
第10話「春の匂い」
桜が咲いた。
住宅街の空気が少し変わる。
人間は花が好きだ。
理由はよく分からない。
昨日までただの木だったものを、
急に見上げ始める。
立ち止まる。
写真を撮る。
笑う。
忙しそうな人間まで、
少しだけ歩く速度を落とす。
春という季節は、
人間を少しだけ優しくするらしい。
あたしは桜並木の下を歩いた。
風が吹く。
花びらが流れる。
その先で、
見覚えのある女がしゃがんでいた。
餌やりおばさんだった。
今日も何匹かの猫が集まっている。
茶トラ。
三毛。
白黒。
そして、
片耳の先が三角に切れた猫。
女は一匹ずつ顔を見る。
数える。
何かを確かめる。
猫たちが食べ終わるまで、
黙って見ている。
不思議な人間だった。
得をするわけでもない。
褒められるわけでもない。
それでも来る。
人間は時々、
理由の分からないことを続ける。
でも、
嫌いじゃなかった。
その日の夕方。
桜並木の向こうに、
あの少女がいた。
ランドセル。
少し急ぎ足。
少女はあたしを見つけると、
立ち止まった。
「いた」
それだけ言う。
最近、よく聞く言葉だった。
少女は近づかない。
あたしも近づかない。
でも、
その距離は前より少しだけ短くなっていた。
風が吹く。
花びらが少女の肩に落ちる。
少女は気付かない。
人間は案外、
そういうことに気付かない。
その時だった。
道路の向こうから、
小さな鳴き声が聞こえた。
高い声。
まだ幼い。
子猫だった。
生まれて間もないのだろう。
どこから来たのか、
道路脇で立ち尽くしている。
周囲を見回しているが、
母猫の姿はない。
少女も気付いた。
「あ……」
少女は一歩踏み出した。
その瞬間だった。
角を曲がって、
車が一台入ってくる。
速くはない。
でも、
子猫には十分すぎる。
子猫は動かない。
少女も動けない。
ほんの一瞬。
本当に短い時間だった。
あたしは考えなかった。
体が先に動いた。
道路へ飛び出す。
子猫の首筋を咥える。
重い。
でも構わない。
反対側の植え込みまで走る。
車はそのまま通り過ぎた。
何事もなかったように。
少女だけが立ち尽くしている。
子猫は震えていた。
あたしは鼻先で軽く押す。
生きている。
それで十分だった。
少女は何か言おうとした。
でも言葉にならなかったらしい。
しばらく黙ったまま、
こちらを見ていた。
やがて小さく笑った。
それから。
「よかった」 と言った。
あたしは耳を動かした。
風が吹く。桜の花びらが舞う。
子猫はいつの間にか、
植え込みの奥へ消えていた。
住宅街は静かだった。 何も起きていないみたいに。
でも、
あたしの胸だけが少し騒がしかった。
なぜだろう。
よく分からない。
ただ、
春の匂いがした。