
エントロピー
DATA B「時計の長針」
1
山は嫌いだ。必死に登っても、先が見えない。ゴールが見えないものに、人間は本気を出せない。だから、山は嫌いだ。
怜奈は重い荷物を持って、山の上の伊小多研究所に向かっていた。それもそのはず、兄である弘人が様々なものを忘れていったからである。前の研究所の所長に頼まれた際は快く了承したが、まさか山の上に研究所があるだなんて、いくらなんでも皮肉が効いている。そもそも、荷物を忘れる方の頭が知れない。全部、この山の頂上から落としてやろうか。
そんなことを考えていると、コンクリート造のドーム状の建物が二つ見えた。よく見て見ると、その間には廊下がある。
入口に向かうと、警官が二人立っていた。何かあったのかと、彼女は心配になる。「何か、あったのですか?あの、林田に用事があって・・・」
そういうと、警官は顔を合わせた後、こちらを向いて言った。「・・・現在、一般人の立ち入りが禁止されておりまして、申し訳ございませんが、引き返してください」
「は?」彼女は憤慨した。ここまでわざわざ持ってきて、そしてこの仕打ちなのか。引き返せだと?人を馬鹿にしすぎだ!大体、兄だって、大事なものなら自分で持っていけばよいものを、わざわざなぜ私が持ってきているのだ!こんなものに時間を割く義理はない!もうこのまま帰ってやろうか。
しかし、彼女はそのまま帰ってしまったら、負けた気がしたのだ。前言撤回、帰るわけにいかない!
彼女は警官に懇願した。「兄に渡すべきものがあるのです。どうか通して下さい」
警官は困った顔をする。「そういわれてもですね、今、このなかで事件が発生したため、通したくても通せないのですよ。本当に申し訳ありません。」
「せめて荷物だけでも預かってください!」彼女がそう大声を出すと、裏側から一人の偉そうな警官がこちらを睨みながらやってきた。「・・・貴方、通すわけにはいきませんが、荷物なら預かりましょう。誰に渡せばよいですか?」彼女は必至に、息を切らして答えた。「林田です。林田弘人です!お願いします」
その景観は言った。「・・・貴方、妹さんですか?林田さんの?」
彼女は非常に驚いた。なぜそのことを知っているのだろうか。「なぜ?」
「・・・いや、先ほど、真多里研究所から電話が来てですね、荷物を受け取ってほしいと委託されたんですよ。」
怜奈は腹立たしかった。ただの駒にすぎないのだ。
彼女は終始怒りながら、家へと帰っていった。「事件」という言葉は、認識できなかった。
「林田さん、お荷物が・・・」村本がこちらにやってきて、何やら重そうなバッグを渡してきた。
弘人はその荷物を受け取り、あまりの重さに一度地面に落としてしまった。ファスナーを開けると、中には充電器の数々と、食料品、さらに携帯が数台入っていた。部屋に運ぶのが億劫で、そのまま食堂に放り投げておくことにした。携帯は4台の中で2台は充電が切れていたため、ケーブルを刺して充電した。
「・・・あの、林田さん、ちょっとこちらへ」そういい、村本が手招きをしている。事情聴取だろうか。刑事ドラマでしか見たことがない。何時間かかるのだろうか。
談話スペースに移動し、火ぶたが切られた。
「・・・林田さん。今回、死体の第一発見者ですね?どのような状況でしたか?」
弘人は整理した。闇雲に考えても、意味がない。必死に情報を整理する。 「・・・あの日、私はコーヒーが飲みたくて、給湯室に向かいました。すると、食堂から音が聞こえました。大きくはありませんでした。その人物は東出口に近づき、「デルタ」と呼びかけていました。」「内容は?」村本は鋭い目つきでこちらを睨んで、威厳ある姿で椅子に座っている。
「そうですね、何と言っていたかはわかりません。ただ、何かをしていたのは事実でしょう。そして、音がしなくなったのを確認し、食堂を覗くと、向田さんが倒れていました。犯人が部屋から出ていくのを、私は直視してはいません。すぐに全員を集めました。全員、太陽館から、南出口を通ってきているのを、私は確認しています。向田さんには素手で触れていません。」彼は事情聴取で、嘘をついたら犯罪なのかと考えた。
「そうですか。ありがとうございます。そうですね、では、物音はどの方向からしましたか?」
