
第6話「雨が止んだあと」
朝からずっと雨だった。
工場の音は、 雨の日だけ少し鈍くなる。
鉄を削る音。
機械の振動。
フォークリフトの警告音。
全部、 濡れた空気の奥へ沈んでいく。
人間たちは、 雨の日になると少し機嫌が悪い。
靴が濡れる。
荷物が遅れる。
服が重くなる。
空まで低い。
生き物は、 思っているより天気に左右される。
守衛室の男は、 朝から何度もタオルで床を拭いていた。
古株の職人は、 煙草の火がつきにくいと舌打ちしていた。
若い作業員たちは、 「だる……」を繰り返している。
でも、 事務所の女だけは、 朝から妙によく喋っていた。
「はいはーい、伝票こっちですー」
「え、また機械止まったの?」
「もー、勘弁して下さいよー」
明るい声。
笑い声。
軽い冗談。
工場の人間たちは、 ああいう者が一人いるだけで、 少しだけ呼吸が楽になる。
でも今日は、 笑う回数が少し多すぎた。
生き物は、 無理に明るくすると、 呼吸が浅くなる。
昼過ぎになると、 雨は止んだ。
灰色だった空が、 少しだけ白くなる。
工場裏のアスファルトは、 まだ濡れていた。
喫煙所には誰もいない。
湿った煙草の匂いだけが残っている。
あたしは、 濡れた室外機の上から、 ぼんやり工場を見ていた。
その時、 事務所の女が一人で出てきた。
手には缶コーヒー。
でも、 飲む様子はない。
女は喫煙所の横へ立ったまま、 ただ空を見ていた。
スマホの画面が一度光る。
女は見る。
少しだけ眉が動く。
それから、 画面を閉じた。
ため息は吐かなかった。
でも、 置いていかれそうな匂いがした。
あたしは室外機から降り、 女の足元へ近づいた。
「……あ」
女は少し驚いた顔をした。
それから、 いつもの笑顔を作りかけて、 途中でやめた。
あたしは一度だけ鳴いた。
特に意味はない。
でも、 人間は時々、 意味を欲しがる。
女はゆっくりしゃがみ込み、 あたしの頭をそっと撫でた。
その手は、 少し冷たかった。
「……あんた、妙に暖かいね」
小さな声だった。
あたしは別に、 特別なことはしていない。
ただ、 そこにいただけだ。
でも人間は時々、 誰かが“そこにいる”だけで、 少しだけ壊れずに済むことがあるらしい。
かなり不思議だった。
遠くで、 午後の始業ベルが鳴る。
女は立ち上がり、 制服の裾を軽く払った。
「よし」
誰に言ったのか分からない。
でも、 少しだけ呼吸が戻っていた。
女は工場へ戻っていく。
守衛室の男は新聞を読み、 古株の職人は煙草を吸い、 若い作業員たちは文句を言いながら働いている。
人間たちは、 毎日いろんなものに疲れている。
それでも、 次の日になると、 またここへ戻ってくる。
工場という場所は、 巨大な機械というより、 疲れた生き物たちの巣に近かった。
夕方になると、 雨上がりの空に、 薄い光が残っていた。
あたしは守衛室のカウンターへ飛び乗り、 しばらくその景色を見ていた。
この街にも、 少し慣れてきた気がする。
でも、 あたしは多分、 どこにも完全には馴染まない。