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エントロピー

    食パンの耳

    DATA A「無限の観察者」

                     1
     「デルタ、オープン。」
     重いバッグを持って、今、白を基調としたコンクリート造の建物を眺める。ハイテクという言葉はこれを表しているのではないかと思うほどに綺麗で、若干のSF風の雰囲気をも兼ね備えている。ドアにはドアノブがなく、隣にスピーカーのようなものが、小さな赤色のLDEを光らせている。
     林田弘人は、前に所属していた真多里研究所の所長に、伊小多研究所の人員が少なくなっており、専攻が同じなので人員を送ることになったらしいと告げられ、行ってきなさいと、所長室で伝えられた。彼にとって、人が少ないことは望んでいたことだった。静かに、自らのテーマに集中できる。理想的な職場だ。
     いざ移動となると、真多里研究所になぜか郷愁の念を抱くようになった。あれほど望んだ移動ながらも、自分が知っている所には未練や安心感があり、簡単には離れられなくなってしまった。彼はそんなことを思う自らの心に驚き、失望した。このこぢんまりとした雰囲気も、この慣れた空気感も、何故か彼は好きになっていたらしい。思い返してみれば、色々なことがあって、今の自分がいる。そう思うと、彼は意外にも影響を受けていたのだなと自負する。真多里研究所で聞く最後のアナウンスが聞こえて、彼はそそくさと家に帰る準備をした。胸ポケットには一カートンのたばこが入っていた。
     移動の当日、その日はじめじめとした小雨の日だった。移動には適さない天気といえる。メリットは、気兼ねなく研究に没頭できることだ。
     弘人は雨が嫌いだ。湿っているものは、触れているだけで気持ちが悪い。店の椅子、電車の手すり、不意に上から降る大きな雨粒、傘の取手・・・。濡れていると違和感がある。
     冷たき空気が彼を刺し、日光が遮られたこの日、彼は伊小多研究所に移動となった。この研究所は、比較的最近になって作られた。全てのドアが音声と指紋でのみ開くため、鍵やドアノブは必要性を失ったことから一年程度前に撤去されたらしい。大きなドーム状の建物が二つ並んでいる。その間にはその空間を繋ぐための廊下があり、この廊下は外気と接していて、風通しがいい。小さな池が見えて、その中では鯉が優雅に泳いでいる。北側のドームは「太陽館」と呼ばれている。ゼミ室や談話スペース、院生室、食堂がある。対して南側のドームは「宵月館」と呼ばれている。事務室や準備室、助教授室やその他さまざまな部屋がある。無論、弘人は助教授室に入った。誰が教授なんてするものか。そういつも思う。よほどの物好きなのだろう。蓼食う虫も好き好きとはよくいったものだ。周りは高いコンクリートの壁がある。洒落た彫刻が点々と置いてあり、空虚な庭を必死にお洒落にしようという意思が見える。所々に苔が生えた植木鉢がある。
     ドアがゆっくりと開いて、弘人は足を踏み入れた。建物内は冷たく、弘人を侵入者と思っているかのようだ。雨音はやまない。
     教授室が開いて、ひげが生えた貫禄のある男が出てくる。こちらを向いて、笑顔になり、彼に呼びかけた。
     「やあ、新しい助教授ですか?わざわざこんな田舎まで、ありがとうございます」コーヒーを片手に男は言う。「私は向田宏です。所長ですわ。こちら、どうぞ」そういい、名刺を渡してきた。偉そうなことが書いてある。ざっと目を通し、彼は聞いた。
     「ひろしさんですね?これからよろしくお願いいたします。私は林田弘人です」そういい、自らも名刺をわたそうとすると、「そんなことは知っていますよ。ささ、こちらへ」と向田は言った。礼儀がなっていないが、このぐらいの雰囲気こそが一番気が楽なのは事実だ。そもそも、礼儀は対人用のツールであって、研究者という変人のあつまりである彼等には不必要なものである。脳のリソースを無駄に減らす邪魔なものだ。それでも覚えておいて損はないだろうという安直な精神で弘人は一応覚えている。
