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本能寺の変1582 【重史234】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史234】 『信長公記』

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    →【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
    →その一因 目次大 概説大 目次中 →
     1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
     3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
    →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
    →【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
    →【ここがポイント!!】
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史234】

    ①廿八日、西坊にて連歌興行。

    ②ときは今、あめが下知る五月哉  光秀

    ③五月廿八日、丹波国亀山へ帰城。

                           『信長公記』


     天正十年1582、五月二十八日。
               158200528
     (三日前)

     光秀は、愛宕山西坊にて連歌会を催した。

      廿八日、西坊にて連歌興行。

      発句     惟任日向守
      ときは今、あめが下知る五月哉   光秀
      水上まさる、庭のまつ山      西坊(行祐)
      花落つる、流れの末を関とめて   紹巴(里村)

      か様に、百韵(いん)仕り、神前に籠(こめ)置き、

     同日。
     光秀は、亀山にもどった。

      五月廿八日、丹波国亀山へ帰城。
                         【重史031】(『信長公記』)

     ここで、注目!!
     こちらには、「あめが下知る」とある。

     ⇄【比較参照】【 重史 005 】「続群書類従」「あめか下なる」
     ⇄【比較参照】【 重史 032 】「惟任退治記」「あめかしたしる」

      【参照】『信長公記』について。    →◎第4話
          「惟任退治記」について。   →【 重史 032 】
           これらの、真偽について。  →そ第78話⑬


     【引用】【四国問題】 天正十年1582
         【重史031】 そ第78話⑬
         W 31

     【参照】【四国問題】
        
    天正八年1580
        天正九年1581
        天正十年1582

     【参照】【四国問題 概要】
        
    天正八年1580
        天正九年1581
        天正十年1582



     ⇒ 次へつづく


     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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