
本能寺の変1582 【重史276】 №6-250 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史276】 №6-250
はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】
←【五大要因】 中 小
←1 時代の風潮
1戦国時代=相互不信の時代
2美濃
3尾張
←2 光秀の実像
1信長という男
2光秀という男 1 光秀の素性 2 光秀の年齢 3 光秀の人物像
3光秀の後継者 1 信長と信忠 2 光秀と光慶 3 明智の将来
4 先祖の教訓
5 大量殺戮
6 三人の謀叛人 1 丹波 波多野秀治の謀叛 2 大和 松永久秀の謀叛
3 摂津 荒木村重の謀叛 4 光秀の総括
←3 志向の相違 光秀の苦悩
1粛清の怖れ
2 光秀の老い
3 四国問題 躓き
4 事態急変
5 志向の相違
6 自立への道
←4 武田の滅亡
1甲斐遠征
2勝頼の首
3武田効果
←5 信長の油断 大要 概略
「事態急変」
1 勝利の余韻 概略 4月21日
4月24日
2 四国出陣 概略 5月7日 1/3 2/3 3/3
5月11日
3 足蹴事件 大 概略 5月12日 大 概 1/5 概 2/5 概 3/5 概 4/5 概
5/5 概
5月15日 大 概
密室にて 大 概 1/3 概 2/3 概 3/3 概
① 概 ② 概 ③ 概 ④ 概
⑤ 概
4 中国出陣 大 概略 備中高松城 大 概
5月17日
坂本にて 目次 大 概
1 2 3 ① ② ③
4 ① ② 5 6
5月19日 大 概
5月20日 大 概
5月21日 大 概
5 謀叛人の顔 1 謀叛の結末
2 信長の弱点
時は今、・・・・・
5月26日 大 概
5月27日 大 概
5月28日 大 概
5月29日 大 概
←さる程に、不慮の題目出来候て、
←【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】 【重史一覧全通】
←【抜粋】
←【注目ポイント】 目次
←【人物】
←【粛清の怖れ】 【粛清 佐久間信盛】 【重史240】
←「その一因」 目次大 概説大 目次中
←3光秀と光慶 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
←【四国問題】 八 九 十 目次 【四国問題 概要】 八 九 十
←【足蹴事件】 【重史040】 【重史041】
←【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史276】 №6-250
①越前の前波播磨(吉継)、
②大国守護代として居(す)ゑ置かれ候ところに、
③諸侍謀反を企て、生害させ、
④越前、一揆持ちに罷りなるの由に候。
『信長公記』
①桂田(長俊=前波吉継)、俄(にわ)かに大国守護に成るの間、
②一揆蜂起して騒動する事、斜めならず、
③軍勢攻め寄せて、馬より突き落として、早々、頸を討ち取り、
「朝倉始末記」
①大将七里(頼周=本願寺の坊官)方、国中の一揆等、諜し合ひて、
②後ろより、鉄炮を以って打ちければ、
③富田が、馬より下に百(どう)と落つるところを、
④馬駆け寄せて、頸を取りてけり、
「朝倉始末記」
これは、前年のこと。
信長は、越前に、守護代として、前波吉継を配置していた。
ところが、その吉継が一向一揆に殺害された。
越前は、「一揆持ち」の国になっていた。
天正二年1574、一月十九日。 1574000119
「前波生害、越前一揆蜂起の事」
正月十九日、
越前の前波播磨(吉継)、国中の諸侍どもとして、生害させ候由、
申し来たり候。
「越前、一揆持ちに罷りなるの由に候」
子細は、
越前の大国守護代として居(す)ゑ置かれ候ところに、
栄花栄耀を誇り、恣(ほしいまま)に相働き、
傍輩に対し、万事に付きて、無礼至極に沙汰致すの条、
諸侍謀反を企て、生害させ、
其の上、国端境目に要害を構へ、番手の人数を置き、
其の後は、越前、一揆持ちに罷りなるの由に候。
信長は、敦賀に軍勢を派した。
秀吉は、近江長浜城主。
越前敦賀に近い。
直線で、北西へ凡そ八里半34km。
羽柴筑前守(秀吉)・武藤宗右衛門(舜秀)・丹羽五郎左衛門(長秀)、
不破河内守(光治)・同彦三(直光)、丸毛兵庫(長照)・同三郎兵衛(兼利)、
若州衆、
敦賀まで御人数差し遣はさる。
(『信長公記』)
また、これについて、「朝倉始末記」は次のように語っている。
①前波吉継の最期。
天正元年(1573)十二月下旬に、
桂田(長俊=前波吉継)、京都より下向仕りけるが、
俄(にわ)かに大国(越前)守護に成るの間、果報に負けるにや、
道中より、目を煩ひしか、忽(たちま)ちに、両眼盲(めくら)にて、
日月の光をも見えず、暗夜に灯(ひ)のなきが如く、
是れ即ち、神明の御罰なりと云へり、
(中略)
同二年正月十八日に、
志比の庄、中郡の一揆蜂起して騒動する事、斜めならず、
同十九日、一乗の上口・下口、二手に分かちて推し寄する、
(中略)
愍(あわ)れなるや、長俊(吉継)、心は剛なりと云へども、目は見えず、
敵が弓(左)手にあれば、妻(右)手を払ひ、
南より攻め掛ければ、北を打ち払ひ、
惘然(ぼうぜん)とし果てたる有様なり、
斯くありけるところに、軍勢攻め寄せて、馬より既に突き落として、
早々、頸を討ち取り、
正月廿日の朝の霜とぞ消へにけり、
②富田長繁の最期。
斯くありけるところに、同二月十四日、
大将七里(頼周=本願寺の坊官)方、国中の一揆等、諜し合ひて、
府中近辺へ推し寄せ、在々所々に陣取りけり、
(中略)
富田、其の夜は麓に引きて、明けを待つや、
八日(十八日)にまた、長秀(長繁)、山上へ攻める、
小林三郎二郎吉隆も連れて駒駆け出だしけるが、
忽(たちま)ちに心替わりして、後ろより、鉄炮を以って打ちければ、
謬(あやま)たず、
富田が鎧の押付綿噛み(肩の部分)はずれに磤(はた)とあたり、
樋と徹て、馬より下に百(どう)と落つるところを、
小林、馬駆け寄せて、頸を取りてけり、
生年、廿四歳、
古今、比類なき兵なれば、皆、惜しまざるはなかりけり、
(「朝倉始末記」)
「朝倉始末記」は、越前の戦国大名朝倉氏の興亡を描いた軍記物語である。
作者不詳。
朝倉氏滅亡後、間もなくの頃、旧臣の手によって書かれたらしい。
同氏についての、基本史料の一つ。
信長に関連する部分は、『信長公記』と照合しながら読めば面白い。
【引用】
⇒ 次へつづく