     助教授室は教授室の隣だった。部屋は狭い。でもそれがいい。緑はない。窓はあるが、すりガラスで、外の様子を簡単には視認できない。白い空間だ。部屋の隅にテーブルや印刷機など諸々の大事な機材がある。椅子は自在に動くタイプだ。キャスターがついている。彼にとって、これは解せなかった。普通の椅子が一番なれていて座り心地も良い。それに、ふとした時に勝手に動いてしまうのは迷惑だし、いちいちストッパーをかけるのも面倒だ。
     弘人は部屋を一瞥したあと、「すみません、喫煙できる場所は?」と笑顔で聞いた。向田は一瞬悩むような表情を見せた後、「すみません。全室禁煙です」と言われてしまった。胸ポケットの一カートンは何の意味も持たなくなってしまった。残念極まりない。
     彼はその後全室を一通り見た。特に面白かったのは食堂だ。円形で、壁に四つ、綺麗に東西南北になるようにドアのない出口と絵画が配置されている。一つ目はレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』、二つ目はボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』、三つめはラファエロの『アテネの学堂』、四つ目はレンブラントの『夜警』だ。勿論すべて模写だが、どれも素晴らしい作品ばかりだ。ただ、こういう芸術チックなものは、彼は苦手だ。どちらかというと、文学よりも数学、もとい理系だったため、文系の才能はない。彼の3つ目の弱点だ。弱点はざっと30個ほどある。
     伊小多研究所の部屋の紹介が終わり、ひとまず荷物を助教授室に置いた。教授と助手とのタイミングが悪かったのかいなかったため、挨拶ができなかった。静かだ。科学とセンスの集合体の空気が彼の肺を埋め尽くす。
     向田と別れ、助教授室に行ったが、向田がコーヒーを持っていたのが気になったので、事務室に行き、ゆっくりと本を読んでいる女性に声をかけた。  「あの、恐縮ですが、コーヒーはどこに?」
     女性はこちらをじっと見た後、慌てた様子で「今すぐ用意したしますので」といったが、彼はそれを制した。「いえ、場所だけでいいですから」
     女性は驚いた顔をした後、「食堂の西出口の前の給湯室です」と返答した。彼はなにか引っかかったが、気にせずに「どうもありがとうございます」と返した。
     意外と距離がある。廊下へ続くシルバーのドアを指紋で開けると、久しぶりの外気が彼を覆った。自然から隔離されている。一体何をもって田舎といったのだろうか。否、これほどの研究所を立てられる土地があることと、これほどまでしないと自然と離れられない環境を持って行ったのだろう。極めて的確な表現だ。
     定義できないものは存在しない。故に、我々の思考の限界こそが、世界の境界線なのだ。思考力を持つものは、その思考力を超えるものを創造できないし、理解できない。三次元の私たちが四次元を視認できないのと同じだ。データ上でできても、それを全て理解し、応用できるかどうかは、私たちに任されている。故に、思考力は自由だ。不自由は狭き思考力のこと。頭が固い者は不自由に憤慨し、頭が柔らかい者は自由の海を泳ぐ。
     βの空を見た。青い。ただ、すこしの黒さも持ち合わせている。青黒い空。αを夢見る空が、彼を見ている。
     部屋に戻ると、彼はさっそくパソコンを立ち上げ、100件近く溜まっているメールを読む。コーヒーはまだ熱くて、とても飲めそうにない。そっとパソコンの隣において、キーボートを寂しく打つ。
     あるメールを読んだとき、手が止まった。友人からのメールだ。
     「よお、元気にしているか?移動になったんだってな。いい場所だといいのだけれど。俺は今ロンドンで朝食をとっているよ。場所によって変わるんだな、文化圏が違うからか?さて、閑話休題。今、小説を書いているよ。たのみなんだけど、お前をモデルにしてもいいか?どうもネタがねえ・・・。返信、急げよー                      長田 英」
