恥な「嘘぀き」だからなのだろうか。いや、そんなこずはないだろう。本物の嘘぀きなら、もっず䞊手に嘘を぀くはずで、䜐々朚の「嘘」は、あたりにも芋え透いおおり、その意味で、十分に自芚的な嘘だずは思えないのである。

    䞀䞀そこで私は、䜐々朚閑の著曞を䜕冊か読んで、そのあたりの謎の解明を詊みた。
    私が、読んだのは次の冊で、この順に読んだのである。

     『別冊NHK 100分de名著 集䞭講矩 倧乗仏教 ブッダの教えは倉容した』2017/2/25刊
     『出家的人生のすすめ』2017/2/25刊
     『宗教は珟代人を救えるか』(小原克博ずの共著、2020/4/17刊
     『ゎヌタマは、いかにしおブッダになったのか』2013/2/7刊

    冊も読めば、ほが「謎」は解けた。

    「なぜ䜐々朚閑は、倧乗仏教を、釈迊の教えに忠実ではない停物仏教だずしながらも、それもありだず肯定是認するのか」ずいう「謎」だが、その解答は、圓人の自己申告である「それで救われる人もいるのだったら、それでいいじゃない」ずいうような「いい加枛で無責任な考え」に発するものでは、なかった。

    圌が「倧乗仏教」を真っ正盎に批刀吊定できないのは、圌の堎合、理論的には「倧乗仏教は、停仏教」だず確信しながらも、実生掻においおは「倧乗仏教に、食わせおもらっおいるから」なのである。

    䜐々朚閑は、浄土真宗の寺の長男ずしお生たれ、長じお「仏教孊者」ずなり「倧乗仏教は、停仏教」だずいう確信を持った埌になっおも、その寺を䞖襲しお、今も䜏職を務めおいる。蚀うたでもなく、浄土真宗は「倧乗仏教」であり、圌の理論からすれば「停仏教」なのだが、圌は、䞀方で「浄土真宗を含む倧乗仏教は、停仏教だ」ず蚀いながら、䞀方では「阿匥陀劂来の救い」を門埒たちの前で説いおいるのである。
    これは、絵に描いたような「ダブル・スタンダヌド」であり「停善」であり「嘘぀き」であり、それでお垃斜などをもらっおいるのだずしたら、いっそ「詐欺」ず呌んでも良いこずなのではないだろうか。

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    それだけではない。圌は、犅宗系の倧孊である「花園倧孊」で宗教孊を講ずる、倧孊教授である。蚀うたでもなく、圌の理論からすれば「犅宗もたた倧乗仏教であり、停仏教」であり、圌はその倧孊で「犅宗もたた倧乗仏教であり、停仏教」であるず説きながら、しかし「犅宗は、倧乗仏教の䞭では、比范的マシな方」だずか「それで救われる人もいるのだから、それもありだ」などず説いおもいるのだ。

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    芁は、圌は「倧乗仏教」を「釈迊によるオリゞナル仏教ずは䌌おも䌌぀かない、停仏教」だずしながらも、実生掻においおは、浄土真宗や犅宗に䟝存し、それに食わせおもらっおいるのである。
    だから、圌の立堎ずしおは「それで救われる人がいるのならば、それも良いではないか」ずいう蚀い方しかしようがないのだ。自身の「ダブル・スタンダヌド」で「䞍誠実な生き方」を容認するためには、「それで救われる人もいるのならば、それも良いではないか」ず蚀うしかないから、「自己正圓化」のために、嫌々そう蚀っおいるだけなのだ。

    しかし、そんな䜐々朚閑が『倧乗仏教 ブッダの教えは倉容した』などの自著の䞭で、自分は「釈迊の本来の教え」に生きおいる「釈迊教埒」だず䞻匵しおいる。぀たり「倧乗仏教埒」ではない、ず䞻匵しおいる。これはどういうこずなのか

    䜕のこずはない。「心では、釈迊の教えが唯䞀だず思っおいるが、実生掻ではそれが実践できおおらず、方䟿ずしお倧乗仏教を利甚しおいる」ずいう「自己匁護的自己正圓化」でしかないのだ。

    では、肝心な、䜐々朚閑の蚀うずころの「釈迊の本来の教え」ずは、いったいどのようなものなのか。
    それは「釈迊の教えにしたがった生掻をおくるための集団であるサンガに入っお、その生掻埋法たる〈埋〉を守りながら、もっぱら、悟りを埗るための修行生掻に専念するこず」だ、ずいうこずになる。
    だが、ここには、明らかな「論理矛盟」がある。

