メインコンテンツへスキップ
見出し画像

記憶を食べる恋人⑨

    第9話 どちらを選ぶか

     朝、目が覚めると、自分の部屋のはずなのに落ち着かなかった。

     見回すと、見覚えのあるものが並んでいた。棚。本。窓。カーテンの色。全部、知っている。でも「自分の部屋」という実感が、霧がかかってるみたいに感じられない。

     本棚から一冊引き抜いた。タイトルを見た。読んだことがあるのはわかった。でも、いつ、なぜその本を買ったのか、好きだったのか、が、まるごと切り取られたように欠けている。本棚に戻した。

     手帳が机の上にあった。開くと、自分の字が並んでいた。

    『灯あかりを信じろ』

    少し下に、別の日の字で。
    『でも』

    さらに下。
    『忘れるな』

    どれを書いたときの自分も、今の僕じゃない気がする。同じ字なのに、別の人間が書いたみたいだ。


     透から連絡が来たのは、その日の昼だった。

    「今日時間ある?ちょっと会いたい」
    断る理由はなかった。夜、近場のファミレスで待ち合わせた。

     透が先に来ていた。

     入口から見えた瞬間、どこか懐かしいような感じはあった。顔を見て、この人は知り合いなんだという感覚は確かにある。ライン友達に透の名前はあるし、前にアルバムを見ていたから。でも、藤村透という、この人と何をしたとかの記憶が、すっぽり抜けていた。

     僕を見つけた透が「よっ」と言った。その声は古くからの友達のような距離感だ。

     向かいに座ると、透はメニューを開きながら「ここ来ると、お前いつもハンバーグ頼んでたよな」と言った。
     メニューを見た。ハンバーグのページに目が止まった。たしかに好きそうだな。でもちょっと待て、透とここで食べた記憶はないぞ。何回来たのかも、どんな話をしたのかも、思い出そうとしても、そのあたりはフィルムが焼け落ちたみたいに飛んでいる。

    「そうだったっけ」と答えた。

     透が少し顔を上げた。
    「……まじで覚えてないのか?」

    「なんか最近、物忘れがひどくて」

     透はメニューを閉じた。しばらく黙っていた。不機嫌な顔をしているわけではなかった。ただ、何かを考えているような間まだった。

    「祐はさ」と透は言った。
    「昔から疲れるとこれ頼むんだよ。中学の頃から」

     中学。その言葉を聞いて、壊れやすい遠い日の感触が脳裏をかすめた。ふるさとの校舎と夏の匂いみたいな、あの感じ。でもその記憶を辿ろうとしても、透の顔がなかった。

    「楽しかった記憶はあるんだ」と言った。本当のことだった。
    「ただ、お前と、というのが出てこない」

     透は少しの間、僕を見ていた。

    「それ、怖くないの」

    「怖い」と答えた。

     窓の外に目をやると、闇に沈んだ駐車場を、車のヘッドライトだけが細く切り裂いていた。

    「病院行ったか」

    「行った。異常なしって言われた」

    「そっか」透はそれ以上聞かなかった。
    「なんか、できることあったら言えよ」と言った。責める言葉じゃない。戻ってこいという言葉でもない。ただ、俺はここにいるよ、という声だった。

     その言葉が、胸に刺さった。その一言がありがたくて、不意に涙が出そうになって堪えた。

     ハンバーグを頼んだ。食べながら、透と話した。内容は途切れ途切れだった。でも透は、僕が思い出せない部分をちっとも責めずに、話せる話題を探して聞いてくれていた。

     帰り際、透が「また連絡しろよ」と言った。それ以上は何も言わずに歩いていく背中を見送りながら、この人と過ごした時間が本当にあったのだと思った。思い出せないのに、それだけはわかった。透の優しさが、身に沁みた。


     翌日、灯と会った。いつものコーヒーショップ。いつもの窓際の席。

     灯と会うと、その瞬間、安心してしまう。ほんとうは怖いんだ、でも緊張は緩んだ。

     灯は今日も綺麗だった。以前よりおしゃれになって、会うたびに鮮やかさが濃くなる。女は恋をすると綺麗になるというけれども、こんなに短期間で見事に変わってゆくものなのか。灯の移ろいが何を意味するのかは、深く考えないようにした。

