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本能寺の変1582 【重史265】 №6-233 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史265】 №6-233

    はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】 
    ←【五大要因】  中  小
    ←1 時代の風潮
     
     1戦国時代=相互不信の時代
      2美濃
      3尾張
    ←2 光秀の実像
     
     1信長という男
      2光秀という男  1 光秀の素性 2 光秀の年齢 3 光秀の人物像
      3光秀の後継者  1 信長の後継者 2 光秀の後継者 3 明智の将来
      4 先祖の教訓
      5 大量殺戮
      6 三人の謀叛人
      7 信長の弱点
    ←3 志向の相違 光秀の苦悩 
     
     1粛清の怖れ
      2 光秀の老い
      3 四国問題 躓き
      4 事態急変
      5 志向の相違
      6 自立への道
    ←4 武田の滅亡
     
     1甲斐遠征
      2勝頼の首
      3武田効果
    ←5 信長の油断 大要 概略
      
    「事態急変」
      1 勝利の余韻  概略 4月21日
                  4月24日
      2 四国出陣   概略 5月7日 1/3 2/3 3/3
                  5月11日
      3 足蹴事件 大 概略 5月12日 大 概 1/5 概 2/5 概 3/5 概 4/5 概
                         5/5 概
                5月15日 大 概
                密室にて  大 概 1/3 概 2/3 概 3/3 概
                         ① 概 ② 概 ③ 概 ④ 概
                         ⑤ 概
      4 中国出陣 大 概略 備中高松城 大 概
                  5月17日
                坂本にて 目次 大 概
                         1 2 3 ① ② ③
                         4 ① ② 5 6 
                  5月19日 大 概
                  5月20日 大 概
                  5月21日 大 概
      5 謀叛人の顔
      時は今、・・・・・
                  5月26日 大 概
                  5月27日 大 概
                  5月28日 大 概
                  5月29日 大 概
    ←さる程に、不慮の題目出来候て、

    ←【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】 【重史一覧全通】
    ←【抜粋】
    ←【注目ポイント】 目次
    ←【人物】
    ←【粛清の怖れ】 【粛清 佐久間信盛】 【重史240】
    ←「その一因」 目次大 概説大 目次中 
    ←3光秀と光慶 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
    ←【四国問題】 八 九 十 目次 【四国問題 概要】 八 九 十
    ←【足蹴事件】 【重史040】 【重史041】
    ←【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
    *加筆修正

    【重史265】 №6-233

    ①今度、其の国の案内者に付き、其の方の肝煎りを以って、

    ②明智十兵衛、指し遣はし候ところ、

    ③此の上にて、丹後表へ近日出勢すべく候条、

                     「小畠文書」「亀岡市史」

    天正三年1575、六月十日。                1575000610 

    信長は、光秀に案内人をつけた。
     その上で、「近日出勢すべく候」。

     案内役は、丹波船井郡の国人領主 小畠永明。
     宍人城を居城とした(京都府南丹市園部町宍人)。
     生年不詳。
     若年だったようである。
     これ以後、光秀に属す。
     
      今度、其の国の案内者に付き、其の方の肝煎りを以って、明智十兵衛、
      指し遣はし候ところ、相違なく申し付くるの由、御感に思し召し候、

      此の上にて、丹後表へ近日出勢すべく候条、先手を仕り、稼ぎ申すべく
      候、

      其の方本領の儀は、申すに及ばず、多喜(紀)郡一円に指し遣はすべく
      候、
      両国平均に属すに於ては、彼の地に至り、入部仕るべく候、

      弥(いよいよ)、忠節抽んでるに於ては、廉の加増を遣はすべく候間、
      油断すべからず候、
      猶、明智十兵衛、申すべくものなり、

        天正三
         六月十日         信長 御朱印
          小畠左馬助とのへ
                         (「小畠文書」「亀岡市史」)

    長篠での大勝利。
     信長が武田軍を撃破したのは、二十日ほど前のこと(同年五月二十一日)。
     その「噂」は、瞬く間に諸国へ広まった。
     大小名は、みな驚いた。

    まだ、その余韻が色濃く残っていた。
     信長は、この事実を背景に、丹波へ打って出ようとしていた。
     そういうことになる。

    信長は、それを巧みに利用した。
     信長の勢威、「恐るべし」。
     正に、効果覿(てき)面。
     「戦わずして勝つ」
     これすなわち、「長篠効果」。

     国人衆の大半が、その命に従った・・・・・。
     


     【引用】



     ⇒ 次へつづく


     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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