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第8話「橋の向こうの住宅街」

     前に歩いた川沿いの道へ、 また戻ってきた。
     理由はよく分からない。

     でも、 あたしたち生き物は、 時々、 同じ場所をもう一度確かめたくなる。

     風は少し冷たかった。
     堤防の草が揺れている。
     空は薄い灰色。
     川の水は相変わらず濁っていた。

     でも今日は、 前には気づかなかった橋が見えた。
     古い橋だった。
     白い塗装は剥げ、 欄干には薄く錆が浮いている。
     あたしは橋へ上がった。

     人間たちが歩く横を、 足音を立てずに進く。
     橋の真ん中で、 ふと下を見る。
     川面の奥で、 大きな影が揺れた。
     魚だった。
     黒っぽい背中。
     ゆっくりした動き。
    「……鯉?」
     あまり綺麗には見えない水なのに、 妙に堂々としていた。
     住みやすい場所なんて、 生き物によって違うのかもしれない。
     あたしも、 人間も。

     橋を渡り切ると、 少し幅の広い道路へ出た。
     道路の両側には、 よく似た家が並んでいる。

     二階建て。
     小さな庭。
     駐車場。
     自転車。
     郵便受け。

     歩道には、 一定の間隔で桜の木が植えられていた。
     まだ咲いていない。
     枝だけだ。
     でも、 春になると、 ここは桜並木になるのだろう。
     きっと綺麗だ。

     人間は、 花が咲く時期だけ、 急に空を見上げる。
     不思議な生き物だった。

     住宅街は静かだった。
     遠くで犬が鳴く。
     洗濯物が揺れる。
     どこかで掃除機の音。
     生活というものは、 案外いろんな音を出している。

     しばらく歩いていると、 古い平屋が見えた。
     低い塀。
     盆栽。
     縁側。
     風で少し揺れる風鈴。
     そこに、 老人が一人座っていた。

     灰色のカーディガン。
     湯飲み。
     小さなラジオ。
     あたしは少し離れた場所で立ち止まった。
     老人はこちらを見た。
     でも、 特に驚かなかった。

    「……黒猫か」
     低い声だった。
     それだけ言って、 また庭を見た。
     かなり静かな人間だった。

     あたしは縁側の端へ飛び乗る。
     老人は追い払わない。 

     しばらく、 風の音だけが流れた。
     人間は、 若い頃ほど喋らなくなる。
     特に、 長く一人でいる人間ほど。
     やがて老人は、 小皿へ煮干しを置いた。

    「塩分あるから、  ほんとは良くねぇんだろうけどな」
     あたしは煮干しを咥え、 少し離れて食べた。

     老人はその様子を見ながら、 小さく笑った。
    「警戒心強ぇな」
     どこかで聞いたような言葉だった。

     でも、 人間はみんな、 少し似たことを言う。
     昼を過ぎる頃になると、 住宅街に子供たちの声が増え始めた。

     学校が終わったらしい。
     ランドセル。
     自転車。
     笑い声。
     走る音。
     その中に、 少しだけ静かな少女がいた。
     短い髪。
     紺色の靴。
     細い目。

     少女は少し離れた場所から、 あたしを見つけた。
    「あ……」
     小さな声。
     でも、 近づいてはこない。

     他の子供たちは、 すぐ別の遊びへ走っていった。
     少女だけが、 まだこちらを見ている。

     あたしも、 何となく少女を見返した。
     人間の子供は、 時々、 大人より静かな目をする。
     少女はランドセルの肩紐を握りながら、 少し迷うように立っていた。

     それから、 小さく手を振った。
     でも、 呼びはしなかった。
     そこが少し良かった。

     夕方の風が吹く。
     桜の枝が揺れる。
     老人は縁側で眠っていた。
     少女はもう帰っている。
     住宅街の空には、 薄いオレンジ色が広がっていた。

     この街には、 まだ知らない匂いが残っている。
     そんな気がした。



    第1話「名前はまだ無い」https://note.com/natty_llama5121/n/n48983938c013


    第2話「人間は、いつも何かを待っている」https://note.com/natty_llama5121/n/nc2c58b33625a


    第3話「街の匂いが変わる」https://note.com/natty_llama5121/n/n8e32214a143e


    第4話「守衛室の灯り」https://note.com/natty_llama5121/n/n52981938dbe1


    第5話「煙草の煙は、みんな少しだけ似ている」https://note.com/natty_llama5121/n/ndc1fd67cadaf


    第6話「雨が止んだあと」https://note.com/natty_llama5121/n/n55a811f213b3


    第7話「川の向こう側」https://note.com/natty_llama5121/n/nc6d3ec7102aa



    #創作大賞2026 #オールカテゴリ部門

     
     
    Toshiyuki Tanaka|またの名は「昔を知る未来難民。」 昭和の情緒を引きずったまま、令和を観察中。家族、孤独、承認欲求、SNS時代の違和感について書いています。 これから、単発だけでなくシリーズ化したエッセイも書いていくつもり。 よろしくお願いします。

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