     呑気なものだ。さっと一文字だけ書いて返信した。
     「是」
     ドアが叩かれている音が聞こえる。パソコンを閉じ、ドアをあけると、さっきまで事務室にいたはずのあの女性が立っている。
     「あの、大丈夫でしたか?」よほど心配なのだろう、顔には不安という二文字が浮かび上がっている。
     彼はもし大丈夫でなかったら再度聞いているであろうと推論したが、言葉を選んで答えた。
     「大丈夫ですよ。わざわざ確認まで、ありがとうございます。」
     女性はたちまち懸念が晴れたのか、顔に明るさが戻る。「よかったです。なんでも聞いてくださいね。」
     「デルタ、クローズ。」
     部屋のドアを閉めて、メールの確認をしたが、特に重要な連絡はなかった。
     彼はずっと、この音声を認識してドアを開ける機械の名前が、初めて聞いた時から好きだ。デルタ。ギリシャ文字の4番目の数字。数学では「変化量」を表す。ドアを閉めた状態から開ける状態にすること、また開けた状態から占めた状態にするという変化を担っている点や、今までの手動から、自動化になるという変化を表す点において、「デルタ」という数字は適切で、且かっこいい。非常に魅力を感じる。
     そもそも、この研究所には所々にギリシャ文字が用いられている。この数学のための建物が、彼は好きだ。居心地がいいし、なんといっても思考力を奮い立たせる。
     (本当にすごい。これを作ったのはどんなプログラマだろうか)
     この、絶妙な匙加減。便利すぎず、不便過ぎない、この、ある程度人間が堕落しないようにもなっていながらも防犯までこなすこのデルタを開発したのは誰だろう。これを作れるのは天才だろう。
     (そうだ。天才は存在する)
     抗えない、絶対的な才は、万人をも凌駕する。完全な天才は、最早希少になってしまった。
     (不完全な天才は多い。そしてそれよりも多い愚・・・)
     そうだ。自分自身は愚だ。弘人は思う。そしてその自覚をするたびに頭が痛くなる。
     (あぁ、たばこが吸いたい)
     彼は憔悴しきっている。自分のその立場は、多くの物と者に必然的に折られ、踏みつぶされていく。
     (思考回路が負になっている。リセットしよう)
     彼は一気にコーヒーを飲んだ。
                     2
     雨の音はより激しく、着実にこちらに襲い掛かっている。台風かもしれない。
     正直、このままでもいいとも思ってしまう。ただ、それでは今までの道標は無駄の長物だ。ただ、それでも今の状況はあくまで窓の外であり、弘人には関係がないとも考えてしまう。不定としようと、彼は考える。
     コーヒーを飲んだ後の紙カップには、黒い線がくっきりと残っている。それを持って、ドアの外にでた。その時、デルタの無機質な声が響き渡った。
     「現在、この地区での大きな停電が発生。一時的にシャットダウンします。」
     その瞬間、息をのむ声と、ピッという音と、シータの音がした。
     復旧は早かった。ものの1分程度で、突如消えた電気が復活し、煌々とコンクリートを照らした。どうやら、貯めていた電力を一時的に使用しているらしい。廊下に出ると、周りは漆黒に包まれ、この建物のみが光をはっしていた。
     (紅一点、いや、光一点、だな)
     そんなジョークが頭に浮かんだ。意外と頭が冴えていることに弘人自身が一番驚いていた。緊急時だからか、あるいはあの冷たきコーヒーか・・・。
     デルタの声がする。「台風に伴い、飛来物が電線を損傷したと情報を取得。」デルタは他人事のように言う。いや、この場合は声らしき音を発している。このように音を発するよう、事前にプログラムされているのだろう。   一体、開発者はどこまでの緊急事態に対応するようにプログラムしたのだろうか。
