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第1話「名前はまだ無い」 


     名前はまだ無い。

     別に困ったことはない。

     人間は何にでも名前をつけたがる。猫にも、犬にも、川にも、嵐にも、感情にも。時には、自分の孤独にまで名前をつけて安心しようとする。

     けれど、あたしたちには必要ない。

     匂いと、歩き方と、沈黙の癖で十分だからだ。
     だから「あたし」と呼べば、大抵のことは済む。

     年齢も知らない。
     ただ、商店街の裏でいつも段ボールに座っている占い猫のおばちゃんが、ある日こう言った。
    「んー……あんた、多分二歳くらいだね」
     だから、そういうことにしている。

     別に違っていても構わない。

     人間は数字が好きだ。年齢、体重、年収、フォロワー数。数字があると、自分が何者なのか分かった気になれるらしい。

     不思議な生き物だと思う。
     夜のコンビニ裏は暖かい。
     室外機の風が出ているからだ。

     冬になると、猫たちは自然とここへ集まる。けれど、ずっと居座ると店員に怒鳴られるので、みんな適当に距離を取る。人間社会には、見えない縄張りが多すぎる。

     あたしはコンビニのガラス越しに、人間を見るのが好きだった。

     疲れた顔の男。
     意味もなく笑っている学生たち。
     スマホを見ながら無表情で歩く女。
     酔っぱらって大声を出す会社員。
     みんな、どこか壊れかけているように見える。
     でも本人たちは、多分気づいていない。

     人間は、自分が壊れていることに鈍感だ。

     その代わり、他人の壊れ方には敏感だった。

     ある夜、コンビニの前で若い男と女が喧嘩していた。

    「もう無理だから」
     女が言った。
    「お前さ、そうやってすぐ逃げるよな」
     男が言った。
     あたしには、何が無理なのか分からなかった。
     生きることだろうか。
     隣にいることだろうか。
     それとも、人間でいることだろうか。
     女は泣いていた。
     男は怒っていた。

     でも、生物言語では、あれはどちらも“悲しい”に近かった。

     人間は、悲しい時ほど、複雑な鳴き方をする。
     やがて女は走って去り、男はコンビニの壁を蹴った。

     それから缶コーヒーを二本買って、一本を飲まずにゴミ箱へ捨てた。

     意味が分からない。
     人間は時々、食べ物や気持ちを、簡単に捨てる。
     あたしは、少しだけ冷えた缶コーヒーの匂いを嗅いだあと、室外機の横へ戻った。

     夜風は冷たかった。
     遠くで電車の音がした。
     街はいつも、何かを運び続けている。
     その途中で、たくさんの人間が疲れていく。
     しばらくすると、自動ドアが開いた。
     中年の男が出てきた。

     灰色のコート。
     コンビニの白い袋。
     目だけが妙に疲れている。
     男はあたしを見ると、一瞬立ち止まった。
     でも話しかけてはこなかった。

     人間は、本当に寂しい時ほど、急に静かになる。
     男は袋の中から、唐揚げを一つ取り出した。
     そして何も言わず、あたしから少し離れた場所へ置いた。

     それだけだった。
     名前も呼ばない。
     撫でもしない。
     写真も撮らない。
     ただ、唐揚げだけ置いて去っていく。
     変な人間だった。

     あたしはしばらく男の背中を見ていた。
     街灯に伸びる影が、少し曲がっていた。
     唐揚げは、まだ温かかった。

     人間は時々、意味不明に優しい。
     だから、最後まで油断できない。




    (ご挨拶)
     ここから、少しだけ新しいことを書いてみようと思います。

     これまで続けてきたAIシリーズとは少し違いますが、根っこにある「人間とは何か」というテーマは、多分どこかで繋がっています。

     主人公は、一匹の名前の無い黒猫。
     人間を観察しながら、生きています。
     しばらく、この奇妙な連載に付き合っていただけたら嬉しいです。


    #創作大賞2026 #オールカテゴリ部門

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    Toshiyuki Tanaka|またの名は「昔を知る未来難民。」 昭和の情緒を引きずったまま、令和を観察中。家族、孤独、承認欲求、SNS時代の違和感について書いています。 これから、単発だけでなくシリーズ化したエッセイも書いていくつもり。 よろしくお願いします。

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