
記憶を食べる恋人③
第3話 理想の恋人に出逢う夜
店内は、雨の匂いにコーヒーの香りがまじっていた。
雨宿りの客が多いのだろう、テーブル席はほとんど埋まっていて、カウンター席にも何人か座っている。コーヒーを頼んで、窓際のカウンター席に腰を落ち着けた。
ガラス越しに、雨の駅前が見えた。傘の花がゆっくり流れていく。
鞄から文庫本を取り出してテーブルに置いたが、すぐに読む気にはなれなかった。なんとなくスマホを開いて、写真フォルダを眺め始めた。特に意味はない。ただ、手持ち無沙汰だった。
飲み会らしい写真があった。居酒屋の座敷で、何人かが笑っている。自分も端の方に写っている。みんな楽しそうな顔をしている。いつのものだろう、と思いながらスクロールすると、似たような写真が何枚か続いた。
その中の一枚で、手が止まった。
自分の肩のあたりに、誰かがいた気がした。いや、正確には、誰かがいた「はずの空間」だけがある。肩に手を置かれていたような位置が、少し不自然に見える。アップにしてみると、光の写り方が周囲と微妙に違う。
誰かと写っていたはずだ。そういう感覚だけが、はっきりとあった。でも顔が出てこない。名前も出てこない。
気のせいかもしれない。写真の光の加減は、時々おかしなものを映すものだ。そう思って、スマホを伏せた。
コーヒーを一口飲んだ。窓の外の雨は、まだ止みそうになかった。
ガラスの向こうで、人影が横切った。
何気なく顔を上げたとき、見覚えのある姿がそこにあった。
あの女の子だ、と思った瞬間には、もう視界から消えていた。駅前で一瞬だけ見かけた、あのワンピースの。気のせいかもしれない。似た服の別人かもしれない。でも、どこか印象が似ていた気がした。
本を開いた。読もうとしたが、頭に入ってこなかった。
店のドアが開いて、入ってくる人の気配がした。注文したコーヒーを受け取ってから席を探している様子を視界の端に感じた。少し立ち止まってからこちらに歩いて来ると僕と一つ間を空けて座った。
それから数分すると、二人連れの客が来て、また、カウンター席に向かってきた。
「すみません、テーブル席が埋まってしまって、一つ詰めていただけますか」と僕の近くに座っていた人に声をかけてきた。その人が「はい、いいですよ」と答えて、椅子を引く音がした。
コーヒーカップを持ったまま、隣に移ってきた人をチラッと見た。
ワンピース。小さなアンティークのアクセサリー。髪に、まだ雨粒がいくつか残っている。
なんだ。駅前で見かけた、あの女の子じゃないか。
しばらく、二人とも黙っていた。雨の匂いとコーヒーの香り。店内の話し声と、食器の音が混ざっていた。
女の子が、窓の外を見ながらぽつりと言った。
「雨、止みませんね」
「……ですね」と返した。それだけで、また沈黙になった。
間が悪いとは思わなかった。どうしてかはわからないが、この沈黙も、隣にいる彼女の気配も、どこかやわらかく受け入れられた。
女の子の視線が、テーブルに置いた文庫本の表紙に止まった。
「その作家さん、好きなんですか」
「好きというか」
僕はちょっと笑って言った。
「こんなの読む人、あんまりいないですよね」
「静かすぎる話ですもんね」と彼女は言った。
その言葉が、妙にぴったりだった。静かすぎる、という、その言い方。僕が心の中でずっと思っていたことと、ほぼ同じだった。
「静かな話が好きなんです」
「大きな事件とか、そういうのが起きないやつ」
「わかります」と彼女は頷いた。
「大きな事件もない話って、忘れられやすいですけど」と続けた。
「……たしかに」
彼女が窓の外に目を向けた。雨粒がガラスを伝って流れていく。
少しの沈黙があった。それから、彼女は独り言みたいな小さな声で言った。
「昔から、好きだった詩があるんです」
「どんな?」
「忘れられることは、死ぬことより哀れだ、っていう意味の詩で」
彼女はそう言うと、やわらかに笑った。悲しそうではなく、ただ、どこか遠い目をして。
その「昔」という言葉が、少しだけ引っかかった。昔、というにしては、目の前の彼女は若く見える。でもその場で深くは考えなかった。
「忘れられるの、怖いですか」
と、気づいたら聞いていた。
彼女の言葉が少し重かったから、自然にそうなった。
彼女は少し考えるように間を置いてから、
「……どうでしょう」と言った。また、やわらかに笑った。
「でも、誰にも思い出されなくなるのって、消えるのと似てる気がします」
コーヒーカップを皿に置く音がして、会話が続いた。
好きな本の話。眠れない夜のこと。雨の日の過ごし方。どの話題も、どこか孤独に寄っていく気がしたが、それが不思議と嫌ではなかった。
彼女は、僕の話を妙に気持ちよく聞いていた。相槌の打ち方が、話の温度に合っていた。こちらが言い終わる前に「それ、こういうことですよね」と先に言って、そのまま正確に繋げることが何度かあった。そのたびにちょっと驚いたが、不快ではなかった。むしろ、気を遣わなくて話しやすいという感覚があった。
ただ一度だけ、「そういうところ、昔から変わらないのね」と彼女が呟いた瞬間があった。
初対面のはずだ、と思った。「昔から」とはどういう意味だろう。聞こうとしたが、彼女はすぐに別の話を始めた。結局、そのままになった。それに、どこかで会ったことがある気もしていた。どこで、とは言えないが、この声に覚えがある、という感覚がずっとあった。
「前に会ったことがある気がします」と言うと、彼女は少しだけ小首を傾げて「そうかもしれませんね」と言った。否定しなかった。かといって、はっきり肯定もしなかった。
気がつくと、外の雨が弱くなっていた。
彼女が先に立ち上がった。「そろそろ行きますね」と言いながら、鞄を持った。
「あ、あの」と、気づいたら声を出していた。なんで呼び止めたんだろうと思いながら、「もしよかったら」と続けた。
彼女は少し迷うような間を置いてから、静かに笑った。
「……名前、聞いてませんでしたね」
「遠野、祐です」
「灯です」
灯。その名前を聞いた瞬間、何かがかすかに揺れた気がした。懐かしいような、昔、聞いたことがあるような。でも思い出せなかった。
連絡先を交換した。
「また、ここに来ることありますよね」
「そうですね」と僕は答えた。どちらから誘ったというわけでもなく、またここで会う、ということが、まるで暗黙の了解であるかのようだった。
小雨になった街に、彼女は出て行った。
帰り道、久しぶりに心が少し軽くなっていた。若い女の子と、こんなふうに自然に話したのはいつ以来だっただろう。誰とだったか。浮かびかけた顔が、霧の中に消えた。
帰宅して、鞄を下ろして、ソファに座った。
スマホを開いて、連絡先を確認した。「灯」という名前があった。
なんだか、昔、こんな名前の子がいた気がする、とぼんやり思った。いつ、どこで、そんな子に会ったのだろう。思い出せなかった。
さっき、あの子と何を話したのかも、細かいところまではもう曖昧だった。でも、あの目だけははっきりと憶えている。光の加減で色が違って見える、あの目。
思い出せなかったけれど、だからといって、べつに困るわけでもない。
それよりも、また会えるだろうという感覚の方が、ずっと大きかった。
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