
第3話「街の匂いが変わる」
街の匂いが、少し変わった。
春が近いせいかもしれない。
若いオス猫たちが増え、夜になると、あちこちで鳴き声と喧嘩が始まる。
繁華街は相変わらず明るかったけれど、最近は少し騒がしすぎた。
大声。
笑い声。
スマホの光。
酔っ払い。
誰かの怒鳴り声。
眠らない街というより、眠れなくなった街みたいだった。
あたしは高架下のガードレールに座りながら、人間たちを眺めていた。
始発前の空気は冷たい。
夜と朝の間だけ、街は少し静かになる。
その時間が、あたしは嫌いじゃなかった。
配送用のトラックが何台も並び始める。
コンビニ。
スーパー。
居酒屋。
人間たちの生活は、夜明け前から運ばれている。
作業服の男たちは、みんな眠そうな顔をしていた。
煙草。
缶コーヒー。
欠伸。
誰とも目を合わせない会話。
人間は群れる生き物なのに、朝だけは少し野良猫に似ている。
その中に、一台だけ古い軽トラックが混じっていた。
白い車体。
少し錆びたドア。
荷台にはブルーシートと段ボール箱。
魚と土埃と、鉄の匂い。
どこか遠くの空気が混ざっていた。
運転席から、小柄な男が降りてくる。
六十くらいだろうか。
グレーの作業着。
擦り切れた手袋。
男は自販機の前で立ち止まり、温かい缶コーヒーを買った。
それから空を見た。
まだ薄暗い。
ビルの隙間から、朝が少しずつ滲み始めている。
男は缶コーヒーを飲みながら、小さく息を吐いた。
疲れている匂いだった。
でも、生物として完全には止まっていない匂いでもある。
人間には時々、そういう者がいる。
壊れかけながら、まだ動いている者。
あたしは何となく、その軽トラックの荷台へ飛び乗った。
理由なんて、それくらいで十分だった。
ブルーシートの隙間は暖かかった。
エンジンの振動が、身体の下から伝わってくる。
しばらくすると、男が戻ってきた。
気づいていない。
人間は、自分の視界の外にいるものには驚くほど鈍い。
エンジンが唸る。
軽トラックがゆっくり動き出した。
街が流れ始める。
最初は見慣れた繁華街だった。
大型ビジョン。
閉まったシャッター。
酔いつぶれた男。
朝帰りの若者たち。
コンビニの白い光。
でも、しばらくすると景色が少しずつ変わっていく。
高いビルが減り、古いマンションが増える。
さらに進むと、小さな家が並び始めた。
ベランダの洗濯物。
新聞配達のバイク。
犬の散歩。
眠そうな高校生。
朝の住宅街には、夜の街とは別の疲れ方が漂っている。
静かな疲労だった。
軽トラックは赤信号で止まった。
荷台の隙間から、小さな公園が見える。
ブランコ。
滑り台。
砂場。
誰もいない。
でも、昨日までの子供たちの匂いだけが残っていた。
人間は、いなくなった後にも気配を残す。
あたしたち動物より、その匂いが長い。
再び車が動き出す。
道路沿いには、古い工場が増えてきた。
鉄。
油。
焦げた金属。
朝の光の中で、人間たちが無言でシャッターを開けている。
街が目を覚ます瞬間だった。
あたしは荷台の奥で小さく丸くなった。
この街には、まだ知らない匂いが残っている。
そんな気がした。
少しずつ、この黒猫の行動範囲も広がってきました。
繁華街から住宅街へ。
夜の街から、生活の匂いが残る朝の街へ。
人間たちは、場所が変わるだけで、見せる顔もずいぶん変わります。
しばらく、「あたし」と一緒に街を漂っていただけたら嬉しいです。