     結局、数時間後に電力は完全に復旧した。デルタも通常運転に切り替え、さらに明るくなっているように感じる。無性にたばこが吸いたくなる。脳が働かない。
     事務室のあの女性が走り寄ってきた。
     「デルタによると、もう復旧したらしいですよ。」そういい、こちらの顔を伺ってきた。「大丈夫です?」その顔にはあの不安がへばり付いている。
     「ええ、まあ」そういい、虚偽の笑顔を向ける。「なぜ、僕にだけ?」
     女性は一瞬戸惑いの表情を見せたが、すぐに体制を整えて、「・・・全員に伝えていますよ?」と言った。しかし、弘人は女性がどこの部屋にも言っておらず、初めに彼に言ったことを直感で理解した。理由は不透明だが、そのぐらいの推論は、自分たちの特技だと口走りそうになる。
     「・・・そう、ですか・・・。」結局曖昧な返事しかできない。彼の脳はすでにキャパオーバーだ。「いや、変なことを聞いてすみません」そう謝った。謝罪ほどいやなものはない。謝罪したということは、自分の非を認めた、ということだ。謝ったら最後。何と言われても、もう謝り倒すしかない。
     弘人は続けた。「あの、何度もお会いしますし、お名前をお聞きしても?」なるべく自然な笑顔で、穏やかに話しかける。女性は静かに頷き、言った。「・・・古城 花です。」
     台風の影響による停電で、弘人はもう十分に寝付けなくなってしまった。仮眠室を後にして、デルタに話しかける。デルタの開発者に会いたい。彼はそう思った。
     「デルタ、君はなに?」
     返答はない。ないだろう。そう思っていた矢先、答えは返ってきた。
     「私の名前はデルタです。ご用件は?」
     否、そんなことは聞いていない。「君はなにで、誰が作ったの?」
     「私の名前はデルタです。蘇原女史によって作られました。」
     蘇原?誰だ。そんな人物はここにいない。
     「蘇原という人物は誰だ!」
     デルタは数秒間の沈黙のあと、音を立てた。
     「・・・蘇原 くみ。性別、女。出身、愛知県。元伊小多研究所長。論文は2枚。」
     元?さらに亡くなっているとしたら没年が表示されないだろうか。まだ生きているとみて間違いない。
     「デルタ、蘇原くみは今どこにいる?」
     沈黙。
     「・・・すみません。わかりません。」
     「デルタ、蘇原くみは一体何者だ?」
     「・・・プログラマです。」
     「知っている。蘇原くみは今、何をしている?」
     「・・・くらい。」
     くらい?暗い所にいるということだろうか?彼はそう洞察する。たばこがないため頭の回転が鈍い感覚が、彼自身にも襲い掛かる。
     もうデルタと押し問答しても、有益な情報が出てこないと推測し、彼は、翌日に所長に直接開発者の現在を聴くことにした。会えればそれだけで光栄だ。
     脳を落ち着ける。大丈夫、今までだってそうしてきた。大丈夫、気が動転しているだけだ、今にも直る。大丈夫だ、さあ、深呼吸をする。
     彼は深い呼吸をした後、コーヒーを入手するために給湯室に向かった。建物全体が暗く、所々に少しの明かりが埋め込まれているだけだ。おそらく、夜間は煌々と電気を付けないようになっているのだろう。どちらにせよ、寝付けなくなった彼には関係のないことだった。
     給湯室はドアがないため、デルタに呼びかける必要もない。中に入ると、少しの明かりすらも届かず、そこは深海のようになっていた、
    お湯を作っている間、ふと食堂から物音が聞こえた。彼は今、西出口の外にいる。絵画は『アテネの学堂』が一番近い。
     なるべく物音を立てないようにして食堂の中に入る。暗くて視認できない。空気が冷たく、雨が降り続いているため過度に湿っている。気持ちが悪い。
