
第9話「忘れる人、覚えている犬」
住宅街には、毎日同じ時間に現れる人間がいる。
あたしは最近、
それを少しずつ覚えるようになった。
朝七時ごろに犬を散歩させる男。
昼前になると買い物へ出る女。
夕方になると自転車で帰ってくる高校生。
人間は自由そうに見えて、案外決まった時間に動いている。
ある日の昼下がり。
あたしは桜並木の下を歩いていた。
まだ花は咲いていない。
枝だけが空へ伸びている。
風は少し暖かかった。
その時だった。
「あら」
声がした。
振り返ると、小柄な老婆が立っていた。
白い帽子。
買い物袋。
少し曲がった背中。
老婆はあたしを見ると、
嬉しそうに笑った。
「あらあら、黒ちゃん」
黒ちゃん。
誰のことだろう。
辺りを見回したが、他に猫はいない。
どうやら、
あたしのことらしい。
「久しぶりねぇ」
老婆は言った。
あたしはこの人を知らない。
でも、
少なくとも危険ではない。
そう思った。
老婆はゆっくりしゃがみ込み、
あたしの頭を撫でた。
手は軽かった。
風みたいだった。
「元気だった?」
人間は時々、
知り合いでもない相手に、
昔から知っていたような顔をする。
かなり不思議だった。
翌日。
また同じ場所で会った。
老婆は立ち止まり、
少し首を傾げた。
「あら」
そして言った。
「どこの猫かしら」
昨日のことを、
忘れているようだった。
あたしは何となく、
その場に座った。
老婆は少し考え込み、
それから笑った。
「まぁいいわ」
人間の記憶というのは、
案外いい加減らしい。
でも、
その翌日も。
また翌日も。
老婆は同じ道を歩き、
同じようにあたしへ声をかけた。
覚えている日もあれば、
忘れている日もある。
不思議な生き物だった。
それでも、
撫でる手だけは、
いつも優しかった。
ある日の夕方。
桜並木の向こうから、
大きな犬が現れた。
黒と茶色の混じった大型犬。
その横を、
老人が歩いている。
無口そうな男だった。
犬はあたしを見つけると、
立ち止まった。
あたしも止まる。
しばらく見つめ合う。
犬は吠えない。
あたしも威嚇しない。
ただ風が吹く。
老人が言った。
「ほら、行くぞ」
でも犬は少しだけ動かない。
その目は、
何かを確かめるようだった。
あたしたちは、
時々、言葉を使わない。
使わなくても分かることがある。
この犬は、
多分、そういうことを知っている。
犬は一度だけ鼻を鳴らした。
それから、
何事もなかったように歩き出す。
老人もついていく。
夕陽が長い影を伸ばしていた。
住宅街の一日は、
静かに終わろうとしていた。
その時だった。
「あっ」
小さな声が聞こえた。
振り返る。
あの少女だった。
ランドセルを背負ったまま、
道の向こうに立っている。
少女は少し息を切らしていた。
まるで、
探していたものを見つけたような顔だった。
「いた」
それだけ言った。
そして、
少し安心したように笑った。
あたしは首を傾げる。
何がそんなに嬉しいのか、
よく分からない。
でも、
少女はそれ以上近づいてこなかった。
ただ、
そこにいる。
あたしも、
そこにいる。
しばらく風だけが通り過ぎた。
桜の枝先には、
小さな蕾が膨らみ始めていた。
春は、
もうすぐそこまで来ているらしい。