
第7話「川の向こう側」
工場へ通わなくなって、 何日か経った。
理由は特にない。
あたしたち生き物は、 時々、 同じ場所に長く居すぎると、 少し息苦しくなる。
守衛室の灯りも、 煙草の匂いも、 嫌いじゃなかった。
でも、 それだけだった。
朝の空気は少し湿っていた。
あたしは川沿いの堤防を歩いていた。
幅の広い川だった。
水はあまり綺麗じゃない。
でも、 空だけはちゃんと映している。
堤防の道はアスファルトだったが、 車はほとんど通らない。
時々、 自転車の老人が通るくらいだ。
風が強い。
草が揺れる。
河川敷では、 少年たちがサッカーボールを蹴っていた。
遠くで、 犬が吠える。
白い鳥が、 ゆっくり水面へ降りる。
あたしは少し立ち止まり、 その様子を見ていた。
鳥たちは、 人間より静かに生きている。
でも、 どこか人間より忙しそうでもある。
草むらには、 小さな虫が大量にいた。
羽音。
土の匂い。
野花。
春と夏の間みたいな風。
街の真ん中にいた頃より、 世界の音が増えた気がした。
しばらく歩くと、 古い商店街へ出た。
アーケード。
色褪せた看板。
閉じたシャッター。
割れかけたタイル。
かなり静かだった。
昔はもっと、 賑わっていたのだと思う。
その匂いだけは残っている。
肉屋。
八百屋。
文房具屋。
電気屋。
人間は、 いなくなった後にも、 場所へ気配を残す。
でも今は、 大きなスーパーへ行くらしい。
広くて、 明るくて、 駐車場が大きい場所。
人間は便利な方へ集まり、 そのあとで、 寂しくなった場所を懐かしがる。
かなり不思議だった。
商店街の真ん中で、 小さな惣菜屋だけが開いていた。
店先にはコロッケの匂い。
油。
ソース。
古い換気扇の音。
「……あら」
店の奥から、 丸い顔のおばちゃんが出てきた。
「あんた、どっから来たの」
あたしは答えない。
人間は、 返事が無くても勝手に会話を続ける。
「黒猫って、 夜だと急に出てくるからびっくりすんのよねぇ」
おばちゃんは笑いながら、 小さな竹輪をちぎって置いた。
かなり慣れている手つきだった。
商店街には、 時々こういう人間がいる。
誰かを世話することに、 慣れすぎている人。
夕方になると、 商店街の外れにある銭湯から、 少しずつ人が出てきた。
暖簾。
煙突。
石鹸の匂い。
湯気。
濡れた髪。
男たちは、 腰にタオルを巻いたまま、 瓶の牛乳を飲んでいる。
女たちは、 買い物袋をぶら下げながら笑っていた。
子供が走る。
下駄箱の音。
番台のテレビ。
ローカルニュースの番組。
少し昔の時間が、 まだ残っている場所だった。
若い人間は少ない。
でも、 完全には終わっていない。
そんな匂いがした。
「あ、また猫いる」
風呂上がりの少年が、 あたしを見つけた。
でも、 追いかけてはこなかった。
母親らしい女が、 「触ったらダメよ」 とだけ言う。
人間は、 大事なものほど、 触れないよう教える時がある。
あたしは商店街の端へ座り、 少し暗くなり始めた空を見ていた。
遠くで、 川風が吹いている。
シャッターの閉まった店の前を、 自転車が一台、 ゆっくり通り過ぎた。
この街は、 少しずつ古くなっている。
でも、 完全には消えきれないものが、 まだあちこちに残っていた。
あたしはそれを、 何となく嫌いじゃなかった。