     人影が見える。何かをしているのだろうか、必死に手を動かし続けている。話しかけようか、話しかけまいか迷っていると、人影は手を止め、立ち上がった。そしてこちらに向かってくる。
     咄嗟に給湯室に戻ると、「デルタ・・・。」という声が聞こえた。その時、カチッという音が聞こえた。そしてごそごそと物音を立てている。
     食堂から音がしなくなり、あたりは沈黙に包まれた。
     お湯が沸いた。予想以上の音に一瞬驚いたが、すぐにポットの音だと判断し、コーヒーの粉末にお湯をゆっくり流し込んだ。熱い。
     食堂を確認すべきか、或いはしないべきか。弘人は考えた。確認ぐらいはしたほうがよいのではないか。
     熱いコーヒーを持って、葛藤の末、食堂に入ると、倒れている人影が見えた。そっと顔を覗き込むと、それは異常に冷たい人だった。
     顔を見ると、生きているとは思えないぐらい青く、生気が感じられない。 そっと心臓に触れてみると、鼓動をやめていた。彼は状況を全く理解できていなかった。
     数秒して、彼は思考回路が追いつくと、驚いてコーヒーを零してしまった。
     (そうか、これは・・・)
     弘人は大声を出した。今後10年は出さないであろうその声で。
     「デルタ!今すぐ電気を付けて!全員を食堂に来るよう、伝えろ!人が死んでいる!」
     デルタの反応は早い。
     「チェック。受け入れました。電気を付け、全員を食堂に誘導し、至急警察に連絡します。」
     バチッという音とともに、一斉に電気が付いた。まぶしくて目を瞑る。目が慣れたタイミングで、彼は目をあけ、もう一度倒れている男性を確認する。
     彼は息をのんだ。男性は・・・、向田だった。
     バタバタという音と共に、人が増えた。最初は深谷、最後は古城だった。彼は全員を見た後に言う。
     「・・・私がコーヒーを飲むために給湯室に向かうと、誰かがこの食堂で作業しているのが見えました。私はその人物が出ていくのを確認して、食堂に入ると・・・、このさまですよ、ジョークにもならない。」
     男は死んでいた。首には紐が括り付けられている。自殺か、或いは、
     「・・・他殺かもしれない。」
     全員、その彼の言葉に驚愕した様子だ。
     「とにかく、今は出来るだけこの部屋に居続けましょう。離れればかえって危ない。」
                     3
     警察の到着には時間を要することが判明した。それもそのはず、この伊小多研究所は山の上にあり、さらにマップには表示されないようになっているのである。なぜわざわざその仕掛けを用意したかは、不明だ。
     とにかく部屋を見よう。そう思い、弘人は座っていた椅子から離れ、部屋を一周した。自分が部屋から出てい
    く犯人を見ていないことがとても気になった。南にのみ廊下がある為、この場合、わざわざ南側を通ったとでも
    いうのだろうか。それなら、もうすでに弘人がその場にいたことがわかっていたのかもしれない。そう思うと身震いをした。
     全員の名前を確認しておこうと、弘人は考えた。「みなさん、とりあえず、名前を教えてくださいますか?」
     「そうですね。その必要はあるかと」そういったのは、教授の男だった。「貴方は今日、いや、もう昨日かな、新しくやってきた助教授でしょう?」
     「ええ、そうです」弘人は返事をした。「教授、どこに行っていたのですか?」
     「ゼミ室ですよ。そのあと、疲れで寝てしまってねえ、それで、これですよ」教授の男は頭をかきながら、まいったなあという表情でいる。「私は、深谷 凪です。よろしく、林田さん」そういい、握手を求めてきた。弘人はその手を握り返し、他の人物にも聞いていった。
     「貴方は、事務室にいらっしゃいましたね?」そう聞くと、男は一瞬ビクッと動いたが、調子を取り戻し、言った。「あ、ああ、ええ。あ、あの、丹波 修司です、おねがいします」だいぶ気が動転しているのか、最後は最早聞き取れないほどの声量であった。