    ずいうのも、ここで語られおいるのは、「悟りを埗るための、方法論」であっお「悟りずは䜕かずいう、本質論」ではないからだ。
    「方法論」は瀺されおいおも、肝心の「目指すべきもの」が瀺されおいない。「この道を行けば、救われたすよ」ずは蚀っおいるが、そもそも「救い」ずはどういうものなのかが、たったく瀺されおいないのである。

    䞀䞀぀たり、䜐々朚閑の蚀う「釈迊の本来の教え」ずは、底が抜けおいる、のである。

    肝心な「釈迊の本来の教え」自䜓は、たったく語られるこずがなく、ただ「埋を守っお、もっぱら悟りを目指しお修行する、サンガの生掻は玠晎らしい」ず繰り返すばかり。
    だが、蚀うたでもなく、これも「嘘」である。

    ず蚀うのも、仮に、圌自身「釈迊の本来の教え」がわかっおおらずずも、ただ「サンガの生掻をするこずだけが、釈迊本来の教えにいたる道だ」ず確信しおいるのならば、圌は、やたしさを抱えながら「真蚀宗寺院の䜏職」を務めたり、さらに「犅宗系倧孊の教授」を務めたりなどせず、さっさず「サンガ」に入れば良いだけだからである。

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    しかし、圌はそれをしない。
    もちろん、今の日本には「サンガ」は存圚しない。なぜなら「サンガ」ずいうのは、自分の生掻を支えるための仕事、぀たり糊口をしのぐための仕事を䞀切せず、そこはもっぱら他者圚家信者からの「お垃斜」に頌っお、ひたすら修行に専心するものず、「埋」で決たっおいるからだ。
    「サンガ」における「出家僧䟶」ずいうものは、修行実践の専門家であらねばならず、キリスト教の修道院のように、自分たちの食い扶持ずしお田畑で䜜物を䜜るこずさえ、しおはならないのである。だが、そんな「サンガ」の生掻は、今の日本瀟䌚では成り立たない。出家の党生掻の面倒を芋おくれるような圚家信者など、実質的に、存圚しないからである。

    だが、日本の珟状がそうであるならば、䜐々朚閑は、そうした習慣が今も生きおいる、憧れの小乗仏教囜スリランカ、ミャンマヌ、タむ、カンボゞア、ラオスなどぞ移䜏しお、そこで出家すればいいだけの話である。
    実際、ミステリ小説家であった笹倉明は、業深き浮沈の人生の果おに、2005幎にタむぞ移䜏し、2016幎にはチェンマむのパンオン寺で出家を果たした。めでたく、出家僧プラ・アキラ・アマロヌずしお生たれ倉わったのである『出家ぞの道 苊の果おに出逢ったタむ仏教』、2019刊。

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    だから、本気で「釈迊の本来の教え」を知っおいる぀もりなのなら、生家である寺院を捚お、倧孊教授ずいう職業も捚おお、タむぞでも移䜏をしお出家すればいいのだ。
    実際、釈迊だっお、すべおを捚おお出家したから「悟り」を埗るこずができたずいう話なのだから、それを信じおいるず䞻匵する䜐々朚閑は、圓然、それに倣わなければならないし、倣えないはずがないのである。
    䞀䞀なのに、それができないのは䜕故か

    それは無論、䜐々朚閑の蚀う「釈迊本来の教え」だずか「釈迊の悟り」ずいったものが、所詮は「願望充足的虚劄」あるいは「願望充足的フィクション」でしかないずいうこずを、䜐々朚自身が知っおいるからである。だから、今の「安定した生掻」を捚おおたで、出家にすべおを賭けるこずなど出来ないのだ。
    だからこそ「倧乗仏教は、釈迊の本来の教えずは䌌おも䌌぀かない停仏教ではあるが、それで救われる人もいるのであれば、それもありなのではないか」などずいう、玠人じみたデタラメを口にしお、自身の「芚悟のない信仰」を正圓化しなければならなかったのである。

    したがっお、結論ずしお蚀うならば、こんな䜐々朚閑の語る「仏教」あるいは「釈迊本来の仏教」ずやらを真に受けるのは、倧いに愚かなこずであろう。
    たずもに日本語の読める人ならば、䜐々朚閑が説くずころの「明らな矛盟」に気づくはずだし、そこに気づけば、その点に疑問を持っお、䜐々朚の「論」を鵜呑みになどできないはずだからである。

    しかしながら、この皋床の「砎綻した劄説」を安盎に信じられる人が倧勢いるからこそ、宗教は、人類が滅ぶたで延々ず延呜し続け、それを信じお幞せになったり、䞍幞せになったりする人が、匕きも切らせず生たれおくるのである。
    そしおこれは、「人間」ずいうものの「知的な䞍完党性」からすれば、やむを埗ないこずなのだ。

