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野間宏 『青幎の環』ず 戊埌文孊  文孊がただ〈文孊〉であった時代

    曞評城谷雄高線『『青幎の環』論集』河出曞房新瀟

    過日、幎来の課題だった、野間宏の『青幎の環』党巻を読むこずができ、レビュヌをアップした。
    なにしろ、各巻が500頁前埌の分厚さだし、野間宏の文䜓ずいうのは、粘り気のある執拗なものなので、その読みにくさずいったらなかった。特に、最初の方がその最たるものだったから、量的にも内容的にも、かなりの難物だったのである。

    で、読んでみおどうだったかずいうず、正盎蚀っお、ずうおい理解できたずは蚀い難い。

    別に難しいこずが曞いおあるわけではないのだが、䜜者が「䜕を描きたかったのか」が刀然ずぜず、ずにかく執拗な䞻芳描写ず、延々ず続く䌚話が、亀互に出おくるような、珟代の感芚から蚀えば、退屈を通り越しお、苊痛極たりない、およそ、゚ンタヌティンメント性の「゚」の字もないような、「玔文孊の䞭の玔文孊」であったず蚀えるだろう。

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    私は、前期レビュヌの䞭で、同䜜を次のように評しおいる。

    『私がこの䜜品に感じた「しんどさ」「合わなさ」は、䞻にその「鈍重さ」にあったず蚀えるだろう。
    䟋えば、この二人の䞻人公だが、どちらも「察しが悪く、独り合点」である。぀たり、端的に蚀っお「あたり頭が良くない」のだ。

    「本栌ミステリ」ファンである私ずしおは、「名犯人ず名探偵」「欺く䜜家ず看砎する読者」的な、頭の良い者どうしが䞁々発止でギリギリのやり取りをするような小説が読みたいのだが、残念ながら本䜜『青幎の環』の二人の䞻人公は、二人ずもそういう「䞻人公らしい䞻人公」ではなく、わざわざ物語を停滞させるような独りよがりに嵌たり蟌みがちだし、繰り返しの倚い、くどい議論を執拗に繰り返しおくれる。
    それで、読たされるこちらは心底うんざりさせられるわけだが、しかし、そこには、今の「゚ンタメ小説」は無論、「今の玔文孊」にも存圚しないような、「手段を遞ばないリアリズムの远求」を芋るこずができる、のではないだろうか。

    たしかに、「察しが悪く、独り合点」な「面倒くさい䞻人公たち」であり、その意味でおのずず「しんどい」「合わない」小説なのだが、しかし「こういうこずっお、よくあるよな」ずも思うし「人間、だいたいこんなものだよね」ずも思う。本䜜は、そういう「思い圓たる節」を仮借なく突き぀けおくるからこそ、読者を、少なくずも私を「うんざり」させるのではないだろうか。「そんなのは、珟実の方で間に合っおいるから、小説でたで読みたくはない」ず思わせるのではないか。』

    そう、私は、この䜜品をお䞖蟞にも「楜しめた」ずは蚀えないが、しかし、ここに䜕か「滅倚にないもの」があるずいうのには気づいた。
    今の䜜家が、決しお曞こうずはしない非効率的な䜕か、野間宏がその執拗さを持っお、20幎の歳月のかけおでも远求した䜕かが、この䜜品には描かれおいるのだ。
    それが、成功したかどうかは、よくわからないが、ずにかく野間が䜕かを、今どきは、決しおお目にかかれないであろう䜕かを、必死に描こうずしたこずだけは感じ取れたのである。

    だから、この「䜕か」を、がんやりずよくわからないたたにしお、『青幎の環』を読了したこずだけで満足するずいうのは、いかにも勿䜓ないこずだし、そこで枈たせおは、どこか萜ち着かないずも思った。
    そこで、すでに賌入しおあった、城谷雄高線の『『青幎の環』論集』を読むこずにした。少しは䜕かが埗られるだろうず思ったのである。

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    ずころが、この本もたた、なかなかの難物であった。
    刊行されたの1974幎昭和49幎で、䞊䞋二段組340頁䜙の本であり、そこに、ほずんど改行のない圓時の論文が、びっしり収録されおいるのだから、これも、それなりの芚悟がないず読めない本だ。
    ちなみに、半䞖玀近く前の本なのに、定䟡が1500円ずは、かなりのもので、今なら5000円を䞋らない本だろう。ず蚀うか、出版䞍況で、玔文孊などさっぱり売れない珟圚なら、こんな本は出せなかったであろう。
    この圓時は、『青幎の環』が20幎をかけお完結したずいうのを、䞀般の新聞玙が蚘事にしたような時代であり、党巻で完結した単行本は、かなり売れたずいうのだから、良い時代であったのだろう。
    買った人の半分ほども読了できたかどうか、かなり疑わしいずは蚀え、圓時の日本人は、「嚯楜䜜品」ではない、「文孊䜜品」に挑む気抂は持っおいたのである。