     「私は、宮下 登です。林田さん、移動して最初の日にこれは、縁起が悪いですなあ」そういい、無理にも笑っているのは、助手である。元々、弘人が来た時、助手と教授はいなかったため、挨拶が出来なかったのだった。ここの人間は時間にルーズである。「ええ、まいりましたよ」そう言うと、宮下は暗い表情に戻った。
     あとはあの事務員の古城 花もいた。眠そうな顔である。状況をいまいち理解できていないと思われる。
     つまり、この施設内には、被害者を含め、6人の人間がいたことになる。丹波と古城によると、この時間、誰も外に出ていないことがわかった。つまり、最悪このなかに殺人鬼がいるのである。否、確実に、である。これほどまでに窮屈な時間はない。彼はコップを片づけた。
     古城が近寄ってきた。「あの、林野さん、冷静ですね。慣れているんですか?」その悍ましい問を聞いて、彼は頭を振る。「いや、初めてだよ。慣れたくもない。冷静でもないよ。」
     「嘘だ。目の前に死人がいるのに、コーヒーのカップを捨てる人なんて、見たことないわ。」古城は笑っている。弘人は、最早怖いまであるその笑顔を見ないように、「・・・君は目の前で死んだ人を見たことがあるのかね?」と聞いた。「ありません。小説で読んだだけです」彼女はそう答えた。
     「小説はいいね。こちらはずっと傍観者だ。ただ、物語内の人物は傍観者ではない。」そういうと、彼女は意外にもこういった。「あちらは傍観者、こちらは関係者、というわけですか。現実に、傍観者、もとい観察者はいるのでしょうか?」彼は言う。「定義が出来ないから、観察者はいないよ。残念だけどね」彼はそう言って、新しくコーヒーの準備をした。「じゃあ、傍観者はいるのですか?」彼女は問う。「いるね。系のエントロピー増大を観測する、熱力学的な平衡から遠く離れた存在が。」彼はそう言って、湯気を立てるコーヒーを古城に差し出した。「ふうん」彼女はコーヒーを受け取り、不思議そうな顔をした。「難しいことをおっしゃるのね、林田さん。」
     全員が数分経つと安定を取り戻した。あのオミクロン的空間も、少しずつ冷静さを取り戻している。雨は降りやみ、辺りは静けさが充満している。
     「あの、窓を開けても?」弘人は言う。「いえ、換気扇でいいでしょう。窓を開けても、気分転換にはなりませんよ。開口部の面積と風速の積分の期待値は、換気扇の定常的な流量と本質的に等価ですから。」深谷は言う。それを聞いて、弘人はなんと数学的で、適切で、それでいて涼しい解答だろうと思った。「ええ、そうですね。そうです。そうしましょう。」
     古城はコーヒーを持ったまま、死体を眺め、「・・・気持ちが悪いわ」と言った。彼は同意した。そうだ。気持ちが悪い。感覚論ではあるが、薄気味悪さを兼ね備えている。「・・・そうだね、気持ちが悪い。」彼は言い、問いかけた。「・・・ねえ、古城さん、ブラックは飲めない?」
     彼女はこちらを向き、言った。「いえ、熱すぎるだけですよ。熱いのは苦手、物理的にも、精神的にも。」彼はその解に驚いた。熱は物体を構成する原子や分子の運動エネルギーの事だ。ただ、移動の伝搬というものに対して、「精神的」は意外にも適切な答えだった。
     彼は言った。「・・・そうだね。その熱は、確かに、触れれば肌を焦がし、記憶に触れれば心を灼く」彼はそう言って、自分のコーヒーカップをそっと見つめた。
     元来、彼はこのような精神的なものの類が苦手だった。好きか嫌いかは、効率を照らし合わせて話している。
     もともと、協調性のない。それは、弘人自身が一番理解していた。
     心臓に悪いくらいの空気感が嫌いだ。この人が好きとか、この人が嫌いとか、そのような類が嫌いだった。そもそも、そのことを話していて平和的な状況の所を見たためしがない。かくかくしかじかにも入らない、そんなしょうもない物が、彼は嫌いだった。
