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記憶を食べる恋人①

    あらすじ

    仕事帰りの雨の夜、祐は駅前で一人の女性・灯と出会う。彼女は価値観や趣味が驚くほど一致し、祐を深く理解する理想の存在だった。灯と過ごす時間は静かな幸福に満ちていたが、その日々と引き換えに、祐の記憶は少しずつ失われていく。かつての友人や家族との記憶は曖昧になり、灯だけが鮮明さを増していくことに祐は気づく。やがてそれが偶然ではなく、灯自身が“忘れられた痛み”から生まれ、他者の記憶を糧に存在する怪異であることを知る。愛するほど自分が消えていく恐怖の中で、祐は「彼女を失うこと」と「自分を失うこと」の間で選択を迫られる。

    第1話 日常のほころび

     目覚ましが鳴る三分前に、一度目が覚めた。

     何か夢を見ていた気がする。内容は思い出せなかった。誰かがいたような気もするし、どこか遠い場所にいたような気もする。目を開けた瞬間には、もう何も残っていなかった。
     なのに、心臓だけが嫌なことを覚えているみたいだった。

     枕に後頭部を押しつけたまま、天井のシミをしばらく見つめた。雨漏りの跡なのか、最初からあったものなのか、引っ越してきた三年前からずっとそこにある。
    なんとなく理由を考えかけて、やめた。別にどうでもいいことだ。

     アラームが鳴った。止める。起き上がる。
     それだけのことに、少し時間がかかった。

     キッチンに立って、電気ケトルのスイッチを入れた。
     棚からマグカップを取り出す。少しくすんだ白いやつ。飲み口のところに小さな欠けがある。ずっと前についたものだ。捨てるほどでもないから使い続けている。
     手に持ったまま、マグカップを見つめた。
     誰かと揃いで買った気がする。そういう感覚だけが、唐突にやってきた。

     いつ。誰と。どこで。
     何も浮かばない。思い出そうとすればするほど、遠ざかっていく感じがした。夢を思い出そうとするときと、似たような感覚だった。

     ふと、食器棚の奥を見た。
     奥の方に、同じ形のカップがもう一つあった気がした。薄暗くてよく見えない。確かめようとして、時計を見た。七時十四分。そんな時間はない。

     「最近、こういうの多いな」
     口にすると、その声は狭いキッチンに吸い込まれて消えた。
     疲れているのだろう。そう思うことにした。

     スマホのメモアプリを開く。毎朝の習慣だ。
     チェックリストがある。
     鍵。財布。社員証。定期。今日の提出書類。
     一つずつ確認しながら、リストの下の方にある細々としたメモが目に入った。洗剤を買う。〇〇へメール返信。金曜の14時に会議。観葉植物に水。

     いつ書いたのか思い出せないメモも、いくつかある。
     書いてあるのだから、たぶん必要なことなのだろう。そう思いながら画面を閉じた。最近は何でもメモしないと不安になる。そういう癖がついたのはいつからだっただろう。それも、はっきりとは思い出せない。

     外に出ると、空が白い。曇りともいえない、薄い光の朝だった。

     住宅街を抜けて駅まで歩く。いつもの道。コンビニの前を通り、信号を二つ渡って、少し狭い路地を抜ける。体が覚えているから、考えなくても足が動く。

     信号待ちのところで、小学生の集団に追いついた。ランドセルを背負って、喋りながら歩いている。
     その瞬間、何かがよぎった。
     夏の匂い、みたいなものだった。正確に言えば匂いじゃない。でも他の言葉が見つからない。何かを思い出しかけた感覚だけがあって、その中身は来なかった。
     立ち止まりかけたとき、後ろから自転車が来て、かすかなベルの音がした。我に返る。信号が青になっていた。
     歩き出しながら、さっきの感覚のことを考えた。何だったんだろう。けれど、意識するほど遠ざかっていく気がして、途中でやめた。

     電車の中は混んでいた。ドアの近くに立つ。窓の外を見ても景色は流れるだけで、何も引っかかるものがない。

     ふとガラスに自分の顔が映っているのに気づいた。
     少し疲れた顔をしていた。別に驚くほどのことじゃない。たぶん、いつもこんな顔をしているのだろうから。
     でも見ているうちに、妙な気持ちになった。

     何か、忘れている。
     そんな感じだ。仕事の用件じゃない。予定でもない。もっと違う何か。生活の器の中に、小さな穴がポカリと開いているような。そこに何が入っていたのかも、もう分からないような。

     スマホを出して予定を確認した。問題ない。仕事もあるし、今日やることも書いてある。生活は回っている。
     なのに、その「穴」の感覚だけが消えなかった。
     寝不足かな、と思った。きっとそうだ。最近ちゃんと眠れていない。そういうことなんだろう。

     会社のデスクについて、パソコンを立ち上げた。隣の席の人が「おはようございます」と声をかけてきた。

     返そうとして、一瞬だけ詰まった。
     名前が、出てこない。
     一瞬だけだ。三秒もしないうちに思い出した。そうだ、田中さん。もう三年も一緒に働いている田中さん。なんでもない。
     でも、あの「一瞬」が妙に引っかかった。

     デスクを整えながら、端に貼ってある付箋が目に入った。自分の字で書いてある。

     「忘れる前に書くこと」
     それだけ書いてある。何を書くつもりだったのかまでは書いてない。いつ貼ったのか。思い出せない。少し考えてから、まあいいかと思った。
     周囲では、いつも通り仕事が始まっている。
     キーボードの音。電話の声。コピー機が動く音。どれも聞き慣れた音だ。何もおかしなことではない。
     パソコンの画面に向き合っている僕だけが、何が欠けているのかわからないまま、その日常の中に座っていた。


     帰り道、鞄の中で何かを探しながら、ふと思った。
     (あ、マグカップの、奥のやつ)
     今日、確認しなかった。
     (ま、明日でいいや)

     でも翌朝、起きたときには、もうそのことを忘れてた。

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    #創作大賞2026 #ホラー小説部門
    #1話目 #創26ホラ #ホラー小説が好き  
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