この後、3時間程度は続き、途中で休憩をはさむ事態となった。苦痛だった。こんなに長く人と話すのは、学生の時以来だった。コーヒーも、たばこも、テレビも見ることが出来ない状況に、苛立ちを覚えていた。
他の人々はものの10分程度で事情聴取は終わっていた。全員、呆けている。死体があった場所を見るもの、コーヒーがこぼれたあとを見るもの、食堂を見渡すもの、絵画を見るもの・・・。
最初は大勢いた警官も、最終的には3人にまで減った。未だに村本は残って、何度も何度も食堂を見ている。少なくとも、弘人は村本が休んでいるところを一度も見ていなかった。
夜は明け、朝日が徐々に昇ってくる。窓の外が淡いピンクになっていく。キャンパスになる。
弘人はゆっくりとコーヒーを飲む。もう冷めてしまって、正直美味しくはない。
(熱は物体を構成する原子や分子の運動エネルギーの事だ)
彼はそう反芻する。面白くはない。
淡い光が全員の顔を朗らかに照らした。移動2日、事件から一夜が明ける。不可思議なものだ。どんなに暗いことが起きても、太陽は必ず昇ってくる。自然の摂理だ。人は、自分の近辺のことを自分の定規で測っている。それがどんなに愚かなことか。今日も世界は回っているのに。
「あの、林田さん?起きてくださいよ。」古城が話かけてきた。
弘人はゆったりと寝てしまっていた。それもそのはず、昨日は殆ど寝ていないのだ。眠気が一気に襲い掛かる。
「ああ、はい、すみません、すこし、ね」弘人は生返事をする。眠くて思考回路が上手く動作しない。視界のピントがあっていない。ふらふらする。弘人は朝が苦手だ。何も考えられなくなる。どんなに興味があることでも、わからなくなる。
「・・・あの、トイレってどこです?」彼はそう問うた。「えーと、給湯室の隣ですよ。こちらからみて左です。」彼女は言った。「rest room」と書かれたタイルがはめ込まれている。
この研究所は、マップがなかった。どこにどんな部屋があるのか、彼はまだ掴めていない。わかるのは、事務室と、助手室、助教授室に教授室、そして食堂と給湯室だ。これだけわかっていれば、取り敢えずはなんとかなる。部屋にコピー機があったのが、幸運なことだった。コピー機の部屋はないらしい。不便極まりない。
彼は、警察の許可をもらい、この建物全体を見て回ることにした。位置関係があやふやだった。
入口は、宵月館の東にあった。ちょうどここからは駐車場やボイラー室、倉庫、実験室、サイバールームが見える。中に入ると、右手に事務室、左手に助手室がある。建物中央にいくと、東西南北それぞれに通路があって、その壁に沿うように部屋がある。事務室の隣は会議室、助手室の隣は仮眠室だった。会議室の前は講義室で、助手室の前は教授室、仮眠室の前は助教授室だ。
太陽館に行くには、宵月館の北に続く廊下を渡っていく必要がある。太陽館の中心には食堂がある。円形の形をしていて、東西南北にそれぞれ、扉のない出入り口がある。南出口は廊下、東出口は給湯室、西出口はゼミ室、北出口は談話スペースがある。廊下と給湯室の間には、図書室と特別室、東出口と北出口はトイレと院生室が、北出口と西出口の間には研究室①と研究室②がある。そして西出口と廊下の間は、セミナー室と計算機室があった。意外と施設は多い。一階のみのこの施設で、これほどまで詰め込むのは、キャパオーバーな気がした。
大体の位置関係が分かり、再度食堂に戻った。相変わらず警官2人がいる。 この施設には常に警備員が2人いるそうで、入口の前の、小さな小屋の中で、人の出入りを確認しているらしい。警官が来てから、久しぶりの長期休憩だと喜んでいた。この職場の事を「ブラック」ということは、重々彼も承知している。
古城がこちらにやってきて、囁いた。「あの、いつ帰られますか?」彼は言う。「明後日かな。この場所、今すぐにも離れたいからね。事件解明は実力のある刑事や探偵に任せよう。僕は今も帰りたいのだけれど。」
古城は髪をいじりながら言う。「あの、考えてみません?この事件。何かあると思うんです」
