
記憶を食べる恋人②
第2話 雨の駅前
会社を出たとき、空には雨雲が立ち込めていた。
改札を抜けて駅前のロータリーに出た瞬間、冷たいものが頬に当たった。雨だ、と思うより先に、周りの人たちが一斉に傘を開き始めた。
鞄の中を探った。
__ない。
天気予報を確認しておいたはずだ。朝、スマホで見たよな?いや、見たのは確かだ。使う路線の遅延情報を調べたついでに、天気のアプリも見た。それは覚えてる。
スマホを出して履歴を開くと、今朝の七時十分に天気予報のサイトを開いた記録があった。
__見ていた。
なのに、その内容が何もない。晴れだったのか、曇りだったのか、降水確率が何パーセントだったのか、何も残っていない。見たという事実だけがあって、中身がきれいに抜け落ちていた。
屋根のある場所まで小走りで移動しながら、おかしいな、と思った。やっぱり疲れているのかな。最近そんなことばっかりだ。
駅前のロータリーに面した屋根の下には、同じように雨宿りをしている人が何人かいた。スーツ姿のサラリーマン、学生らしきグループ、スマホを見ながら傘を差す女性。
人の流れを眺めながら、雨が弱まってくれないかな、と思った。
タクシーが一台、水たまりを跳ねながら通り過ぎた。傘の花があちこちに開いて、黒とグレーと紺色が視界に広がっていた。
そのとき、その中に一人だけ、妙に浮き上がって見える女の子がいた。
浮き上がって見えるというのは、目立っているということじゃない。むしろ逆だ。地味な色のワンピースで、アクセサリーも控えめで、背丈も普通だった。どこにでもいそうな20代のはじめくらいの女の子だ。でも、周りがすべてぼやけて見える中で、彼女だけが妙に実体として存在している、という感じだった。
自然と視線がそこへ向かった。
顔立ちは、きれいとか美人とか、そういう言葉ではくくりにくかった。少しあどけなさが残る、普通の顔。でも、目だけが違った。光の加減のせいかもしれないが、瞳の色が、見た瞬間から少し気になった。蛍にも似た、不思議な色だった。
一秒か、二秒か。
一瞬、僕の目は彼女に奪われていた。
その瞬間、微かに呼ばれた気がした。
僕の名前を呼ぶような、声というより気配だ。振り返った。屋根の下に立っている数人が、それぞれスマホを見ていたり空を見上げていたり、喋ったりしている。誰もこちらを見ていない。
__空耳だ。
雨音と、車の音と、人の話し声がごちゃごちゃに混ざっていたから。そういう騒がしさの中で、ふと名前を呼ばれたような気がすることだってあるだろう。
前を向くと、ワンピース姿の女の子を、また探した。
もう、いなかった。
さっきまで確かにそこにいたはずなのに、もういない。傘の波に紛れたのか、どこかへ行ったのだろう。瞬きする間に、すっと消えていた。
少し、目を凝らした。
雨の中を行き交う人々を眺めながら、それらしい色の傘や服を探したが、見当たらなかった。はじめから幻だったんじゃないかと思うくらい、きれいにいなくなっていた。
僕は何やっているんだろう。自分でも少し可笑しくなった。通りすがりの他人を、こんなふうに目で追ったのはいつ以来だろう。
雨が、少し強くなってきた。
スマホで雨雲レーダーを確認すると、あと一時間は降り続きそうだ。このまま立っていても仕方ない。
ロータリーを過ぎて、少し歩いた先に、行きつけのコーヒーショップがある。駅からすぐのところだ。鞄で頭を庇いながら、早足で向かった。
雨を避けきれなくて、冷たくしみてきた。さっきの目のことを、なんとなく思い出しながら歩いた。あの不思議な色、何色っていうんだろう。思い出そうとしても、はっきりしなかった。見た瞬間には確かに何かを感じたのに、その「何か」がもうつかめない。そういうもんなんだろう、と思った。他人のことなんて、一瞬見ただけではずっと記憶に残らない。残るのはせいぜい印象くらいなもんで、それだって、翌日になれば大体薄れてゆく。
コーヒーショップのあかりが見えてきた。雨に濡れたガラスの向こうに、温かい色が滲んでいる。
ドアの前に立ったとき、ふと、さっきの気配をもう一度思った。名前を呼ばれたような、どこか懐かしい、あの感覚。
自動ドアが開いて、閉じた。
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