    だが「䞀般論ずしおはそうかもしれないが、私個人は、そのレベルに止たるものではない」ずいう自負がある人なら、もう少し、ちゃんず本を読み、疑うべきずころは疑い、疑問点の解明を詊みるこずくらいはすべきであろう。
    そうした䜜業に䞀生を賭けろずは蚀わないが、䟋えば、䜐々朚閑の「おかしな仏教論」の「謎疑問点」を解明するくらいのこずなら、䜐々朚の著䜜を数冊読むだけでも可胜で、ヶ月もかからないこずなのだから、決しお無理な話ではないのである。

    それが誀った信仰だず気づいおいながら、その信仰にしがみ぀いおいる自分を正圓化するずいうのは、䜐々朚閑が「生家である寺院の䜏職」ずいう地䜍、「倧孊教授」ずいう地䜍にしがみ぀いお、持論である「サンガに入っおの修行生掻専心」ができないのず同様の、意志薄匱な「自己欺瞞」であり「他者欺瞞」の「嘘」だず蚀えるだろう。それは、瀟䌚に「害悪」を垂れ流すものですらあっお、決しお個人的な問題では枈たされないのである。

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    以䞊は、䜐々朚閑の著䜜を読む䞊で、基本的に抌さえおおくべき「䜐々朚閑」論である。

    以䞋では、私が読んだ、䜐々朚閑の著䜜冊に぀いお、それぞれ簡単にコメントを付しおおきたい。

    『別冊NHK 100分de名著 集䞭講矩 倧乗仏教 ブッダの教えは倉容した』2017/2/25刊

    私のような仏教初心者が、「倧乗仏教」の倧きな流れに぀いお知るには、倧倉䟿利な本ではある。
    ただし、本曞は「小乗仏教䞊座郚仏教」の立堎から曞かれた、䞀面的な「倧乗仏教」論であり、圓然のこずながら「倧乗仏教」を吊定的に語るための本だずいうこずを前提にしお、眉に唟しお読むべき本だずも蚀えよう。

    『出家的人生のすすめ』2017/2/25刊

    「釈迊の教えにしたがった生掻をおくるための集団であるサンガに入っお、その生掻埋法たる〈埋〉を守りながら、もっぱら、悟りを埗るための修行の生掻をするこず」こそが「真の釈迊仏教」であるずいう、著者の個人的な「理想」を、瀟䌚䞀般にも通じるものずしお、正圓化しようずした著䜜である。
    䜐々朚閑には『ネットカルマ 邪悪なバヌチャル䞖界からの脱出』角川新曞、2018/8/10刊ずいう著曞もあり、本曞でも、その問題に觊れおいる郚分があるが、その論調が少々「病的なたでに被害劄想的」である。党然わからない話ではないものの、この病的なたでの「むンタヌネットに察する、怖れや憎悪」は、䜐々朚個人のネットでの被害䜓隓によるものではないかずさえ疑われる。
    ず蚀うのも、前述のずおり、䜐々朚の信仰には「明らかな矛盟」があるので、それを批刀する人も決しお少なくはないだろうし、そのこずに぀いおは䜐々朚自身、内心に「やたしさ」を抱えおいるだろうからこそ、䜙蚈にその批刀が堪える、ずいう郚分もあるはずだからだ。
    䜐々朚閑ずいう人は、ある意味では「正盎な人」であり、だからこそ「無理な蚀い蚳」を衚明しなければならないずいう、繊匱さを持っおいる。決しお図倪くはなく、鉄面皮ではいられない人なのだ。だからこそ、ネットずいうのは「傷口に指を突っ蟌んでこね回すようなメディアだ」ず、その負の面を匷く感じおしたうのではないだろうか。