     ○ ○ ○

    さお、本論集を読んで教えられたのは、野間宏は本䜜『青幎の環』をもっお、日本で初めおの「党䜓小説」を曞こうずした、それに挑んだのだ、ずいうこずである。

    「党䜓小説」ず蚀っおも、䜕のこずだか、倚くの人はわからないだろう。今時の文芞評論家にもわからないだろうし、私もわからなかった。

    しごく倧雑把に蚀えば、「党䜓小説」ずは、日本のそれたでの玔文孊の䞻流だった「人生の䞀断面を切り出す」ような䜜品の察極にある、「䞖界」を䞞ごず描こうずするような小説、だず蚀えるだろう。
    もっずも、䞖界を䞞ごず描くなどずいうこずは、物理的に䞍可胜なのだから、あくたでも意図ずしお「䞖界を䞞ごず、映し出した䜜品」ずいうこずであり、そこに描かれるのは、それたでの日本の文孊にもあった「心理・心境」ずいったこずだけではなく、「肉䜓」ずか「生理」ずいった身䜓性の問題、さらに「歎史」や「瀟䌚」や「文化」や「思想」ずいったこずたでを広く含み蟌んだ「総合的な小説」ずいうこずになる。

    そしお、そうしたものは、西欧の倧長線小説の傑䜜、ロゞェ・マルタン・デュ・ガヌル『チボヌ家の人々』ずかトルストむ『アンナ・カレヌニナ』ずいった䜜品でむメヌゞされ、単に「心理・心境」ずは違った小説、「物語性」の匷い倧きな小説ずしお「ロマン」ず呌ばれた。
    日本には、そうした「ロマン」が曞かれたこずがなく、「文孊」は小さくたずたる傟向があったのだが、文孊が真に「䞖界」ず向き合うためには、日本でも「ロマン」が曞かれねばならず、その先に「文孊」の未来がある、ずいう颚の考えられたようである。

    しかし、「ロマン」ず蚀っおも、「党䜓小説」ず蚀っおも、定矩があるわけではなく、それぞれの䜜家の「理想」や「目指すずころの違い」によっお、自ずずそれは、それぞれに「䌌お非なるもの」にならざるを埗ない。
    野間宏が『青幎の環』で目指したのは、サルトルが『自由ぞの道』で「党䜓小説」の達成に挑み、぀いに挫折したものを乗り越える、「党䜓小説」であった。

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    野間宏が、サルトルの「党䜓小説論」ずしお評䟡したのは、「神の芖点を排陀する」ずいうこずだった。

    嚯楜䜜品なら、それでも良いだろうが、「䞖界」をありのたたに描こうずする堎合、「神の芖点」を持ち蟌むのは、どう考えおも「ズル」でしかない。なぜなら、この䞖の䞭に「神の芖点」に立ち埗おいる人間など䞀人もおらず、それぞれの芖点から、せいぜい客芳芖しようず努力しおいるに過ぎないからだ。

    だから、野間は、この点ではサルトルの考えを匕き継いだ。しかし、サルトルの倱敗にも、盞応の原因があったず考えた。
    それは、サルトルの圱響を受けたヌヌベルバヌグの䜜家たちの䜜品がそうであるように、特暩的な芖点を倱った途端に、それはバラバラに䞊立する芖点の寄せ集めずなり、なんずも捉えどころのない䞖界を描くものずなったしたったのだ。
    無論、それはそれで「衚珟」ずしおは面癜いのだが、やはり「この䞖界」の䞀郚ずしおの「人間のリアル」からは遊離しお、䜜家的な矎意識の産物に堕しおいるず、野間には、そう感じられたのではないか。

    したがっお、ただ「神の芖点」を拒吊するだけでは、䞍十分であり、人間は人間の芖点においお、「他者」を芋、「䞖界」を芋お、その関係性の網目の䞭で「他者」であり「䞖界」をそれなりに構築しおいるのだから、文孊が「䞖界」を描くこずを目指すのであれば、そうした方法を探らなければならないず考えお、その詊行錯誀を『青幎の環』においお行った、ず倧筋、このようなこずだったのであろう。
    野間の次の蚀葉は、そうしたこずを語っおいるのだず、私は解した。

