
記憶を食べる恋人⓾
第10話(最終話) 来るはずのない電車
ホームに、風が吹き抜けた。
時刻表を見た。終電まで、あと数分だった。僕は一人でホームの端近くに立っていた。人影はまばらで、スーツ姿の男が一人、スマホを見ながら電車を待っていた。
アナウンスが流れた。
灯はまだ来ていなかった。
来るか来ないかはわからない。でも待っていた。なぜ待っているんだろう。いつも僕が待たせてばかりだったからかな。線路の向こうを見ているうちに、心細くなってメモを握っていた。
「忘れるな」と書いた自分の字が、ポケットの中にある。
遠くの踏切音が聞こえた。
ぼんやりと音の方を見ると、ススキが、ほこりをかぶっておばけみたいに揺れていた。
終電が来て、ドアが開くとスーツの男が乗り込んだ。ドアが閉まる直前、乗ろうと思えば乗れたけど、足が拒んだ。そのままドアが閉まり、電車は知らん顔で滑り出した。テールライトが遠ざかって、闇に溶けた。
ホームに、僕だけが残った。
しんとした世界が、いつもと違って見える。
この駅は、なんていう駅だっけ?
帰り道がわからなくならないうちに帰ろうか。
そう思ったとき、コツ、コツ、コツと足音が来た。
振り向くと、灯が歩いてくるのが見えた。初めて出逢ったときと同じワンピース。アンティークのペンダントが揺れていた。ホームの薄明かりの中で、輪郭が妙にはっきりしていた。
「……来てくれてたんだ」と灯は言った。
「うん」と答えた。
そう言っただけで、しばらく僕たちは黙った。風が吹いて、赤い葉が一枚、ホームの端から線路の方へくるくると舞っていった。照明が少し落ちた。駅員の姿はなかった。
「灯」と呼んだ。
「うん」
「前にも、会っていたんだよね」
「うん」とだけ言った。
「覚えてないのは、僕だけで」
「……うん」
否定しなかった。肯定の言葉も足さなかった。ただ「うん」だけが、夜のホームに落ちた。
僕たちはどんな夢を見て、どんな日々を彷徨ってきたのか。
「……もう、あの頃には戻れないね」
気づいたら、その言葉が出ていた。
何を指して言ったのか、自分でもわからなかった。電車のことなのか、二人のことなのか、自分のことなのか。
灯は黙ったまま、線路の向こうを見ていた。
僕も黙った。
「ねぇ」と灯が言った。
遠くを見つめながら、静かな声だった。
「忘れられるのって、すごく静かなんだよ」
風が止まった。
「心臓の音だけ残して、世界が音をやめるみたいに」
灯の横顔を見た。光の加減で、瞳の色が少し違って見えた。初めて会ったあの夜と同じ目だった。何色とも言えない、あの蛍のような。
返す言葉が見つからなかった。灯も説明しなかった。
枯れ葉がまた一枚、風に運ばれて夜の方へ消えた。
そのとき、踏切の警報音が鳴った。
僕は顔を上げて時刻表を見た。
もう何もない。終電は行ってしまった。それなのに遮断機が降り、ランプが赤く点滅していた。
線路の向こうに、光が見えた。
遠い光だった。でもこちらに向かって、まっすぐ近づいてくる。走行音が聞こえ始めた。ありえない時間に、ありえない方向から。
「……え」と声が出た。
時計を見た。もう一度時刻表を見た。何もなかった。でも光は確かにある。音は確かにきこえる。線路を伝わってくる振動が、足の裏に届いていた。
灯が、僕の隣に寄り添うように近づいてきた。
手のひらを差し出した。
「一緒に乗ろう」
灯の目の中に僕がいた。懇願でも、命令でも、脅しでもなく。ただ僕は灯の瞳の中に吸い込まれていった。
光が近づいてくる。
僕はその手を見た。差し出された、白い手のひら。触れれば、また僕の何かが消えるかもしれない。触れなければ、彼女はもう二度とこの手が届かない場所へ行ってしまうかもしれない。
どちらを選んだとしても、取り返せないものがある。それはもうわかっていた。
光がホームを照らし始めた。
僕は、ただ立ち尽くすしかなかった。
光が揺れて、まっすぐ、こちらへ向かってくる。
今の僕には、灯しか残されていない。
でも灯は、僕のことを知っている。僕が語れなくなった記憶も、僕が忘れた名前も、僕がかつて好きだったものも、全部、灯の中にはあった。
僕が彼女と一つになれば、それを愛と呼ぶのか、それとも別の何かになるのか、僕にはもうわからない。
ただ、光だけがある。
まっすぐに、こちらへ向かってくる、その光だけが。
__
最終話 了
#創作大賞2026 #ホラー小説部門
#創26ホラ #ホラー小説が好き
この話は連載です。
前の話は下記からどうぞ。
◀︎前の話はこちら