
記憶を食べる恋人⑦
第7話 過去の穴を覗く
灯は、ときどき、物憂げな表情をする。誰かを思い出しているのかもしれない。けれど僕は、その「誰か」について、一度も聞いたことがない。
最初に気づいたのは、川沿いの道を並んで歩いているときだった。
冗談めいた話をしていて、灯が笑って、でも次の瞬間、ほんの数秒だけ、どこか遠い目になる。話しかければ戻ってくる。でも戻ってくるまでに、わずかな瞬間がある。
なにを思っているんだろう。疲れてる目とは少し違う。何かを、あるいは誰かを、ほんの一瞬探しているような目をしていた。
その夜の帰りも、肩を並べて歩いた。
住宅街の細い道。街灯の薄明かりが一定の間隔で光っていて、二人の影が前に伸びたり横に流れたりした。会話が途切れて、しばらく足音だけが響いた。
「昔、付き合ってた人とか、いるの?」
聞こうとして聞いたわけじゃない。沈黙が少し長くなっていたから、何か言おうとして、出てきた言葉がそれだ。
灯は歩きながら、黙ったままだった。
答えが来ない。来ないまま、街灯をまた一つ通り過ぎた。
「……いたよ」
短く、それだけ言った。
「そっか」と答えた。言葉を繋ごうとしたが、灯の横顔がこちらを向かないので、やめた。なにか傷口に触れてしまったような、そんな雰囲気があった。
「忘れたいのに忘れられないこと、ある?」と灯が聞いた。
「忘れられないこと」
「うん。ずっと残ってるやつ」
少し考えた。最近は、忘れたくないのに忘れていくことの方が多い。でもそれは今は言えなかった。
「あるよ、たぶん」と答えた。
「普段は意識にのぼってきてないだけで」
灯が小さく頷いた。
「忘れられるなら、その方が楽なこともあるよ」と灯は言った。
「苦しいと、忘れた方が生きやすくなることだって、ある」
「でも、忘れたくないものまで消えたら」
「うん」と灯は言った。
前を向いたまま、静かな声だった。
「それは、つらい」
それ以上は続かなかった。でもその「つらい」という言葉は、どこか深いところに沈んでたものが浮かび上がったような感覚があった。そのつらさを知っている人の言葉だ、と思った。自分のことを言っているのか、他の誰かのことを言っているのかは、わからなかった。
別れ際、駅の前でいつものように立ち止まった。
電車の時間まであと少しあって、灯がスマホを取り出した。何かを確認するような仕草だったが、画面を見た瞬間、表情が変わった。
変わった、というのは、ちょっと違うかもしれない。むしろ、消えた、という方が近かった。さっきまでの表情が、すっと抜けた。
「どうしたの」と聞くと、灯は顔を上げて、「なんでもない」と言った。笑おうとした気配があったが、笑えていなかった。
スマホの画面は見えなかった。でも、灯の目の色だけが見えた。光の加減のせいではない、瞳の奥で何かが揺れていた。
「灯」と呼んだ。
「うん」と返ってきた。
「何を見てたの」
少しの間があった。
「昔のこと。ずうっと昔の」とだけ言って、灯はスマホをポケットにしまった。それ以上は何も言わなかった。
帰り道、僕は灯のことを思い出していた。
灯は、忘れることについて話すとき、優しかった。まるで傷口に包帯を巻こうとしているみたいに。
灯は、何を忘れようとしたんだろう。あるいは、誰かに忘れられたんだろうか。
由衣と再会したのは、その翌々日のことだった。
仕事帰り、駅の改札を出たところで。人の流れに乗って歩きかけたとき、後ろから名前を呼ばれた。
振り返った。
見覚えのない女性が立っていた。年齢は僕と近い。髪は短く、服装は落ち着いていて、立ち姿がどこかすらっとしていた。こちらを見ている目が、懐かしむような、戸惑うような、微妙な表情をしていた。
「祐?」と、もう一度言われた。
「はい」と答えた。愛想笑いが出た。
名前が出てこない。この人が誰なのか、どこで会ったのか、何も出てこないことに焦った。
相手は、久しぶりだという距離感でそこに立っていた。この間合いは、知り合いのものだ。初対面のそれではない。でも誰だったか思い出せない。
「……もしかして、本当に覚えてない?」
声が少し怪訝な感じになった。笑ってはいなかった。
「あの、ごめん、少し……」と言いかけたが、言葉が続かない。
「三枝由衣。三年付き合ってたんだけど」
三枝由衣。
その名前を聞いた瞬間、あのときの日記の文字が浮かんだ。
『由衣と喧嘩した』
『ちゃんと謝らないと』
あの名前だ、と思った。でも目の前の人に、感情が結びつかない。どうしよう、顔も声も、どこにも繋がってこないんだ。
「ほんとに?」と由衣と名乗る人は言った。
「私たち、結構ちゃんと付き合ってたんだけど」
責めているわけではなかった。ただ、信じられない、という顔をしていた。
「ほんとにごめん」と言った自分の声が少し震えた。
「最近、物忘れが酷くて」
「物忘れのレベルじゃないよ、それ」
由衣はそう言って、少し俯いた。怒ってはいないようだ。ただ、何かを受け止めようとしているように黙ってしまった。
「喧嘩したこと、覚えてる?」と由衣は言った。
「あなたが黙り込んで、そのまま別れた夜のこと」
覚えていない。何も出てこない。でもその場面を由衣が話すとき、どこかに置き去りにされた影があった。重要な夜だったという感覚だけが、かすかに残ってる。
「悪かった」ともう一度謝るしかなかった。
由衣は少しの間、僕の顔を見ていた。何かを確かめるように。それから「大丈夫?」と言った。本当に心配しているような声だった。
「病院には行った」と答えた。
「異常なしって言われた」
由衣はもう何も言わなかった。でもその沈黙の中に、何かが詰まっているのがわかった。
「祐、顔が変わった」と最後に言った。
「こんな顔する人じゃなかったんだけどな」
それだけ言うと、由衣はくるりと背を向けて改札の方へ歩いていった。振り返らなかった。
帰り道、ずっと由衣のことを考えていた。
三年。
三年間、付き合ってた彼女を思い出せない。喧嘩した夜にあったことも、なぜ黙って別れたのかも、何も出てこない。
僕は、たぶん何も言えずに彼女と別れたままだったんだろう。そして、忘れられることは、こんなにも静かに人を傷つける。そのことを、僕はその夜、初めて理解した。
同時に、灯の言葉が蘇った。
「忘れられるなら、その方が楽なこともある」
本当にそうなのか。楽になれる人間がいる一方で、由衣みたいに傷つく人間がいる。どちらがいいのか、もう僕にはわからない。
アパートに戻って、電気もつけないままへたり込んだ。
スマホが震えた。
午前二時十七分。
灯からだった。
『さみしい』
少しして、もう一通来た。
『もう一人にしないで』
画面を見つめた。返すべき言葉を探した。でも何も見つからないまま、時計の音だけがやけに響いた。
怖かった。でも、このメッセージを無視することは、もっと怖かった。
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