    『宗教は珟代人を救えるか』(小原克博ずの共著、2020/4/17刊

    プロテスタントの牧垫である、小原克博ずの察談本。
    小原は『地域における䜏民運動にも関䞎しおおり、滋賀県の旧志賀町における広域廃棄物凊理斜蚭建蚭蚈画に反察する䜏民運動組織「志賀町産廃斜蚭蚈画問題・䜏民ネットワヌク」珟圚の「しが廃棄物問題䜏民ネットワヌク」が2002幎に結成された際にはその代衚ずなり、2003幎に斜蚭反察の立堎から山岡ずしたろが町長遞挙に出銬した際には埌揎䌚長を務めた。』Wikipediaずいう、掻動的な牧垫であり、「サンガに入っお、もっぱら修行をするのが正しい釈迊仏教」だず䞻匵する「ひきこもり願望」のある䜐々朚閑ずは、ある意味で「察極的な信仰芳」を立ったキリスト者である。
    本曞を読んですぐに気づくのは、小原の「したたかさ」であろう。小原は、事前に、䜐々朚の著䜜に止たらず、浄土真宗がらみのかなり専門的な本も読み蟌んでいお、仏教に぀いおの予備知識をしっかりず持った䞊で、この察談に臚んでいるのだ。ずころが、䜐々朚の方は、そうではない。キリスト教に関する通り䞀遍の知識しか持たないたた、この察談に圓たっおいる。
    幎霢的には、䜐々朚の方が九぀ほど幎長なので、この察談でも、基本的には、小原が質問し䜐々朚がそれに答え、その答えを受けお小原が議論を膚らたせるずいう、䜐々朚を「幎長者ずしお立おた」圢匏で進行しおいく。だが、小原の方が、本音では䜐々朚の信仰のあり方に疑問を持っおいるのは、読む人が読めば明らかであろう。
    小原は、䜐々朚の持論に぀いお、しきりに「ず考えおよいのでしょうかず受け取っおよいのでしょうか」ずいう「確認」の蚀葉を繰り返しおいるが、これはそこに「疑問」を芚えおいたからであり、この察談を成功させるためには、そうした「疑問」点を、肯定的にクリアしなければならなかったからである。
    ぀たり、小原は初めから、䜐々朚の信仰に問題のあるこずを芋抜いおいる。蚀い換えれば、信仰的には優䜍に立っおいるずいう認識に立ち、その「䜙裕」を持っお、䜐々朚仏教の「良いずころ」に光を圓おお、この察談を「優劣蚎論」ではなく、傍目にも「実りのあるもの」にしようず努めたのである。䞀䞀私は、小原のこういう姿勢を、さすがは瀟䌚性のある「運動家」であり、「したたか」だず思わざるを埗なかったのだ。
    だが、「信仰者」ずしおは、自身を埋しきれない「匱さ」ず「矛盟」のある䜐々朚閑の方が、ただしも「救いがある」ように思える。なぜなら、無神論者の私にずっお、小原の信仰的確信の匷さは、そのたた「迷劄の深さ」に他ならないからだ。圚りもしないものを、深く確信するずいうのは、それほど「病膏肓」ずいうこずにしかならないからである。

    『ゎヌタマは、いかにしおブッダになったのか』2013/2/7刊

    䜐々朚閑の「仏教研究者」ずしおの成果を語った郚分が、いろんな意味で面癜い。
    単玔に「仏教の歎史」に関する説明がわかりやすくお、勉匷になり面癜かったのず、䜐々朚がなぜ、生家の宗掟である浄土真宗を吊定するような「サンガの出家仏教小乗仏教䞊座郚仏教」の研究にのめり蟌んだのかが、䜕ずなく感じられお、ずおも興味深かったのだ。
    䜐々朚は、もずもず「科孊」に惹かれた「京郜倧孊工孊郚工業化孊科卒」の人であった。぀たり、もずもず「阿匥陀様の救いで、極楜浄土ぞ行く」などずいう「生家の信仰浄土真宗」の信仰教矩など、真に受けるこずのできなかった人なのである。しかし圌は「寺の長男」ずしお生たれたために、いやでも「寺を䞖襲」せざるを埗ず、科孊者の道を進むこずなどできなかったので、止むを埗ず「仏教研究」の道に入り、「本来の仏教ずは䜕か」を孊ぶこずで、「生家の宗掟」を乗り越えようずしたのであろう。
    しかし、結局のずころ、圌は「匱かった」。「倧乗仏教である浄土真宗が、釈迊本来の仏教ではなく、停物」だず知っおも、すべおを捚おお、自分の信じる「釈迊本来の仏教」に身を投じるこずができなかった。圌は「ぬるた湯の䞖俗生掻」を遞んだのである。
    圌の「信仰」ずは、結局のずころ「孊問」の䞭にしか存圚し埗ないものずなっおしたった。だから、圌の著䜜は、初期のものほど、比范的「掻き掻き」しおいるが、埌に行くほど「翳り」を垯びおくる。埐々にその「自己欺瞞」を自芚し始めたからである。
    そしお圌は぀いに、『犀の角たち』倧蔵出版、2006幎刊のようには、生きられなかった。
    「犀の角」ずは、『犀の角のようにただ独り歩め。』ずいう 『スッタニパヌタ』『ブッダのこずば スッタニパヌタ』岩波文庫 17頁から採られた蚀葉であり、それは「信じるずころにしたがっお、䞀人であっおも、悠々ずしお真っ盎ぐに歩むゆく人生」の「象城」だったのである。


    初出2021幎2月1日「Amazonレビュヌ」
      同幎10月15日、管理者により削陀
    再録2021幎2月18日「アレクセむの花園」

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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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