彼は驚愕した。何を言い出すかと思えば、考えませんか、だと?今すぐに帰りたいのに、無駄足を増やしたくなかった。さらに、自分は事件と無関係なのだ。自分にも帰る義理がある。彼はそう考えたが、流石にそのまま伝えるわけにもいかなかった。「・・・そうだね、何かあるのは事実だ。ただね、僕は、もう帰りたいのだよ、古城さん。」
古城は抗議した。「自分で考えてみたいんです。お願いします。ね?」
「馬鹿げている。自分たちでは無理だ。考えられない。情報量に差がありすぎるのだよ。多分、自己満にもならないよ?」「それでもいいんです。一緒に考えてください!明後日まででいいですから、ね?」
その時、後ろから太い声が聞こえた。村本だ。
「・・・林田さん、どうもそういうわけにはいきませんよ。」
彼は驚いた。なぜだろうか。疚しいことなど、何一つないのに。「あの、刑事さん?冗談はきついですよ。このタイミングで」彼はそう笑顔を演じる。
「いえ、冗談じゃないですよ。あのですね、」村本は顔を顰めてこちらをみる。
「なんです?」彼は真剣な目つきで相手を見る。
「・・・向田さんのスーツから、貴方の指紋がたくさん検出されました。」
「はい?なんですか、そんなわけない!私は彼に触れていないし、触れられていない!」
「私どもは事実を申し上げたのみです。さあ、少しこちらへ。」
「はい?何ということだ!冤罪だぞ!」彼は必至に抗議した。
「取り敢えず、話しましょう。談話スペースに移動してください。」村本は無表情でこちらを睨んでいた。
2
弘人は談話スペースの椅子に座った。冷たく、人間味をまったく感じさせない。
目の前には、重々しい雰囲気の刑事が、こちらを睨んでいる。刑事もまた、冷たく、人間味を感じさせなかった。村本はコーヒーではなくただのお茶を飲んでいる。空気が鋭い。本番、というわけだ。
「あの。どういうことです?スーツから、僕の指紋が・・・」弘人はそう問うた。理解が追い付いていなかった。今、彼はスーツを着ていた。たばこが吸いたい。
「ええ、そうですよ。そうですね、指紋が、はい、でましてね」ゆっくりと、且威圧感のある話し方をしている。村本はふう、とお茶を飲み、こちらを見た。「スーツからね、たくさんですよ。」
弘人は抗議した。「監視カメラは?確認したのでしょう?どうでした?」
困窮極まりない顔で村本は言う。「写っていませんでしたよ。まったく」 そう言って、天井を見た。人間は、困ったときに上を向くのだろうか。 「・・・死体が突然でてきただけです。犯人は写っていませんでした。おそらく、サイバー室等で、その日のその時間帯を静止画でループさせるようにしたのでしょうね。ただ、その手のトリックは何度も見ましたよ」村本はこちらを見る。「どうなのですか?林田さん」
弘人は言う。「そもそも、昨日、初めて来たのですよ?何を言い出すかと思えば・・・、本当にしょうもない!勝手に犯人扱いしないでもらいたい!」彼は大声を出して、必死に村本に潔白を証明しようとしたが、要素が少なすぎて、どうしようもない。「ほら、他の所の監視カメラは?どうなんです?」
「全てです。全て、ループ映像です。意味がないのです、今回は。」村本はいかにもお前が犯人だ、というアピールをしてきた。
「・・・わかりました、わかりましたよ。ならですね、こうはどうでしょう。私がこの事件を解明してみせます。明後日、夜、いいですね?きっと、きっと、見つけて見せますよ、犯人を。」
村本は失笑した。「馬鹿な事を言わないでくださいよ、林田さん。いくらなんでも・・・、それに、私どもですらまだ分かっていないのです。どうすると言うのです?」
弘人は言った。「・・・犯人は、分かっています。」
村本は驚いた顔でこちらに身を乗り出してきた。「本当ですか?誰です?誰が犯人ですか?」
「明後日、お伝えします」弘人はこの答を聞いた村本の行動に期待した。
「・・・いいでしょう、わかりましたよ、もう。明後日までに教えてくださいね。それじゃ」そう言って、異例のハイスピードで事情聴取は終わった。
助教授室に戻り、弘人は椅子についた。天井を見上げて、口を開ける。
(自分の指紋が付いたスーツ・・・)
どういう事だろうか。もしかしたら、犯人は自分に容疑を向けさせようとしているのか。
(あの時聞こえた「デルタ・・・」の声は・・・?)