    『 サルトルの「フラン゜ワ・モヌリアック氏ず自由」のなかには神の目を排し、しりぞけるずいう提蚀があるが、䜜䞭人物の自由をたも぀ために、䜜家は神の目をもっお䜜䞭人物を自由自圚に動かしおはならないずいうこずず芁玄しおよいだろう。これは非垞に重芁なものをふくんでいる蚀葉であり、䜜䞭人物が䜜品のなかで自分自身の自由を自分自身によっお遞び、発展をずげるため、その保蚌ずしお出されおいる蚀葉ずいっおよい。
     私はこのサルトルの蚀葉を重芁な蚀葉ずしお受取ったが、私は神の芖点を排するずいうこのサルトルの蚀葉を自身に受けずるずずもに、それに倧きな疑問をいだき䜜䞭人物を芋る目を、䜜䞭人物の䞻人公、その他䜜䞭人物の※ 個々の目ずはせず、䜜䞭人物の䞻人公、その他䜜䞭人物の目よりも、䞀たわり倧きい目を芋出す必芁があるず考え、「青幎の環」にあっおは、それを実行に移したのである。もちろん理論の実行ず䜜品の結晶䜜業ずはたた、たったく別のもので、私は出来るならば、倚くの批評がこの䜜品にたいしお、生たれでおくるこずを、心から期埅しおいる。〟
    小説の党䜓ずは䜕か䞀䞀「青幎の環」の完成たで・朝日新聞 昭和45幎11月26日、29日』

    本曞P291

    こうした、いかにも野間らしい「それかこれか」では枈たさないずいう個性に由来する方法論を、小田実は、野間の魅力を語っお、実に的確に指摘しおいる。

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    『 しかし、より根本的には、私は圌の䜜品のなかにある、もどかしさにひかれるのだろう。ダラダラず぀づく、くねくねず曲がる圌の文䜓にもよくあらわれおいるこずだが、圌の䜜品は䜕かもどかしいのだ。歯切れのわるいずころがある。スパッずいかないずころがある。裏がある、いや、裏のたた裏がある。そうしたものが私をひき぀ける。いや、ほんずうに、そうしたものが圌の文孊の最倧の魅力をかたちづくっおいるのではないか。
     そのもどかしさは、野間宏にすべおが刀っおいないずいうこずだろう。すべお芋通しでないずいうこずだろう。手もずに本がないので正確に匕甚できないが、圌の文孊論のなかにそんなこずを曞いたくだりがあった。䞀人のお婆さんがいお、そのお婆さんを曞こうず思っおも、自分には、どうしおも、圌女の歩き方、立ち方が刀らない。歩き方、立ち方の背埌にあるもろもろが぀かめない。いろんな手れん手くだを䜿っおみるのだが、どうしおも刀らないずころが残る䞀䞀あらたし、そんなふうなこずを、そのこずもたたもどかしげな文䜓で長々ず曞いおいたのだが、私は、圌のこうしたこずばが刀らないかぎり、野間宏の䜜品は刀らないのだず思う。手れん手くだのなかにはもちろんマルクシズムも入っおいるのだが、さお、こうなるず、方法は䞀぀しかない。野間宏自身が坂口安吟のこずばを匕甚しお述べおいたこずだが、䞖界をたるごず、䞀枚の玙でおおうようにしおずらえるよりほかにはない。ずいっおも、野間宏自身も䞖界のなかにいるので、それをずりもなおさず、内ず倖から䞖界をおおうずいう奇劙でたったく困難なこずになるのだが、野間宏の蚀う「党䜓小説」ずはたさにそんなふうなものであり、『青幎の環』は、そのみごずな䞀぀の䟋なのだろう。
    昭和43幎10月『青幎の環』月報Ⅳ』

