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本能寺の変1582 【四国問題】 天正十年 251001 №5-265 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【四国問題】 天正十年1582 251001 №5-265

    はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】 
    ←【五大要因】  中  小
    ←1 時代の風潮
    ←2 光秀の実像
    ←3 光秀の苦悩
    ←4 武田の滅亡
    ←5 信長の油断
     【足蹴事件】 目次 1/3 2/3 3/3 【重史040】 【重史041】
     【時は今・・・】 目次
    ←0521 目 0526 目  0527 目  0528 目 0529 目
     本能寺への道 1 2 3 4 5
    ←【注目ポイント】 目次
    ←【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】
    ←【人物】
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
    *加筆修正 250922 251001

    【四国問題】 天正十年1582 251001 №5-265

    【参照】【四国問題】 天正八年1580 天正九年1581

    一月十一日 【重史174】           ✓ 天正10 158200111
    信長は、元親に朱印状を送った。

    信長は、己の命に従わぬ者を容赦しない。
    「阿波南郡半国」を取り止めた。
    元親には、「土佐一国」のみとした。


      ①空然(石谷光政) 人々御中
      ②尚々、御朱印の趣も、元親御ため、然るべく候、
      ③始末、然るべく様に、万事、御異見、尤もに、存じ候、
                               「石谷家文書」

     【参照】
        【重史181】 阿波南郡半国、本国に相添え遣はさるべし
        【重史213】 阿・讃の儀、三好山城守、弥、仰せつけられ候、
        【重史012】 其外両国の儀、信長、淡州に至って出馬の刻~
        【重史042】 ~うしきの城・仁宇南方、残らず明け退き申し候、

    二月一日 【重史046】            公 天正10 158200201
    木曾義昌が裏切った(武田→織田)。

    二月三日 【重史046】            公 天正10 158200203
    信長は、出陣命令を下した。
    「甲斐へ」
    攻め口は、四つ。

    信忠を総大将とする先陣部隊が出発した。

      ①二月朔日、信州、木曾義政御身方の色を立てられ候
      ②二月二日、武田四郎父子・典厩(武田信豊)、木曽謀叛の由承り、
      ③二月三日、信長公、諸口に出勢すべきの旨、仰せ出だされ、
      ④二月三日、三位中将信忠・森勝蔵・団平八、先陣として、
                               『信長公記』

    二月九日 【重史047】           公 天正10 158200209
    信長は、甲斐出陣にあたり、十一ヶ条の条書を発した(①~⑪) 。

    三好康長は、四国へ出陣すること。
    光秀は、出陣すること。


      ①二月九日、信長公、信濃国に至りて御動座なさるべきについて、
      ②三好山城守、四国へ出陣すべきの事。
      ③惟任日向守、出陣の用意すべき事。
                                『信長公記』

    三月五日 【重史034】           公 天正10 158200305
    信長は、安土を発った。

      三月五日、信長公、隣国の御人数を召し列れられ、御動座。
                                『信長公記』

    三月十一日 【重史170】           公 天正10 15600311
    武田勝頼の最期。

      ①三月十一日、武田四郎父子、簾中、一門、
      ②こがつこ(駒飼)の山中へ引籠らるゝの由、
      ③三月十一日、巳の刻、各、相伴、討死なり。
      ④四郎父子の頸、滝川左近かたより、三位中将信忠卿へ、
      ⑤関可平次・桑原助六両人にもたせ、信長公へ御進上候。
                                『信長公記』

    三月十七日 【重史018】           ✓ 天正10 158200317
    信長は、己の勢威の強大さに驚いた。

      ①穴山、忠節を抽んずべきの条、朱印をなし、
      ②去る十一日四郎父子を討ち捕り、首到来候、
      ③典厩(信豊)の事、是も首到来、
      ④四郎の弟仁科五郎、是も首到来候、
      ⑤甲州の歴々の者ども、大略首を刎ね候、
      ⑥尾濃の浪人、土岐美濃守(頼芸)を始め、岩倉・犬山等、
      ⑦卅日・四十日際(きわ)に、一偏に属するの事、
       我ながら驚き入る計りに候、
                              「武家事紀」1/2