確実にあの時、犯人はデルタに命令をしたのだろう。デルタに、命令受付の履歴はあるのだろうか。あれば犯人特定は簡単だ。ただ、ないとなると、非常に厳しい。
(おそらく、犯人はこの研究所の職員か・・・?)
彼は施設の部屋を確認している間に、研究所を囲む壁は上に有刺鉄線が張り巡らされていることを確認していた。さらに、入口には警備員がおり、警察への事情聴取で「人の出入りはありませんでしたねえ」と発言していたのを確認していた。ただ、事情聴取は嘘をついても原則罪に問われないことを知ってしまった為、彼等が嘘をついていないと案力に定義をするのは返って危険ではある。ただ、仮定しなければ始まらないため、嘘をついていないと仮定して考えることに帰結した。これには、後に嘘をついていると確定したとき、逮捕される可能性があるということも考慮した結果である。このことは、法学部の怜奈に聞いたことだった。
彼は再度、食堂に向かおうとすると、古城がドアの隙間から顔を出した。 「あの、犯人がわかったんですか?誰です?」
弘人は驚いて聞いた。「・・・言っただけで、事実ではないよ。それで、なんで知っているんだ?」
彼女はやんわり笑って答えた。「ふふっ、談話スペースの端から、存在感を消して聞いていました。どうです?私、刑事になろうかしら」彼女は笑っている。
「うーん、まあ、やってみる価値はあるんじゃないか?君が刑事なら、全世界の犯罪者が事実を答えそうだね。雰囲気でわかるものじゃないか、そういうことは、ね?」彼は曖昧に、そう答えた。
「ふーん」彼女はそう答えたあと、「もし私が刑事ではなくて犯罪者になったら?」と聞いてきた。
「あのね、古城君。それ、ジョークになってないよ、まったく。・・・まあ、でも、君がもし犯罪者だとしたら、全世界の刑事が困るだろうね。同じ理論で、ね?」彼は神妙に答えた。
「ふふっ、それは褒めてらっしゃるの?」彼女はそう言う。なぜかその顔が魅力的に感じてしまった。
「・・・うん、まあ、そんなところだね。とにかく、今は目の前のことに集中しよう。古城君、少し、捜査に付き合ってくれるかい?」彼は問う。
「ええ、いいですよ。最初から賛成していればいいのに」彼女は笑って答えた。「捜査だなんて、重々しい単語を使うんですね、林田さん」
「うん、ちょっとね」彼は天井を見る。「少し、困っていてね」
「数学者ですね」彼女はそう言った。「概念に、縛られすぎていますよ。捜査には、自由な発想と、建設的な科学がないと」
彼は問う。「どういうこと?」
「定義できないものが、存在するかもしれない、という意味です」彼女は言った。「〈定義できない〉ことは、〈理解・認識できない〉ことではないのですよ。
弘人は笑って言った。「そうだね、そうかもしれない。あぁ、これもまた一興だ」
他愛もないわけではない話をし、弘人と古城は食堂へ向かった。現場を見ることは、捜査において非常に縦横なことなど、刑事ドラマで知っている。
食堂につくと、殆どの職員は各自の部屋に戻っていた。深谷だけ、その場に残っていた。食堂をくるくる歩き回って、なにかぶつぶつ言っている。思考回路が読めない。時々床を見つめ、なにか思い出したように指を回した。右手にはコークが握られている。「あぁ、林田さん、古城さん。どうしたんです?」気づいたように、深谷は声をかけた。
二人はお互いに顔を見合った後、「ええ、まあ、警察にケンカを売ったものでね、この事件を明後日までに解明して、顔に泥を塗ってやろうと考えたんですよ」弘人は答えながら、言語化すると以外と愚かなことだと自覚をした。
「はは、刑事相手に、そりゃあ、魅力的だ」深谷は笑って、コークを飲んだ。「まあ、ただの一般的な数学者と、事件解明を専門とする超エキスパートの彼等じゃあ、結果が見え透いていますなあ。でも、こういうのも悪くはないじゃないですか?」終始笑っている。
「犯人が分からなかったら、どうするおつもりで?」古城は弘人に聞いた。いつのまにかジュースを持っている。いつ買ったのだろうか。
「・・・まあ、自分が無実なのは事実だからね」弘人はのんびり答えた。緊張感がなかった。こういう刑事ドラマのようなことは初めてで、実際どこから捜査を始めるべきか分からなかった。「・・・警察が、事実に到達するのを待とうかな。・・・ねえ、古城さん。ジュースはどこで買ったの?」彼は聞いた。