    「最近、元気がないね」と灯は言った。

    「うん」

    「わたしに何かできること、ある?」

     優しかった。いつも通り、過不足なく優しかった。この完璧なまでの優しさに僕は怯えていた。だが離れられない。別れることを想像すると、このやわらかな声も、この蛍のような瞳も、みんな消えて、僕の不安だけが残ると思うと、灯を失うのが怖かった。

    「キミがそばにいてくれるだけでいい」と言った。

    灯は声もたてずに笑った。その儚げな笑みを壊したくない、と思った。


     帰宅して、古い写真を引っ張り出した。

     卒業アルバム。家族写真。旅行の記録。全部、見覚えがある。でも感情は薄かった。写っている人たちの顔は認識できる。でもその人たちと過ごした時間が、映像として出てこなかった。

     母との写真があった。僕の誕生日だろう、ケーキが写っていた。母が笑っている。僕も笑っている。
    しばらく見ていた。

    「……ごめん」と言った。誰もいない部屋に、声だけが出た。
    「ちゃんと思い出せない」
    写真を伏せた。


     薄曇りの夕方、古本屋へ足を運んだ。

     店に入ると、店主が棚の整理をしていた。僕が傍らに来ると顔を上げて、「……今日は一人か」と言った。

    「はい」

     店主は本を棚に戻しながら、それ以上は聞かなかった。しばらく、二人とも黙って、それぞれ本を眺めた。

    「ちょっと、いいですか」と声をかけた。

    「うん」

    「人って、自分が傷ついて、全てを失ってでも、誰かを守りたいときってあると思いますか」

     店主は手を止めた。少し間を置いてから、ゆっくり振り返った。

    「人生には、そんなこともあるだろうな」と言った。

    「自分が大切にしているものを失ってでも、護りたいと思える人がいるって」

    少し間まがあった。

    「でも、それで自分まで失ったら、最後に残るのは何なんだろうな」

    答えではなかった。黒川自身も、答えを持っていないのがわかった。ただ、その言葉が僕の胸にピンで留まった。

     店を出るとき、店主が「大事にしろよ」と言った。何を大事にするのかは言わなかった。



     夜、一人で机の前に座った。

     メモを広げた。カレンダーを開いた。灯と会った日。その後に欠けた記憶。透から連絡があっても透の顔が思い浮かばなかった日。由衣の名前に感情が結びつかなくなった日。母との写真が懐かしいとも思えなかった朝。

     全部、灯と会ってからだった。

     もう偶然なんかじゃない。確かなことだ。
     このままだと、削られ続けて自分を失う。
    その確信が、突きつけられるように腹に落ちた。

     でも同時に、灯を失うことを想像した。あの長い髪。あの白い指。あの「忘れないでね」という声。全部消えてしまうと思うと、息が詰まりそうだ。

     どちらを選んでも、取り戻せないものがある。灯から離れても、もう失われた記憶は戻らない。このまま灯のそばに居続けても、これからの自分は削られ続ける。

     完全な正解がないことはわかっていた。それでも、どちらかを選ばなければならない。


     スマホが鳴った。灯だ。
     離れる決意をしかけていた。画面を見た瞬間、手が止まった。

    一呼吸おいて、出た。

    「……会いたい」と灯の声がした。

    何も言えなかった。言葉を探したが、すぐには見つからなかった。



     その夜、終電近い時間、駅のホームに立っている僕がいた。

     人影はまばらだった。
    あの人はどこへ行くのだろう。
    この人は何を見てきたのだろう。

     僕は灯が来るのを待っていた。電車はまだ来ない。

     ポケットの中に、メモを握っていた。自分の字で書いた、自分に宛てた走り書き。「忘れるな」という言葉。その隣に、灯からのメッセージが入ったスマホ。

     線路の向こうに、信号の灯りが見えた。

    「……僕は」

    唇は動いた。でも、続きが喉につかえた。

    ホームの反対側に止まってた電車が滑るように出て行った。

    __
    🖊️この物語は連載です。
    続きは下記の「▶︎次の話はこちら」からどうぞ。
    #創作大賞2026 #ホラー小説部門
    #創26ホラ #ホラー小説が好き
    ▶︎次の話はこちら

    ◀︎前の話はこちら

    この記事が参加している募集

     
     
    言葉や物語を考えながら、日々の中の小さな揺れや、答えの出ない問いをすくい上げています。静かな思考のかけらを置いていく場所です。ゆっくり更新しています。

    あなたへのおすすめ