    信長は、絶対的な武力を手に入れた。
    「戦わずして、勝つ」
    これが、武田効果。

     【参照】3光秀と光慶 (2)光秀の年齢 4光秀、最大の敵
         そ第74話② 武田効果 
     【参照】10信長の甲斐侵攻 3信長、出陣 ◎第66話
         信長は、わずか一月で四ヶ国を手に入れた。
         「長篠効果」「本願寺効果」「武田効果」

     〃 〃 【 重史 019】           ✓ 天正10 158200317
    信長の強大さは、瞬く間に、諸国に知れ渡った。
    抗えば、滅す。
    「あの武田が、・・・・・」
    中国 毛利は、戦慄した。
    四国 長宗我部、これに同じ。

      ⑧相州氏政、駿河へ在陣にて、一廉(ひとかど)馳走候、
      ⑨甲斐・信濃の事、城介を残し置き申し付くべき候、
      ⑩路次険難、老足叶うべからざる儀に候間、
      ⑪京都・五畿内、並に、羽柴藤吉郎方迄、残らず相触るべく候、
                              「武家事紀」2/2

    光秀は、現役の戦国武将。
    ⑩老足(老人)では、ない。
    光秀の生年は、大永四1524±四年ぐらい。
    光秀の年齢は、五十九±四歳ぐらい。

     【参照】3光秀と光慶 (2)光秀の年齢 5結論 そ第77話
     【参照】11光秀の年齢 5結論 ◎第77話

    四月二十一日 【重史035】         公 天正10 158200421
    信長は、安土に凱旋した。

      四月廿一日、安土に御帰陣。
                                『信長公記』

    四月二十四日 【重史036】         ✓ 天正10 158200421
    そもそも、中国出陣は、「来る秋」のはずだった。

      ①中国進発の事、来秋たるべきの処、
      ②重ねて、一左右次第、出勢すべく候、
      ③猶、惟任日向守、申すべく候也、
                               「細川家文書」

    五月七日 【重史012】           ✓ 天正10 158200507
    信長は、三男信孝に、四国への出陣を命じた。

      ①今度、四国に至って差し下すに就きての条々、
      ②讃岐国の儀、一円、其方に申し付くべき事、
      ③阿波国の儀、一円、三好山城守 (康長) に申し付くべき事、
      ④其外両国の儀、信長、淡州に至って出馬の刻、申し出すべきの事、
      ⑤万端、山城守に対し、君臣父母の思いをなし、
                           「寺尾菊子氏所蔵文書」

    五月十一日 【重史225】          公 天正10 158200511
    信長は、信孝に、阿波・讃岐 二ヶ国を与えるつもりだった。【重史012】

    信孝は、四国渡海の準備に入った。
    「阿波国、神戸三七御拝領の事」

     ①四国阿波国、神戸三七信孝へ参らせられ候につきて、
     ②五月十一日、住吉に至りて御参陣。
     ③四国へ渡海の舟ども、仰せ付けられ、其の御用意、半に候。
                               『信長公記』

    信長は、未だ、土佐の国主(くにぬし)を決めていない。     ポ02③
    「信長、淡州に至って出馬の刻、申し出すべきの事」
    淡路島にて、決める、と言っている。      →ポ02② 【重史012】

    元親を取り巻く状況は、悪化の一途を辿っていた。       ポ02③ 
    故に、間に合ったとしても、「土佐一国」。
    それ以上は、有り得ない。 

    信長は、誇り高い男。            【信長の人物像】 信03
    己の命に従わぬ者には、容赦しない。

    元親は、土佐を失う可能性すらあった。            ポ02③
    間に合わなければ、さらなる減封。
    最悪、「没収」も有り得た。
    信長は、元親の名を記せず。               【重史012】
    となれば、国主は、余人。
    そういうこと、である。