「・・・先生、気を抜いていますね。また誰か殺されちゃいますよ」彼女は言う。「もう、一人殺してしまった人は、誰でも殺す覚悟があるんですよ、おそらく」
「・・・まるで、xを0で割ったみたいだね」弘人は上を見た。「・・・不定だ」
3
弘人は蘇原くみについて調べることから始めることにした。蘇原くみ・・・。前伊小多研究所所長。デルタの開発者。今、蘇原くみはどこに行ったのだろうか。事務室に歴代の所長の名が載っているかもしれない。古城に頼むことにした。「古城さん、ちょっと、過去の所長を調べられる?」
古城は笑って答えた。「いいですよ。では、事務室へ」そういい、手を差し伸べた。
彼はその手を無視して、事務室に向かった。後ろから、ぶつぶつと文句を言う古城が付いてきている。どうやら、手を取った方がよかったのかもしれないが、必要性が感じられない故、取らなくて正解だと理解した。もしかしたら、彼女は自分を試しているのかもしれない。
「はい、これ」彼女は隅に置かれたファイルの山から、一つのファイルを取り出して、こちらに差し出した。黄色いファイルだ。
「うん、ありがとう」彼はそう言って受け取り、中を見た。①から➂まで載っている。①は伊小多 蒼平と書かれている。どうやら、俗にいう初代らしい。二代目はあの蘇原 くみだった。備考欄に、「逃走。おそらく自殺」と書かれている。「古城さん、これ、どういうこと?」そういい、古城にその備考欄を見せた。
「逃げたのですよ。遺書があったから、おそらく死に場所を選びに行ったのでしょうね。健全な思考回路ではないことは事実です」彼女は言った。
「そうだね、自殺って、綺麗な死に方ではない」彼は言った。「一番、綺麗な死に方って、何だと思う?古城君」彼はそう言った。いささか不謹慎なのは承知の上で。
「・・・老衰ですか?」彼女はそう言って顔を見た。「そもそも、死に方に綺麗さを求めてはいけないですよ。死んだら、名声しか残らないのだから」彼女はジュースを飲みほした。いつのまに、ペットボトルは空っぽになっている。
「・・・そうだね。それもそうだ。理にかなっている」彼はそう言った。「・・・でもね、僕は思うんだ。多分、いつかは記憶の海の底で、誰かが思い出してくれるのを待ち続ける。それは心底辛いだろう?だから、綺麗な死に方を考えて、せめて、自分が生きてきたことに称賛したいのだよ」
「ふうん」彼女はつまらなそうな顔でこちらを見た。「・・・ねえ、格好いいことを仰った気になっていません?そんなこと、これぐらいしか綺麗でありませんよ」そういって、彼女は指と指で小さな隙間を作って見せてきた。「それも、また人生ですよ」
彼は言った。「・・・うん、話しがずれているね。戻そうか」
彼女は抗議する。「いいえ、先生が始めた話です。私には関係がありませんよ。後始末は、言い出しっぺがするものです。そうでしょう、丹波君?」
丹波は驚いた顔でこちらを見た後、「あ、あ、え、あえ、ええ。はい、そうです。」と歯切れの悪い発音でしゃべった。どうも、最近の出来事のことで混乱しているようだった。覚束ない顔をしている。可哀そうだ。海に浮く死体のような、青白い顔をしている。
「まあいいんだよ。それで、デルタって、調べられないの?」弘人は言った。デルタがいじられた形跡を探そうとした。
「・・・デルタには、いじられた痕跡がないそうです。サイバールームで、警察が調べていました」古城は言う。「・・・実は、デルタの管理者は、蘇原くみ自身なんです。なので、内部をいじれるのは蘇原くみと、ハッカーのみかな。でも、ハッキング対策が万全なはずですよ。最低でも、今まで、そんなことはありませんでした。つまらないですよね。最初から完璧だなんて」彼女は心底つまらなそうに言った。彼はこういうのに疎いため、よくわからず、「うん、確かにね」と曖昧に返事をした。
弘人は随分と考えたが、突如、あることが気になった。「・・・ねえ、サイバールームって、なんであるの?もし、デルタが完全にハッキングも効かないとすると、サイバー室の重要性は皆無だよね?」
彼女は言う。「飾りじゃないですか?ほら、サイバールームって響き、なんか惹かれるじゃありません?」
