
記憶を食べる恋人⑤
第5話 抜け落ちる「誰か」
スマホの通知が鳴ったのは、昼休みのことだった。
画面を見ると、「藤村透」という名前があった。
『最近どうした?全然連絡ないじゃん』
僕はしばらく画面を見つめた。
名前は読めた。藤村透という文字は認識できた。でも、その名前に顔がついてこなかった。背が高かったか、低かったか。声はどんな感じだったんだっけ。
おかしいと思いながら、トーク履歴を遡った。
写真があった。居酒屋で撮った、何人かが笑っている写真。自分も端の方に写っている。その隣に、誰かがいる。肩を組んで、こちらに向かって笑っている。それが透なのだろうと思った。でも、笑っている顔を見ても、「そうだ、こいつだ」という感触が来なかった。
楽しそうだな、とは思った。この二人は仲が良さそうだ、とも思った。まるで他人の写真を眺めるように、そう思った。
感情だけがぼんやりと残っている。嬉しかった、楽しかった、そういう残滓だけが薄くある。でもそこに透という人間がいない。いるはずのところだけ空白になっていた。
返信を打った。
『最近バタバタしてて。元気だよ』
それだけ送って、スマホを伏せた。
昼休みが終わる前に、透から『そっか、また飲もう』と返ってきた。了解のスタンプを返した。またね、と思いながら、その「また」の中身は何もなかった。
その週、仕事でミスをした。
取引先へのメールを、一度送信済みのものをそのままもう一度送ってしまった。先方から「先ほどと同じ内容が届きましたが」と連絡が来て、初めて気づいた。上司に報告して、謝罪メールを送って、それで済んだ。大きな問題にはならなかった。
でも夕方、コピー機の前で固まった。
何を印刷しようとしていたのか、分からなかった。手にはUSBメモリを持っている。確かに印刷するものがあったはずだ。でも何だったのか、完全に抜けていた。デスクに戻って資料を確認してから、もう一度コピー機へ向かった。そのことを、誰にも言わなかった。
相当、疲れているのだろう、と思った。最近、灯と会う時間が増えて、帰りが遅くなっている。睡眠が足りていないのかもしれない。そういうことにした。
異変に気づいたのは、実家から荷物が届いた夜だった。
段ボールを開けると、母が入れたらしい古い写真が何枚かあった。手紙に「部屋の整理をしていたら出てきたから」と書いてある。
写真を一枚ずつ見ていった。家族で出かけたらしい写真。自分が小学生くらいの頃だろう、全員が笑っている。父と母と、自分と、あともう一人。
手が止まった。
もう一人いる。自分の隣に、同じくらいの年頃の子どもが写っている。家族全員が自然にその子と一緒に写っている。でも、誰なのか分からなかった。親戚だったんだろうか。でもそれにしては、全員の表情が馴染みすぎている。初めて会った相手に向ける顔ではない。
スマホで母に電話をかけた。
「この写真に写ってる、僕の隣の子、誰だっけ」
母は少し黙ってから言った。「何言ってるの、透ちゃんでしょ。よく遊んでたじゃない」
透。
「ああ、そうだったっけ」と答えた。声が少し上ずって、誤魔化すように「最近連絡取ってるよ」と付け加えた。
電話を切ってから、写真をもう一度見た。
母は透ちゃんと言った。ということはこれが透なのだろう。でも、見ても何も来なかった。笑っている顔を見ても、声も、体温も、一緒にいた時間の感触も、何も戻ってこなかった。
透とは幼馴染だったのか。仲の良い遊び仲間だったのか。
思い出せなかった。
翌週、病院へ行った。
内科を受診して、症状を説明した。物忘れが増えたこと、人の顔が思い出せないことがあること、目的を忘れることがあることを話した。医師は頷きながら聞いていた。
血液検査をした。MRIを撮った。認知機能のテストを受けた。簡単な計算と、単語の記憶と、図形の模写だった。全部できた。
結果を聞きに行くと、医師は「特に異常は見られませんでした」と言った。血液も正常、MRIも問題なし、認知テストのスコアも年齢平均を上回っている。
「一時的なストレス反応かもしれませんね」と医師は言った。
「睡眠はちゃんと取れていますか」
「まあ、最近少ないかもしれません」
「それが原因かもしれません。無理をしないように」
それだけだった。
帰り道、晴れているのに妙に頭が重かった。「異常なし」という言葉が、安心ではなく別の問いとして残った。異常がないなら、なぜ透の顔が思い出せないのか。異常がないなら、なぜあの写真の子どもが他人に見えたのか。
正常だと言われた。でも何かが壊れている。その二つが、胸の中で渦巻いていた。
その夜、灯と電話した。
「最近、物忘れが多くて」と話すと、灯は「大丈夫?」と言った。
「病院行ったら異常なしって言われた」
「そっか」
「ちゃんと休んでる?」
「休んでるつもりなんだけどな」
灯の声を聞いていると、少し楽になった。頭の重さが薄れていく気がした。電話越しでも、灯といる時間だけは、不思議と足元が安定する感じがあった。
「忘れたくないんだ」と、気づいたら言っていた。
「大事なことを。大事な人を。なのに最近、うまくいかなくて」
「そう」と灯は言った。静かな声だった。
「でも、忘れられるなら、その方が幸せなこともあるよ」
「え?」
「苦しい記憶とか、痛い記憶とか。全部抱えてたら、重くない?」
「でも、大事な記憶まで消えてたら」
「うん」と灯は言った。
「それは、つらいね」
否定はしなかった。肯定もしなかった。ただ「つらいね」とだけ言った。
電話を切ってから、窓の外を見た。夜の住宅街がぼんやりと広がっている。
透の顔が、まだ思い出せない。でも灯の声だけは、はっきりと耳に残っていた。
そのことに、この夜はまだ気づいてはいなかった。
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