    信長は、待った。                      ポ02③
    「なれど、遅い」
    遅すぎた。

    石谷頼辰は、未だ、帰らず。
    このままでは、失敗。
    光秀は、信長の「信」を失う。
    ・・・・・。 

    信長は、何も言わず。
    容赦なく、時は流れて行く。

    信長は、執念深い。
    このことを、決して、忘れない。       【信長の人物像】 信03

    五月十五日 【重史226】          公 天正10 158200515
    徳川家康が、安土に到着した。

    信長は、これを大いに歓待した。
    宿所は、大宝坊。

    接待役は、明智光秀。
    この日から十七日までのことである。

      ①駿河・遠江両国、家康公へ進らせらる。
      ②其の御礼として、徳川家康公幷びに穴山梅雪、今度、上国候。
      ③五月十四日、ばんばまで、家康公・穴山梅雪、御出でなり。
      ④同日に、三位中将信忠卿、御上洛なされ、ばんば御立ち寄り、
      ⑤五月十五日、家康公、安土に至りて御参着。
      ⑥御振舞の事、惟任日向守に仰せつけられ、
      ⑦十五日より十七日まで、三日の御事なり。
                               『信長公記』

    五月中頃 【重史040】           ✓ 天正10 1582005**
    「足蹴事件」1/2

      ①その盛大な招宴の接待役を彼(光秀)に下命した。
      ②これらの催し事の準備について、
      ③信長は、ある密室において、明智と語っていた
      ④反対意見を言われることに堪えられない性質であったので、
      ⑤信長は、立ち上がり、怒りを込め、一度か二度、明智を足蹴にした
                                『日本史』

     〃 〃 【重史041】           ✓ 天正10 1582005**
    「足蹴事件」2/2

      ①明智は、何らかの根拠フンダメントを作ろうと欲した
      ②過度の利欲と野心が募りに募り、
      ③それが天下の主になることを、彼に望ませるまでになった
      ④企てた陰謀を果たす適当な時期を、ひたすら窺っていた
                                『日本史』

     〃 〃 【重史227】           公 天正10 1582005**
    秀吉は、備中高松城を水攻めにしていた。
    「羽柴筑前守秀吉、備中国城々攻めらるゝ事」

    そこに、毛利の本軍が現れた。
    信長は、この好機を逃さない。
    即座に、決断した。

    信長は、毛利を滅ぼすつもりだった。
    さらに、九州を平定しようとしていた。

    信長は、光秀に出陣を命じた。

      ①中国備中へ、羽柴筑前守相働き、
      ②高松へ取り詰め、水攻めに申しつけられ候。
      ③芸州より、毛利・吉川・小早川、人数引卒し、対陣なり。
      ④今度、間近く寄り合ひ候事、天の与ふるところに候間、
      ⑤中国の歴々討ち果たし、
      ⑥九州まで一篇に仰せつけらるべきの旨、
      ⑦ 惟任日向守・長岡・・・、 先陣として、出勢すべきの旨、
                               『信長公記』

    五月十七日 【重史029】          公 天正10 158200517 訣別の日。
    光秀は、饗応役の任を解かれた。
    この日が、信長との最後になった。 
    出陣支度のため、坂本城に帰った。

      五月十七日、惟任日向守、安土より坂本に至りて帰城仕り、
                               『信長公記』

    光秀は、石谷頼辰の帰りを待っていた。
    「一縷の望み」
    他に、打つ手がなかった。

    土佐は、僻遠の彼方。
    片道だけでも、一ヶ月ほど時間を要した。
    頼辰の着日は、おそらく、月末。
    否、六月・・・・・。

     【参照】そ第78話⑨ そ第11⑩02 ◎第147話② 第147話

    信長は、必ず、上洛する。
    「信長、淡州に至って出馬の刻」、とある。   【重史012】五月七日
    ならば、その前。
    この月末・・・・・。
    光秀は、そう見ていた。

    光秀は、肚を決めた。
    間に合えば、・・・・・。
    間に合わぬ時は、・・・・・。

    なれど、・・・・・。

    五月十九日 【重史228】          公 天正10 158200519 信長は、家康のために、能舞を興行した。
    「幸若大夫・梅若大夫の事」

      ①五月十九日、安土御山惣見寺において、
      ②幸若八郎九郎大夫に舞をまはせ、
      ③丹波猿楽 梅若大夫に能をさせ、
      ④家康公召し列れられ候衆、今度、道中辛労を忘れ申す様に、
      ⑤御桟敷の内、近衛殿(前久)・信長公・家康公・穴山梅雪・
      ⑥世間の褒貶(ほうへん)あるべきやの御思慮を加へられ、
                               『信長公記』