彼は否定した。「いや、きっと、何か設置する意味があるんだよ。多分ね」
彼女はこちらを向いて言った。「・・・先生、自動販売機って、どこにあるか知っていますか?」
彼は答える。「・・・いや、知らない。なぜ?」
彼女は答えた。「・・・私たちは、ずっと一緒に移動していたという先生の認識によって、私がどこでジュースを買ったのかという問題が提起されるわけです。しかし、もし、〈途中で一度別れた後、再度合流して食堂に入った〉と考えれば、この問題は、どうやってジュースを買ったのか、ではなく、どこにジュースを買える場所があるのか、という問題になる。つまり、たった一つの認識で、一つ問題が解決に向かうんです。」
「はあ」弘人が納得するには数秒の時間を有した。「・・・それで、どこにジュースを買える場所があるんだい?」
「そこです。そもそも、なぜ〈買う〉という行為のみでジュースが手に入ると思うのですか?もらったかもしれないじゃないですか?」
「それはない。なぜなら、教授を覗いた全員が部屋にいるからね。深谷教授はあの時、コーク・・・。少し待ってくれ・・・。では深谷教授はどうやってコークを入手した?」
「そこです、先生。そこです。深谷教授と私の共通点は?」
数秒考えて、彼は言う。「・・・長くいる?」
「あたり!そうです、考察は連想ゲームです。ゲームなんです」彼女は言った。「長くいると、場所はわかりますよね」
「・・・つまり、僕が入ったことのない施設か・・・。倉庫かい?」
「そうです!倉庫にストックがあるのです。それを、事務室の冷蔵庫で冷やして、飲んでいるんですよ」
彼は驚嘆した。なんて魅力的なことだろうか。「・・・すごいね、古城君。本当に刑事に向いているんじゃないか?・・・そうだ、倉庫に行って、ジュースを飲もう」彼はジュースがあまり好きでなかったが、こんなことがあると、無性に飲みたくなった。
入手したコークを片手に古城と一緒に歩いていると、深谷とすれ違った。「おや、林田さん。コーク、いいですよね。僕は、ビールなんかより、コークがいい。」そう言って、空のペットボトルを右手から左手に持ち替えた。「古城さんは?どこにいるのです?いつもなんだかんだ一緒にいるじゃないですか」
彼は後ろを見た。誰もいなくなっている。「あれ、おかしいな・・・。おーい、古城君?ドッキリとか、やめておくれよ。心臓に悪いからさ」彼は言った。
一分後、彼女は物陰からひっそりと出てきた。「ああ、林田さん・・・。ごめんなさい」彼女は手を合わせ、申し訳なさそうにうつむいた。「トイレに、あの、すみません、無断で」
「いやいや、いいんだよ。こちらこそ、無神経で、すまない」これは、お互いに頭を下げ続けるという異常事態に発展した。それを深谷は遠い目で見ていた。
「・・・あの、すみません、私はこれで、御暇させていただきますね」深谷はそういい、そそくさと教授室に戻っていった。それを静かに見ていた二人は、お互いに目を合わせて、「・・・行こうか?」と弘人は声をかけた。 「・・・ええ、はい」古城も賛成した。小さな、オメガの中で。
全てのURLはDATA αに記載。
DATA α「ギリシャ的前書き」
➟https://note.com/jolly_zebra1122/n/n872b23413251
DATA A「無限の観察者」➟https://note.com/jolly_zebra1122/n/n42710cec170b
DATA B「時計の長針」
➟当記事
DATA C「無機質の声」
➟https://note.com/jolly_zebra1122/n/n66f87f3d1b2c
DATA D「沈黙の箱」
➟https://note.com/jolly_zebra1122/n/n71163340d808
DATA E「狂詩曲の花」
➟https://note.com/jolly_zebra1122/n/n264437dfce84
DATA F「再度の来訪者」
➟https://note.com/jolly_zebra1122/n/n94728964a97d
DATA ω「背後の解説」
➟https://note.com/jolly_zebra1122/n/n29874adbf2af