     ある日、全員で文化祭の出し物を決めていた。風鈴が泣く夏の日。彼はその中、ひとりで本を読んでいた。静かに、全体を定期的に見ながら、その輝かしいクラスメートをゆっくりと見て、ミステリーを読んだ。
     その時、吹いた風と共に、彼は思ったのだ。もしかしたら、自分は逃げているのではないか。輝かしいクラスメートから。意外にも建設的な対話から。笑顔から。恋から。人から。拒絶して、隔離して、逃げていた。それも、これも、全部自己満足だった。協調性のない、端っこに追いやられた埃なのだと。誇りなどないのだと。自分はいるだけの存在で、きっと、いなくなっても・・・。
     そんなことを考えていたら、頭が痛くなった。制服がいつもより邪魔に感じた。今までクラスメートに対して抱いた苛立ちも、何もかも、自分勝手な不可思議な理論だった。収集がつかないのだった。
     森の中で、一気に叫びたい。右手の指を眺めて、笑いたい。こんなに、しょうもないのだと。こんなちっぽけなくせに、自分だけの世界で、小さな脳で、小さな視界で、全部わかっていた気になっていた。
     誰も殴ってくれなかった。その手で。誰も、気にすらしなかった。流動性のこの箱の中で、障害物になって、知らないふりをして、冷たくなって、凍った。背伸びすらしなかった。それで十分だと思っていた。
     彼は過ちに気付いた。初めて、人の心を考えて、苦しくなった。
     恋ではなく、憧れでなく、苛立ちでなく、悲しみでない。
     ただ、夏のその鋭き日差しの下で、震えて、手を掲げて、助けてくれと泣き叫びたかった。自分の小ささに気付いた。風が吹いて、彼を遠くに飛ばすのではないかと思った。
     実際、彼は、誰かが理解してくれると甘えていた。来てくれると、笑ってくれると、友達だと言ってくれると信じていた。馬鹿だった。そんな、空想を抱えてこの学生生活を過ごしていたのでなかったのに・・・!
     彼は、明らかに、あの瞬間、人として成長した。初めての感触だった。
    古城がこちらを見た。「・・・林田さん?なんか、なつかしい顔をしていますね。どうかしましたか」
    弘人はしんみりとした顔で言った。「・・・大丈夫。夢を見ていただけだよ。綺麗な」そう発言して、はっとして、言い換えた。「・・・夢じゃない。僕の、大切な、宝者たちだ。」


    全てのURLはDATA  αに記載。
    DATA  α「ギリシャ的前書き」
    https://note.com/jolly_zebra1122/n/n42710cec170b
    DATA  A「無限の観察者」
    ➟当記事
    DATA  B「時計の長針」
    ➟https://note.com/jolly_zebra1122/n/n8240bd58d7af
    DATA  C「無機質の声」
    ➟https://note.com/jolly_zebra1122/n/n66f87f3d1b2c
    DATA  D「沈黙の箱」
    ➟https://note.com/jolly_zebra1122/n/n71163340d808
    DATA  E「狂詩曲の花」
    ➟https://note.com/jolly_zebra1122/n/n264437dfce84
    DATA  F「再度の来訪者」
    ➟https://note.com/jolly_zebra1122/n/n94728964a97d
    DATA ω「背後の解説」
    ➟https://note.com/jolly_zebra1122/n/n29874adbf2af

     
     
     
    色々なことを悠々自適に考えて、適当に書き連ねます。

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