    信長は、中国出陣を控え、気が立っていた。      【重史227】 
    梅若大夫を折檻。

    信長は、誇り高い男。           【信長の人物像】 信03
    世間の評判を気にした。

    そこに、「隙」が生まれた。
    光秀は、これを見逃さない。

    五月二十日 【重史229】          公 天正10 158200520
    信長は、家康に対し、最上級の誠意を示した。
    高雲寺御殿にて、饗応。
    信長は、自らが、御膳を運び入れた。

      ①五月廿日、徳川家康公御振舞の御仕立て仰せつけられ、
      ②御座敷は、高雲寺御殿、
      ③家康公・穴山梅雪・石河伯耆・酒井左衛門尉、外、家老の衆
      ④忝くも、信長公御自身、御膳を居えさせられ、
      ⑤家康公御伴衆、上下残さず、安土御山へ召し寄せられ、
                               『信長公記』

    五月二十一日 【重史230】         公 天正10 158200521
    (十日前)

    家康、上洛。
    信長は、家康を京都・大坂・奈良・堺の見物に案内した。
    「家康公・穴山梅雪、奈良・堺御見物の事」

      ①五月廿一日、家康公御上洛。
      ②京都・大坂・奈良・堺、御心静かに御見物なされ尤もの旨、
      ③案内人は、長谷川秀一。
      ④織田七兵衛・惟住五郎左衛門は、大坂にて、家康公の御振舞
                               『信長公記』

     〃 〃 【重史042】           ✓ 天正10 158200521
    元親は、信長の命を受け入れた。

    石谷頼辰は、土佐にいた。
    「武田滅亡」
    結局、これが、決め手になった。
    「武田効果」、である。

      ①尚々、頼辰へ、残らず申し達し候上は、
      ②今度、御請け、兎角、今に到り、延引候段、
      ③▢御朱印に応じ、此の如き次第を以って、
      ④不慮、成し下し候はん事、了簡に及ばず候、
      ⑤海部・大西*両城の儀は、相、抱え候はて叶わず候、
      ⑥是れは、阿・讃競望のためには、一向にあらず候、
      ⑦東州、平均に属し奉り、御馬を納められ、
      ⑧何事も何事も、頼辰、仰せ談じらるべく候、
                               「石谷家文書」

    だが、残念ながら、遅すぎた。
    結果、間に合わず。

    信長は、すでに、動き出していた。
    「四国出陣命令」              【 重史 012 】五月七日
    元親は、未だ、これを知らず。

    五月二十六日 【重史030】
      坂本を打ち立ち、丹波亀山の居城に至り参着。     『信長公記』

    五月二十七日 【重史028】
      一両日中に、御上洛の旨候間、是に、相待ち申し候、   「小畠文書」

     〃 〃   【重史031】1/2
      ①廿七日に、亀山より愛宕山へ仏詣。         『信長公記』

    五月二十八日 【 重史 005 】 そ第78話⑫

      
    時は今、あめか下なる五月哉        光秀
      水上まさる、庭の夏山           行祐
      花落つる、池の流れをせき留めて      紹巴
      (中略)
      色もか(香)も、ゑひ(酔い)をすゝむる花の下  心前
      国々は、猶、長閑なる時          光慶
                               「続群書類従」

     〃 〃   【重史031】2/2

      ②廿八日、西坊にて連歌興行。
      ③ときは今、あめが下知る五月哉
      ④五月廿八日、丹波国亀山へ帰城。
                                『信長公記』

     〃 〃   【重史032】
      ときは今、あめかしたしる五月かな、        「惟任退治記」

    五月二十九日 【重史033】

      ①五月廿九日、信長公、御上洛。
      ②御小姓衆二、三十人召し列れられ、御上洛。
      ③今度は、御伴これなし。
                                『信長公記』


         現在進行中!!




     ⇒ 次へつづく

     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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