    本曞P319

    そしお、石川淳は、野間宏ずは真逆に、無駄を削ぎ萜ずした蚀葉で、おきぱきず野間の個性を語る。

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    『 たしかに、人間の蚀動はい぀も簡朔におきぱきはこぶずはかぎらないのだから、たた粟神が俗に入っお運動するために小説ずいう圢匏があるのだから、ずきに冗長ず芋えるような蚘述は衚珟䞊の必然であっお、その長䞁堎が意倖な発明をうながす仕掛でもありうる。野間君の衚珟力はこの仕掛に乗っお、いわば十九䞖玀颚に䌌た手段を䜿うず芋せながら、よくこれをあたらしい技法に切りかえおいる。
     すなわち、そこに衚珟されおいるものはかならずしも垂井の雑事ずか人間の心理ずかではなくお、雑事を通しおおのずから人間の生掻ず時間ずの関係を語っおいるにひずしい。あっけらかんず間のびしたような、そのくせ足もずからじりじりせき立おお来るような時間ずいうもの。その時間の倖にはずれたずころでは、のんびりにしおも、あくせくにしおも、生きるこずができない人間ずいうもの。この執念ぶかい関係をあらわすには、タオルのビヌルのず、これだけ蚘述に手間をかけなくおはならぬのだろう。』本曞P333

    事ここに至っお、私がなぜ野間宏を楜しめなかったのは明らかだろう。芁は、私が「小説」に求めおいたものずは真逆のものを、野間は手探りで探求しおいたのである。

    自分で蚀うのもなんだが、私は「嚯楜䜜品ではない文孊玔文孊」ずいうものの「意矩」や、その「面癜さ」をそれなりに理解しお、最埌たでしんどい䜜品にも、それだけの䟡倀を有する䜜品の圚るこずを認めおいる人間なのだが、しかし、私自身が「嚯楜の時代」に生たれた人間であるずいう事実は吊定しえず、「耐えお読む」ずいうこずが、決しお「圓たり前」ではない時代状況の䞭で、頑匵っお、読んできた人間なのだ。だから、おのずずその「限界もあった」ずいうこずなのであろう。

    そしおたた䜕よりも、私個人の個性ずしお、野間宏的な、その粘着質で䞖界を絡め取るずいうようなやり方ではなく、石川がいうずころの『簡朔におきぱき』ずやるのが「奜み」だったのである。
    わかりやすく蚀えば、論理的にスパッスパッず切っおいき、分解しお説明するような「明晰さ」が奜きであり、だからこそ前掲の『青幎の環』のレビュヌで、私は、

    『私がこの䜜品に感じた「しんどさ」「合わなさ」は、䞻にその「鈍重さ」にあったず蚀えるだろう。
    䟋えば、この二人の䞻人公だが、どちらも「察しが悪く、独り合点」である。぀たり、端的に蚀っお「あたり頭が良くない」のだ。

    「本栌ミステリ」ファンである私ずしおは、「名犯人ず名探偵」「欺く䜜家ず看砎する読者」的な、頭の良い者どうしが䞁々発止でギリギリのやり取りをするような小説が読みたいのだが、残念ながら本䜜『青幎の環』の二人の䞻人公は、二人ずもそういう「䞻人公らしい䞻人公」ではなく、わざわざ物語を停滞させるような独りよがりに嵌たり蟌みがちだし、繰り返しの倚い、くどい議論を執拗に繰り返しおくれる。』

    ず曞いおいたのだ。

    ぀たり、私の奜みずは、「神のごずき名探偵」的な「明晰で決定的な掞察」が描かれた䜜品であり、ぬかるんだ塹壕の䞭を必死で這い回る兵隊のような「執念」ではなかった、ずいうこずなのだ。
    そしお、そうした意味で私自身もたた、安易に「神の芖点」ずいう「虚構」に甘やかされおいた、「消費瀟䌚の毒におかされた人間」の䞀人だったのである。

    小田実が蚀うように、野間宏が『青幎の環』においお目指した「党䜓小説」ずは『䞖界をたるごず、䞀枚の玙でおおうようにしおずらえるよりほかにはない。ずいっおも、野間宏自身も䞖界のなかにいるので、それをずりもなおさず、内ず倖から䞖界をおおうずいう奇劙でたったく困難なこず』であり、論理的に蚀えば、明らかに「䞍可胜な䌁お」だったず蚀えるだろう。

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    だが、それを「冷笑」しお芋せるしかないのが、珟代の「嚯楜小説」読者であっおみれば、私は、野間宏をはじめずする、高みに手を䌞ばそうずしおいた「玔文孊」䜜家たちの偎に぀きたいず思う。

    結果や成果が問題ではないのだ。䜕を望み、䜕を目指し、どのようにしお曞いたのかが、真の問題なのである。
    なぜならば、それこそが「曞き手の生」であり、それが「私ずいう䜜品」だからである。

    2022幎6月31日

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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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